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 雪がちらつく。風が宙の雪をプラットホームに押し込む。
「まもなく高校前行きが発車いたします」
 雪の日はやけに音が良く響く。背後の電車は多くの人を吞んで、プシュウと荒い鼻息を立てた。乗らなければならない電車。一時間目まであと三十分もない。早くしないといけないけれど、そうしたらば、今日も型通りの一日がぼうと流れていく。
「ドアが閉まります。ご注意ください」
 自分の中の常識が「立て」と尻が冷えるベンチから引っ張り上げようとしていたが、虚しくも背中で冷たさが刺す風が吹き去っていった。
振り返る。電車に隠れていた風景は、どこまでもつづくススキの海原で、黄金の穂に粉砂糖がふりかかっていた。
 さみしい日の海はどんなものだろう。
 ぽつりと沸いた好奇心は立ち上がる力を与えるのに十分だった。
 目の前には、海が見える駅まで走る電車がとまっている。橙色の光に飛び込むと、ドアが閉まった。電車が動く。人がまばらな車内で、適当にボックス席に腰を下ろした。座ったとき、ドスンと大きな音がした。そのとき、自分自身と駆け落ちをしているような淡い罪を感じた。
「サボったってバレたら、親がうるさいな」
どうしたの、学校で何かあったのとか。毎日「真面目な優等生」を頑張ってるんだから、一日ぐらい大目にみてくれよ。
 座席に膝を立てて、電車の尻のほうの車両から駅を見た。小さくなる駅を見て、缶コーヒーを飲み干した。冷たくなった味噌汁を飲んでいるようだった。

 終点のアナウンスに目を覚ました。暖房が良くって、スマホをいじっているうちに寝た。床に落ちたカバンを慌てて拾い上げ、ドアを出た。
「どこまでも澄み渡る青空」
なんて、夏だったら言ってもいいだろうけど、実際は濁り渡った曇り空だ。さっきと変わらない空だけど、風は粘っこい潮の匂いがした。駅からすぐに広がる海が見える。灰色の海。この駅は、崖の上に建てられているようで、周囲には欄干がはりめぐらされていた。その潮にやられた鉄パイプに寄りかかった。
さっきの駅はススキの海原だった。ほんの数時間と移動しただけでこうも景色が違うんだ。思えば、ここに来るまでにとまった駅もひとつひとつ表情が違った。電光板とビルがうるさい駅。絵に描いたような閑静な住宅に囲まれた駅。切り立った断崖の中にある駅では、そびえる巌(いわお)のくぼみに、シダやドクダミが生えていた。
世界って広いなぁ。あの時、学校行きの電車に乗っていなかったら、見られなかった光景ばかりだ。勝ち組。自分はそうなんじゃないかと一瞬思ったけれど、大人しく学校に通った人たちのよりも負けているような気がした。
「結局、どうしたいんだ。わたしは」
 頬杖をついて、波の律動に目を凝らしていると、ちいさな綿がよぎった。天気が追いついてきた。牡丹雪が白波の間に、次々と溶けていく。雲になった水たちが、海が恋しくて戻ってきたようだった。
 帰るか。
 見るものは見た。ほんの小旅行はおわり。
 ホームには帰りの電車がとまっていた。ふたたび温かいオレンジの光に入っていった。
 少しだけ世界は広いんだ、と感じた遠い昔の思い出。

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