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ふりそで

霧のような雨が降りしきる日だった。いつもの時間に店は開けたものの、こんな日に着物を借りて鎌倉で遊ぶ客がいるわけがない。着物レンタルショップ「あや」の店内は、時計の音だけが響き渡っていた。
全部の着物、虫干しだな。カビが生える。
「だから雨は嫌いなんだ」
店の奥の座敷に引っ込んだ店主の瑠璃は、窓を伝う水滴の流れを目で追った。膝の上には、長襦袢が広がっている。さっきまで半衿をつけかえようと無心に針を動かしていたが、針先で指を刺した痛みで気が散った。それから、ずっとぼんやりと窓を眺めたままだった。
 久しぶりに「細雪」でも読みなおすか、と思った矢先、店の扉のベルが鳴った。慌てて瑠璃は立ち上がる。姿見で衿元や裾を整え、奥と店内を隔てるのれんをくぐった。
「いらっしゃいませ」
 湿った土の匂いをはらんだ風。それとともに、人が入ってきた。黒いパーカーにフードを深くかぶっている。顔が見えない。強盗。その言葉が脳裏を掠った。
「着付け、してくれますか」
 くぐもった声のあと、その人は水気を吸って重ったるいフードをとった。栗色の巻き毛がかった長い髪がこぼれる。それから欧州の女の顔があらわれた。
 瑠璃は戸惑った。店には外国人の客が来ることは珍しくない。瑠璃も英語で接客できる。ただ、その客が綺麗な日本語を話したのに、違和感を覚えた。日本語はわかりますか、と英語で聞いてみる。一瞬、翡翠のような碧眼が宙をさまよったが、
「はい、まあ」
 と、返した。その返事も、日本人らしかった。それに、霞がかった声も、女の声にしては不自然だと感じた。 
客は毛先を指でくるくると巻きつけて、瑠璃の顔をうかがう。引っ掛かりだらけの客。けれど、雨の日にわざわざ足を運んでくれた客にかわりはない。瑠璃は、では、こちらでご説明いたします、と店に通した。
「こちらが貸し出し可能な着物のカタログでございます」
カウンターテーブルに座った客は、瑠璃から差し出されたカタログを受け取り、ページを開いた。
「これにしてください」
客がまっすぐに指をさしたのは、振袖の写真だった。浅葱色の布地に菊と扇子の文様があしらわれた振袖。文様は金や銀の糸を織り交ぜた、豪奢な仕様だ。年代を重ねているがゆえに、全体がやや色褪せがかっているが、それが趣を深めている。
「もう少し、他の着物をご覧にならなくてよろしいのですか」
はじめの数ページをめくっただけで決めたので、瑠璃は声をあげた。
「これにしてください」
客は再度、言い切った。力がこもった声に、瑠璃はそれ以上なにも言えなかった。
更衣室で、白いTシャツと短パンに着替えてもらうと、四畳ほどの和室に案内する。そこで瑠璃は慣れた手つきで、紅の長襦袢を着せ、その上から振袖を羽織らせる。
「帯を巻かせていただきます。苦しかったらお申し付け下さい」
 客はコクリと縦に頷いた。瑠璃はそれを認めると、銀の袋帯を客の胸の下にあてる。客の体型に合わせ、最後に結ぶために残しておく帯の長さを決めると、客の背後にまわり、抱きしめるように身体に巻きつけていく。
おはしょりが乱れないように、腰に手を当てた。その時、瑠璃は、あ、と声をあげた。帯をつかんだまま立ち尽くす。瞳があちらこちらを泳ぎまわって仕方がない。
「どうかしました」
客が姿見ごしに、瑠璃の顔を見る。
「いえいえ。帯の刺繍にほつれがあったものですから」
 直しときましたんで、と無理やり笑うと、帯を持ちなおした。 
 帯を巻きおわり、外れないようにあまった帯をクリップで留める。前にまわり、衿元の乱れを整えながら客の顔を盗み見た。
 ふくらみを帯びた唇はワインレッドの口紅が塗られている。碧眼がおさまった目蓋は鋭いアイラインがはしっている。雑踏の中ですれ違ったら、思わず立ち止まり振り向かせる力を持った女の顔だ。
 けれど、客の身体に触れた瑠璃の手が感じたのは、ごつごつと骨ばった感触だった。以前、男性の着付けをした時に感じた身体つきと同じように感じた。
 瑠璃は目で客の頬をなぞり、首元にたどり着く。そこには、角を研磨した石ころを思わせる、喉仏があった。やっぱり、と確信を抱いた。
「店主ですか」 
「はい?」
瑠璃は、間抜けな声をあげた。
「店員さんが他に見当たらないから」
「はい、私がひとりで店を経営してます」
「大変ですね。昔から鎌倉でレンタルショップを?」
「前は呉服屋をやってました。店舗を祖母から譲りうけて、改装して、今の店に」
 古都鎌倉で着物を着て遊べる。これがSNSで話題になった。閑古鳥が鳴きっぱなしだった呉服屋は、今や若者がつめかける人気店に姿を変えた。
「そうですか」
客はうつむいた。姿見にかけた紐が、だらりと垂れ下がっている。 
「この着物の柄、素敵ですね。刺繍ですか?」
 客は胸元に咲く、大輪の菊に手をあてる。
「綺麗でしょう。でも、刺繍じゃないんです。織物です」
 客は目を丸くした。
「はたおり、ですか。鶴の恩返しみたいに?」
「そうです。西陣織りっていう織物で、糸の一本一本をくくって、文様を浮かびあがらせているんです」
 声を上げて驚く客に、ふふっ、と笑みをこぼす。
「着物って、こだわるんですね」
「細かいところまでこだわるファッションですから」
 半衿とか、足袋とか、と指を折る。
「帯揚げや帯締め、草履の鼻緒にまでこだわります。季節や場所にあわせて、文様や帯の結び方も選びます」
「それも醍醐味のひとつというか。楽しくて、着る前から気分が華やいで」
 そこで瑠璃は、我に返った。熱が入りすぎた。姿見を見ると、キョトンとした表情を浮かべた客がいた。やってしまった。瑠璃は居づらい気分になった。
「着物、好きなんですね」
 姿見に微笑みがうつる。失礼しました、と帯を結びはじめた。
「では、四時間後に店にお戻りください」
 いってらっしゃいませ、と瑠璃は礼をした。客は借りた傘をさして、小町通りの濡れた石畳の坂を下る。雨風が、たもとに施された扇子の文様をなびかせていた。
 その客は四時間を過ぎても、あくる日も、店に戻らなかった。

三日目の昼。瑠璃は店内の接客用のカウンターテーブルに座り、数枚の書類を見ていた。例の振袖の写真。それに貼られた「四時間コース」と書かれた付箋。名前欄にエレナ・シモーニと書かれた契約書。
「この名前も偽名臭いし」
それに、日本語のやり取りがあまりにもスムーズだった。西洋人かどうかも、怪しい。瑠璃は書類をにらみながら、もなかに噛り付く。なめらかな舌触りのあんこを冷茶で流し込んだ。
その時、甲高い電子音が耳を刺激した。瑠璃はすぐに固定電話の受話器をとった。
「着物レンタルショップ『あや』の店長の日滝です」
「三日前に振袖を借りた者です」
鼓膜をくすぐったのは、あのくぐもった声だった。瑠璃は受話器を両手で持ちなおす。
「エレナ・シモーニ様ですね」
はい、と陰りを含んだ答えが返る。
「すぐに鎌倉に行きます。返すのが遅れて、本当にすみません」
「わかりました。何時ごろに」
 到着できますか、と言おうとした時、かすかに、木魚のリズムと読経が聞こえるのに気付いた。
「不躾なことをきくようで申し訳ありません。もしかして、お葬式をなさっていますか?」
 小雨のようなノイズが流れる。ややあって、はい、と答えた。
「お客様はどちらにいらっしゃいますか?」
「……家です。契約書に書いた住所の」
渋りがちな声に、瑠璃は穏やかな口調で言う。
「ご葬儀が、お忙しいようでしたら。私が振袖を引き取りに参ります」
「……おねがいできますか」
瑠璃は最寄り駅を教えてもらうと、支度を始めた。
三日も返却に来なかったことは、許せない。あの振袖は、祖母が呉服屋をやっていた頃、店先のショーウィンドウに飾られていた品だ。祖母がなんとか屋台骨を支えて、呉服屋をつづけていた頃の名残りだ。本当は誰にも貸さないで、綺麗なまま、たんすの中にしまっておきたかった。

「着物は飾り物じゃないからね。誰かが袖を通さなきゃ、宝の持ち腐れだよ」
 ま、店をたたむんだ、どうでもいいさね。病室のベッドに横たわった祖母の手を、紺のセーラー服を着た瑠璃はそっと握り締める。
「やめないよ。私が継ぐから」
 力がこもった言葉に、祖母は鼻でふふっと笑った。
「やめなさい。今の時代、着物を着たがる客はいないんだよ。『着物は金持ちの道楽』さ」
 まだ、それを。
瑠璃は小さく溜め息をついた。「着物は金持ちの道楽」。店に来た客が放った一言だ。
「母には申し訳ないけれどね。あの店は今やアンタたちの癌だ」
 店を始めた曾祖母を思い出すように、遠い目で天井を見ると、目を閉じた。
「瑠璃、アンタは珍しい子なんだよ。着物の防虫剤の匂いが好きな子はね。小学生の頃、着付けを教えてくれってせがんで。帯がうまく結べないって、泣きじゃくるわ、地団駄ふんで暴れるわ」
 そんなこと覚えてなくていいよ、と瑠璃は苦笑った。
 着物を着ると、お姫様に生まれ変わったような気持ちになれます。心がシャキッとして、なんだか自分に、自信がもてます。
 小学校で書いた作文の一文。高校生になっても瑠璃はあの頃から変わらない。
「いつか、着物はなくなる。悲しいよ。そんなことは」
「好きだけで、着物は売れないよ」
「売る以外にも方法はあるよ」
「どうだかね」
 祖母はそっぽを向いて、わざとらしく寝息をたてはじめた。また来るよ、と瑠璃は椅子から腰をあげようとした。
「店を持つなら、どんな客でも大事になさい」
 瑠璃は目を丸くして、祖母を見た。ふたたび寝息をたてていた。
 
喪服を着込み、肩にボストンバッグをかけた瑠璃は、教えられた駅のプラットホームに降り立った。小高い崖の切り通しに駅があるためか、涼しい風が通り抜ける。崖の岩肌は荒々しい。そのくぼみから、シダが葉を伸ばしていた。
スマホの地図アプリをたよりに、入り組んだ住宅街を進む。太陽の熱を吸ったアスファルトに黒い草履が擦れて、足の裏が熱くなった。画面が目的地到着の表示に切り替わった。顔を上げると、瓦屋根が並ぶ日本家屋の前だった。格子扉がついた玄関では、表情を消した参列者たちが出入りしている。瑠璃は衿を整えると、玄関に足を踏み入れた。
焼香をあげ、祭壇の前で手を合わせる。白い菊に囲まれた遺影の中で、下がり気味の目元が柔らかい、上品な老夫人が微笑んでいる。その顔に覚えがない瑠璃は、安らかにおやすみください、としか祈れなかった。遺族に一礼すると、座布団に座る参列者たちを見まわす。一様にうつむいた人々の中に、西洋人の影はない。誰かに聞いてみるか、とそばを通りかかった人を引き止めようした時だった。
「日滝さん」
ひそめた声で、苗字を呼ばれた。エレナだ。声がした方を向くと、隣の和室に通じるふすまが半開きになっている。おそるおそる覗くと、葬儀に似つかわしくない浅葱色の振袖を着た人が佇んでいた。
 だれっ
 両手で口を押さえていなかったら、瑠璃はそう叫ぶところだっただろう。
 短く刈り上げられた黒髪。顔の彫りは浅く、松の針葉のような糸目。あの欧州美女と似つかない、素朴な顔立ちの日本人男性が手招いている。日滝さん、と男が呼ぶ。瑠璃は戸惑いながらも、部屋に入った。
「返却、遅れてしまってスミマセンでしたっ」
 ヤンキーの舎弟が兄貴に許しを乞うような平謝りに、瑠璃は後ずさった。
「念のため、確認させていただきますが、エレナ・シモーニ様で、お間違いないでしょうか」
 ふすまの間から、参列者のいぶかしげな視線を感じる。変な誤解をしないでほしい、と瑠璃は心から願った。 
「……はい、俺がエレナです」
 赤く上気した顔を隠すように、男はうつむいた。よく見ると、頬や顎の輪郭がエレナと重なる。
「あの、散々迷惑かけといて、失礼というか。重ねてお願いがあるんですけど」
瑠璃の白黒させている目を、まっすぐに見る。
「着物、脱がすの手伝ってください。お願いしますっ」
 男は再び頭を下げた。

葬儀の家から近いアパートが、男の家だった。そこのリビングで振袖を脱がした。すっかり形が歪になった太鼓結びを解き、うっすらと皺が浮かぶ振袖を剥いた。着崩れた長襦袢を取り払うと、汗と着物の防虫剤が混ざった臭いが、ツンと瑠璃の鼻をつく。瑠璃は顔をしかめた。
「すみません。シャワー浴びてきます」
 男は白いTシャツ姿のまま、洗面所に飛び込みドアを閉めた。
 もしかして、三日間もお風呂に入ってなかったの。
 嫌悪を通り越して、あきれて笑いがこみあげてくる。瑠璃は苦笑しつつ、改めてリビングを見まわした。壁が本棚で埋めつくされた部屋だ。隙間なく並べられている本の多くは、漫画よりも小説、それも近代文学の作品だ。
 あ、細雪
 瑠璃は自身が気に入っている本の上下巻を発見して、なかなかいい趣味をしている、と思った。
ボストンバッグに、振袖や道具を全て入れ終えた。ちょうどその頃に、男が洗面所から戻ってきた。
「汚さないように生活してはいたんですけど。垢汚れだとか、ひどいですか?」
 濡れた髪をタオルで拭きながら男は訊く。
「長襦袢も振袖も衿元に黄ばみがあります。皺がよってる箇所もありました。けれど、専門のクリーニングに頼めば何の問題もありません」
 それを聞いて男は、よかったあ、と胸に手を当てた。              
「何か飲みますか。と言っても、麦茶しかないんですけど」
台所にむかった男は、食器棚からグラスを取り出す。
「お葬式のお手伝いはなさらなくていいんですか」
 瑠璃は気遣わしげに訊いた。
「いいんですよ。これ以上、親族でもない人が出る幕はありませんから」
からりと言うと、男は麦茶が注がれたグラスを持ってきた。瑠璃はテーブルに座り、いただきます、と麦茶を口に含む。冷たくて、喉の筋肉がキュッと縮んだ。
「顔のあれってメイクだったんですか」
 グラスをつたう水滴を眺めながら、瑠璃は訊いた。瑠璃の向かいに座った男は、頷いた。
「そうです。ネットで西洋人にみえるメイクを調べて。目の色はカラコンです」
「男性だとはわかりましたけれど、最初、外国人の方だと思いました。メイク、お上手なんですね」
 女として、負けた気がした。彼にメイクを教えてもらおうかしら、と思った。
「やっぱり、バレてましたよね。男って」
 男は頭を掻くと、麦茶をあおった。
 窓から日が差し込み、本棚の背表紙たちを照らす。遠くのほうで雀のさえずりが聞えた。
「俺の名前は、藍(らん)太郎(たろう)です。エレナ・シモーニは、さっきの家のおばあちゃん、葬式の仏の娘さんです」
 藍太郎は静かに話しはじめた。
老婦人はかつて、恋愛関係にあった男がいた。イタリア人の男で、通訳の仕事をしていた彼女とは、最初は仕事の付き合いでしかなかった。けれど、一緒にいるうちに互いは惹かれ合った二人は、やがて結婚し、女の子が生まれた。
「その女の子がエレナ。天使のように可愛いって、おばあちゃんに写真をみせてもらったことがあります」
 七五三の大泣き、ひな祭りで食べあった桜餅、夏祭りでこぼしたカキ氷、動物園で初めて見たゾウの長い鼻。エレナと過ごす日々は彼女の宝物だった。          
しかし、その日々は夫の不倫がきっかけで幕をおろすこととなった。許せなかった彼女は、離婚を決めた。彼女は夫に、慰謝料などを要求しない代わりにエレナの親権を渡してほしい、と頼んだ。
「けれど、夫は『エレナにとっての幸せはイタリアで暮らすことだ』だとか、言いがかりをつけて、誘拐に近いかたちでイタリアに連れ去って行ったんです」
「それきり、おばあちゃんは、二度とエレナに会えないまま死んだ」
 聞いているだけで胸が痛む話だ。けれども瑠璃は、藍太郎がこの話をした意図がわからなかった。
「おばあちゃんは、エレナと約束をしたんです」
 やくそく、と瑠璃もとなえる。藍太郎はうなずくと、瑠璃の目をまっすぐに見た。
「夫の裏切りを知る前。鎌倉に遊びに行ったとき。小町通りの呉服屋の前を通りかかったんです。その店のショーウィンドウに飾れていた着物をエレナは欲しがった」
菊と扇子の模様が入った水色の着物を。
瑠璃は胸に電気が走った心地がした。
「まさか」
「日滝さんのおばあさんがやっていた呉服屋です」
瑠璃は唾を飲み込んだ。
「だだをこねるエレナに、おばあちゃんは言ったんです。『エレナの成人式で着せてあげる』って。でも、結局・・・」
 藍太郎は膝に置いた手を握りしめる。
「おばあちゃんは、余命宣告を受けて、自宅で療養していました。意識を失ったり、取り戻したりの繰り返し。いつ迎えが来てもおかしくなった。だから、形だけでも約束を果たしてあげたいと思って」 
「俺がエレナになって、おばあちゃんのそばにいたかった」
瑠璃は藍太郎の赤い目元を見つめた。もしも、状況が違っていれば、老婦人と愛娘は、瑠璃の店にやってきたかもしれない。人生は巡り合わせでできている、と瑠璃は思った。
「でも、どうしてあなたが」
 瑠璃の問いに、藍太郎は、はにかんだような笑みを浮かべた。    
「俺の家は母子家庭で、母親は朝も夜も働きづめでした。ガキの頃は家にいてもひとり。学校の友達もいなかった。寂しさをまぎらわすため、町の図書館に入り浸っていました」
「そこで、おばあちゃんと出会ったんです。おばあちゃんは俺をとても可愛がってくれました。お菓子をくれたり、一緒に面白かった本の話をしたり。本当の孫のように可愛がってくれました」
すみません、と嗚咽にまみれた声で言うと、藍太郎は固く目をつむった。
「謝らなくていい」
 瑠璃は藍太郎のそばに寄る。
ふと、祖母の葬式を思い出した。
遺品整理をしていた時、祖母のたんすの中から瑠璃の名前が書かれた営業権譲渡契約書が見つかった。瑠璃は契約書を握り締めて、思った。儲けられなくてもいい。誰かの思い出や笑顔を彩る店をつくろう。着やすい洋服に敵わないけれど、着物には人の心を動かす力があることを信じて。「どんな客でも大事にすること」を守って。
私たちはどうしようもないくらい、おばあちゃん子なんだ。
瑠璃は、とんとん、と藍太郎の背中をなでた。

 玄関で草履にはきかえていると、送ります、と藍太郎が言った。悪いから、と断ろうとした時には、ボストンバッグを取られて部屋の外に出ていた。日はとうに西へ沈んだ。あせた水色が世界を染め上げている。二人はアスファルトの道を並んで歩いた。藍太郎を横目に見る。少しだけ、大人びた目元になった気がした。
駅のプラットホームのベンチに二人は腰掛ける。電光板に五分後到着の文字がきらめく。藍太郎を見ると、空の遠いところを見ている目をしていた。
「本棚に『細雪』がありますよね。谷崎の」
 はっと息をして、藍太郎は顔をむける。
「ああ。読んだことがあるんですか?」
「はい。綺麗な着物がいっぱい出てくるから」
 また、おかしいことを言ったかな、と思った。おのずと、声が小さくなった。
「日滝さんは本当に着物が好きなんですね」
 藍太郎は微笑んだ。いじくるような笑い方ではなく、寄り添うような笑みだった。三日前も、彼はこんな笑みを浮かべていた。
「俺だけなんじゃないかと思っていました。周りの俺ぐらいの歳の人って、近代文学とか読んでるの少ないから」
「だから、うれしいです。会えて」
 藍太郎は、目線をそらす。
「私もです」
 と、言おうとした時、電車がホームに入ってきた。生温かい風が、頬に触れる。金まじりの轟音が響き渡った。藍太郎が、何かを言った。けれど、轟音に負けて途切れ途切れにしか聞こえない。瑠璃は、もう一度、と人差し指を立てる。電車がゆるやかに速度を落とした。
「また、日滝さんのお店に行ってもいいですか?」
 やっと耳に届いた声に、瑠璃は固まった。藍太郎は不安そうに瑠璃の顔を見る。まもなく発車です、とベルが鳴り響いた。
 瑠璃は、縦に大きく頷いた。立ち上がり、電車の閉まりそうなドアに滑り込む。すぐに窓に食いつくと、藍太郎が手を振っていた。
「また、こんど」
 聞こえないけれど、口の動きでそう言っているのがわかった。
「また、こんど」
 瑠璃も、口の動きだけで伝えた。
 視界から藍太郎が、少しずつズレて、やがて消えた。次に窓から見えたのは、ちらほらと明かりが灯る夜の景色だった。
 瑠璃は胸の奥からわく笑みを口元に宿して、膨らんだボストンバッグをなでた。

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