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輝きと消滅の調べ

本当に何年ぶりだろうか。
いや、数十年ぶりかもしれない。
もう正確に思い出すことはできない。
先日、母親に聞けば、はっきりとは分からないけれど、家族で行ったことはあるみたい。
5日、仲間たちと花火大会に行ってきました。
「淀川花火大会」へ。

生前、父親はとにかく花火や屋台が大好きだった。
人の集まる、わいわいしている、楽しそうなところが好きだった。
毎年、夏の花火大会が近づいてくると、一緒に行こうと僕を誘ってくれた。
なかでも、とくに多かったのは「淀川花火大会」に行こうとの誘いだった。
そして僕は、暑いだの、シンドイだの、興味がないだの、家から見えるだの、あらゆる理由を付けて誘いを断り続けてしまった。
父親はひとりで花火大会に行っていた。
感想などは何も言わなかった。

僕がまだ小さかったころ、記憶も定かでない頃、家族は十三に住んでいて、河川敷は目の先だったそうだ。
ほどなく引越しをして、けれど行き先は決して遠く離れたところではなかった。
だからなおさら、父親には淀川や界隈に思い入れが続いたのだろう。
いろいろなたくさんの後悔は、いつだっていつも後から忘れずにやってきて、頭のすぐ頭上をいつまでも旋回し続ける。

僕の部屋から、淀川の花火は、遥かはるか小さくではあるけれど見えて、音だって聞こえた。
だからこれまでだって、花火大会に行こうとの発想もなかったし、父親以外に誘われたこともなかったし、花火は部屋の窓から見える小さな小さな輪のきらめきだと、そういうものだと、幻想やファンタジーのようなものだと、そう思っていた。

僕も歳を取ったのか、父親への詫びなのか、分からないけれど、淀川花火大会に行きたくなった。
今年は部屋の窓からじゃなく、赴いて観たくなった。
同僚の仲間たちに声をかけたら、いいよ、行こうって言ってくれた人がいて、有料席のチケットも運よく取れた。
うれしかった。
今年の淀川花火大会は、コロナ禍以降、ある意味すべてが解放されて、すべての数が尋常ではないとの噂だった。
いちおう前もって最寄駅の車掌さんに、何時くらいの集合であれば無難か、それと有料席の場所を聞いた。
とても親切に教えてくれて、それでも暑いなか、どっち?こっち?とかは嫌だったので、前日の夜に念のため、会場近くまで下見をした。
夜であっても、汗がふき出て、これはもう、ひょっとしたら、人間の住める場所ではなくなっているのでは、などと地球の気を揉んだ。

待ち合わせ時間には、すでに相当な人が溢れていて、暑すぎるなか、皮膚が弱いので心配はあったけれど、帽子、タオル、アイスノンを携えて、さらに下見の甲斐あって、会場までスムーズに到着できた。

うわーすご。
見渡す限りひらけた河川敷。芝生。イスの群れ。
時折吹く涼しい風もやっぱり優しくて、ビール片手にあいあいと談笑し、開演までゆるやかに過ぎていった。
となりの屋台では、小麦色の若人が、アルバイトをがんばっていた。

陽もすっかりと落ちて何かが高まって、きっちり19時半に花火は打ち上がった。
ドドーンドドーン。ドドドド、ドーン。
みんなの目の先に。
ヒューウーン。
一直線にどこまで高く上がっていくの。
ババババ、バーン。
みんなの歓声が。

音の響きと大きな大きな輪は次々とやってきて、まじかで観る迫力に歓喜と閉口が交互に押し寄せた。
斜めまえの小さな女の子が泣き出していた。
そりゃ仕方ないよ。
音楽のリズムと花火の波長が合わさって、えっ、これってリハーサルなんか出来ないよね。
一発勝負だよなあ。職人さん、すごすぎる。

30分くらい過ぎたころ、なぜだか急に泣き出しそうになってきた。
分からない。
感情が揺れる。
輝き放ち、直ぐに消えて、また輝いて。
父親の願いのように感じてしまった。
父親とこの花火を見たかった。
もう叶わないけれど、素直にそう思った。
フィナーレの壮大な枝垂れの模様に、時は数秒とまって、そしてやっぱり動き出した。
本当に来てよかった。
一緒に行ってくれた仲間に感謝します。
ありがとう。

「一緒についてきて」
家を出るとき、仏壇の父親にそう言った。
きっと、同じ花火を同じように見てくれる、そう思うようにした。

「きれいやったなあ」
そんな聞こえない声が聞こえたふりをした。
偶然だけど、今日は父親の命日だな。
お父さん、花火っていいね。
また行こうよ。

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