生きる術として書く
「わからない」とか「未定」っていう状態?期間が生きてて時々あるのですが、それを心配されることが多い。自分のタイミングで立ち止まってるときに、他者に説明を求められて「わからない」と言うと、何か問題があるみたいに捉えられてしまう。そういうときに、ちょっと焦ったり不安になったり、怒りが湧いたりする。
私の中では、立ち止まってることは進んでるとも言える。進んでなくても意味があるというか、焼く前のパン生地の発酵みたいな感じ。内側では大きな変化や準備が進んでいる。焼きたてパン食べたい。あと、何も考えてないわけじゃない。わからないのは、考えてないからとは限らない。その「わからない部分」は、私は、考えて答えを出す部分ではない。その時が来た時にピンとくるもの。ピンと来れる自分でいるって大切だと私は思います。私のペースで、私のやり方で考えてるし前進もしてる。
なんかここまで書いた時点で自分を確認できてきました。やはり、書くのは良い。
昔から親にもよく「マイペースすぎる」って言われるのですが、何をするにも時間がかかるんですよね。それで人に迷惑かけてたのは反省、でも迷惑かけてない時はほっといてほしいものです。時間がかかってる、ということも普段考えてない、自分が納得した形で進むための必要なプロセスという感じなので、そこに自分のリズムやペースやタイミング、納得感みたいなのがあるだけなのですが、それを時々、外部刺激によって乱されるのが苦手。満足感とか安心感が奪われる気分になる。そういう人間関係は選んでないけど、そういう機会はいろんなところに転がっている。
誰かが無意識に世間の「こうあるべき」を押し付けてきたり、順調そうに見える人だったり。でもその「順調そうに見える」のも、焦ったり不安になる必要ないんです、本当は。そういう時は何かしらの原因で自分に納得してる感覚が薄かったり大事なことが意識化できてなかったりしてるんだろうと思う。あと、軽率にアドバイスされるのも苦手。
悩んでないのにアドバイスされるのは暗黙の否定になる可能性がある、ということを最近学んだ。本人の状態によっては、「今ではダメ」「改善する必要がある」みたいに感じさせることもあるんだな。私も気をつけよう。そんなに情報を与えてないのに勝手にいろいろ解釈されて、その解釈も「まあそう考えるのが普通ですよね」って感じのやつだった。
もっと説明した方がいいんだろうな、とは思う。これからはもっとしっかり言語化して、情報を与えた方がいいかもしれない。情報を与えたからって理解されるかは別だけど。
「理解されるか」を置いといて自分の気持ちを大切にできる勇気がほしい。私は心の奥底で人に理解されることを求めているのに、同時に、求めても得られないとか話したところで変わらない(むしろマイ)と思っているから、自分のことを説明することを簡単に諦めてきた。特に大切な人に対して。それが私の孤独感の一つの要因だ。単純に、安心する土台となる経験が少ない。
「あなたの言ってる意味、あなたの状態、分かるよ」という人が一人でもいると生きていける。私にとってその第一人者は自分だった。それは知識を得ることだったり、文章を書くことだったりした。書くことで自分を知り、自分を大切にしてきたと思う。それは他者に自分を説明する力になったし、他者の話を聴く力にもなった。言葉というツールを磨くことは生きる手段だったと思う。それでどれほどの孤独感が癒やされたか。
今も、他者が絡むと変に臆病になるときがある。でも私は自分で自分を満たして一人で生きていけるほど省エネではない。てかそもそも「理解されること」って本当に一番大切なことなんだろうか。何をもって「理解された」なんだろう。とか思えてきた。
noteはそういうの気にせず書けるんですよね。理解されるとかされないとか頭にない。一人で書いてるし、公に出した後にもあんまり関心がない。でも繋がりや心地よさを感じられるから続いてるんだろうな。理解し合うことでしか孤独感は消えない、というわけではないのか。ここになら書ける、と思えるかどうかなのかも。そういう場所なのか、人なのかわからないけど、そういう存在、大事だなぁ。
ではまたー!