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日記「学び」について思うところを書いた 2024.4.18

 今日は病院に行った。喘息の治療を二週間経ての再来院。もうほとんど咳に苦しめられることはない。あんなに苦しかったのに、西洋医学の力恐るべし。
 ただし、まだ気を抜いてはならないと言われ、あと一月は吸入治療を続けることになった。
 診察後、近くの出雲大社分社へ。久しぶりだった。
 その後は、車を出して浦添の路地裏界隈をフィールドワーク。フィールドワークをやりながら気づいた。フィールドワークに必要なのは詩だ。世界に魅せられないと、真に気づきは得られない。でないと、上滑りな考察に留まる。世界に恋する力が要求されるのだ。優秀なフィールドワーカーは、優れた詩人に違いない。なんだか、学問と芸術の境を越えられそうな気がしてきた。知性は徳だというのをより強く感じた。知性とは世界に恋する力に他ならない。決して知識量のことではないし、学校のお勉強が出来るということと"同義" ではない。それらはあくまで二義的なもの。知性は、世界に心を開ける力のことだ。それは、自分以外の存在を愛するということなのだ。目に映るものを自らのからだの中に入れるということだ。"考える" ということの語源は、"か迎えふ" らしい。自らの内に対象を迎えるというだ。そして、この"か" とは何だろうか。僕の勝手な妄想は、"神" の"か" ではないか。"神迎える" →"かむかえる" 。これは僕の想像でしかないが、対象を唯物的に"見る" のではなく、対象に内在する、己がからだと地続きの"存在" ="神" を迎える、という"感覚" なのではないか。"考え方" ではなく、"感覚" なのだ。あくまで。思考と感覚は本来結びついている。からだの内側に渦巻くものに言葉によって形を与えたものが"観念" だ。だから僕は、フィールドワークを通して"考え(かむかへ)" それを言葉でメモし、更に音楽という形を与えたいのだ。そしてこれは、"学び" のとても喜びに満ちた在り方だと思う。教育現場にもいずれ、フィールドワークに基づいた音楽創りのメソッドを持っていきたい。学んだことは全て論文にしなければならないわけではない。全て文章にしなければならないわけではない。それを音楽という形にすることも、学びの完成として多いにありだと思う。言葉を超えたメッセージを、伝えることが出来る。"学び" とは決して、"何かの為の" ものではない。世界の視え方が変わること、ありふれた光景に詩を聞けるようになることが学びだ。フィールドワーク創曲にそういう学びの可能性を見ている。


フィールドワークのメモ
これを音楽的言語で作品にする
数人で行うと尚楽しいだろう

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