私はまだ、学びがもてはやされる世の中が納得できない。
私はまだ、学びが大切だと言えない。言い続けられる自信がない。
”成長する人の特徴は、学び続ける姿勢”
”人生100年時代で大切なのは学ぶ力”
あちらこちらで「学びって大切だよね」というニュアンスの言葉が歩いているし、SNSを開けばいわゆるインフルエンサーへの道として「学びや得られることが明確な発信をすること」と言われたりもしている。
学びって、そんなにもてはやされるべきことなのだろうか。
私はまだ、腑に落ちない。
イベントに参加してこんな気づきがあった!
初めてのチャレンジをしたら失敗したけど、こんなことが分かった!
〇〇さんの発言を聞いて、自分はこう考えた!
どれもこれも学びと言って良い発言だろう。でもこのような空気を醸し出す文字列が私の胸騒ぎを加速させていることは間違いない。
コロナが流行り始めた昨年3~5月。私の欲求はオンラインの繋がりに向いていた。単発のオンラインイベント。複数回のイベントや日常のチャットコミュニケーションで交流をするオンラインサロン。大学で専攻している教育関係や以前から関心のあったキャリア関係など、興味の向く分野に手当たり次第繋がりをつくりに行った。
寂しかった、という理由もあるだろう。毎日家族としか顔を合わせず、気軽に街に出ることもできない。そして4年という空白期間を経た実家という環境は、決して私にとってホームではなかった。アウェイかつストレスな場所で過ごすうちに、自然と実家以外の自分を受け入れてくれる場所を渇望するようになっていた。
しかし寂しいとは違う、学べる繋がりを求めた理由もあった。焦りだ。
その頃SNSを眺めるたび、よく目についたのはこんな投稿だった。
「オンラインだからこそ新しい繋がりができました!」
「オンラインでこんな取り組みをしてみました!」
「学びを止めないためにオンラインで支援をしました!」
そして私は焦った。実家でぐうたらと、何もせず、誰のためになることもできず、ただ何者でもない学生でしかない自分に。
周りの人はできることを増やし、楽しみ、誰かのためになっているのに、私は何もできていない。人脈も、金もない。時間ばかりあるただの学生でしかない。
22歳学生。そんな弱々しい肩書きの自分が恥ずかしくて、とにかく何かしなければと思って、オンラインの門を叩きまくった。
だけどこれといって、楽しい繋がりはなかった。
イベントもサロンも、とりあえず情報を得ているだけ。zoomのブレイクアウトルームでディスカッションをする時も、大人数でチャットを投げる時も、どこか学びをうざがる自分がいた。
「なるほど、いい学びですね!」なんて他の人が言われていると、私が感じたことは全然浅くてダメダメだったんだと思ったし、学びを意識したファシリテートが気持ち悪く感じることさえあった。
欲しかったはずの学びが、いつの間にか恨めしい存在に変わっていた。
昨年の5月はそんな感じだった。そこから10ヶ月。学びと私の関係は、さほど変わっていない。並行戦のまま今を生きている。
むしろ今は振り切っているかもしれない。学びは気にしなくていいと。学びは人生を豊かにするかもしれないが、あくまでも”かもしれないだけ”だから。可能性にしかすぎない。
学び方を指南する本や情報が溢れている世の中で、こんな私はただのひねくれ者にすぎないのかもしれない。でもたぶん学びと私の関係性は今後もそんなに変わらない予感がするし、それでもいいかなとも思う。
だって学びは義務でも責任でも権利でもない。好奇心から偶然生まれる結果にすぎないから。だから学びの深さも広さも、考えなくたっていいんじゃないか。
わくわくするならば、もっと知りたいならば、考えたいならば、学びを追えばいいだけだから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?