内包身体・外延身体・「器官なき身体」

ドゥルーズの「器官なき身体」という言葉がイメージの欠片として心にひっかかり、淡い光を受けて揺らめいている(海中の岩に絡まった海藻類のように)。

それは、古い本と白檀のにおい、対流するけむりの紫色。同時に、勢いよくうねる肉塊や、触ると手が粘液でぬるつくような、生々しい実在感も感じさせる。

きっと「器官なき身体」は私の中にもあって。

それはいつもは鎮かにしているが、何かの契機で獰猛になる。
「それ」は完全に私になりきっていないからこそ、愛おしくあり、時折ちょっとよそよそしくなったりして、親しみをもつことができる。


「器官なき身体」の様態や機能は、「蛹」を連想させる。あらゆる可能性を胚胎する球体で、一旦様相をドロドロに溶かし、そこから目や鼻や口といった諸器官が「自己限定」するのだ。
いや、むしろ蛹はそのような自己製作を可能にする「於いてある場所」といったほうがよいかもしれない。内包-外延の関係で見ると、「器官なき身体」は「内包身体」と呼ぶことができるだろう。
前置きなく西田幾多郎の言葉を出してしまったが、あえて西田的にいうとこれは、「絶対無-身体」でもある。ただし、ここでは絶対無の強度がずっと強くて、身体はまだ幼い兆しでしかない(絶対無の部分を太字ゴシック15にして、身体は8ポイント程度の印象)。また、内包身体から製出されたそれぞれの器官や、対応する感覚を指して「外延身体」の発現といえるだろう。

「絶対矛盾的自己同一」とは、有限の五感を透かして無限なる「器官なき身体」を実現することである。実現するといっても何ら特別なことは不要で、何もしなくても、もともとそうであるから、お腹のあたりにそっと手を当ててみればよい。


「器官なき身体」を西田と繋げて考えられるからには、以前の記事で書いた通り、川本真琴で読めるということだ (比喩ではなくて、ほんとうに読める)。

『DNA』や『1/2』は、外延から内包に向かう個物主体(あたし)の「もがき・背伸び」が主題である。これはこれで「絶対届かない、けど届いてるよね?(ね?)」感がいじらしくて好きである。日によって、個物の不甲斐なさにやりきれなくなっている時(外延的自己に縛られてしまっている時)に聞くといい感じである。これを「器官なき身体」的にいうならば、本来そのような身体以前の身体であるはずが、末梢の「器官」の重さや形状が際立ってしまって、内部不一致を起こす状態といえる(私に馴染んだ表現では、「私」と「わたし」のズレ)。
五感の限りを尽くしても、絶対に向こうを感じ尽くせない。むしろ「不可能」を不可能として不可能たらしめるような感覚器官の障壁(それをそのまま認めたいのに、目の奥の網膜が邪魔をすること、薄皮一枚の皮膚の厚み言葉が言葉以上に音であること)が悔しいと感じるときに、そのズレが切実になる。

一方、『微熱』は内包が外延に自己限定する方向を捉えている。つまりは、蛹の膜に包まれたやわらかな卵から、私やあなたが生まれでるところ。
もっとも、「器官なき身体」創発以前まで含まれているため、もはや「それ」を端的に言葉にするのはむずかしい。

これら一連の動きをあえて表すならば、

◯→「器官なき身体(内包身体)」→「器官身体(外延身体)」!=!「器官身体であり、かつ器官なき身体」

のようになるだろうか。。
○は極力様相を排除した絶対無-記号なのだが、ここでの文脈に即して純内包純身体という表現をしてもよいかもしれない。

『微熱』は、このプロセス全てに及んでいるのだが、特に

◯→「器官なき身体(内包身体)」→「器官身体(外延身体)」

このあたりの部分、とりわけ2番目の矢印に焦点が当たっている。内包から外延への限定生起である。

◯→「器官なき身体」部分はどちらも内包的であるため、矢印を挟んだ断絶は少ない。例えるなら、大洋の中で水が移動し、部分あたりに占める濃度が変わる感じ。同じ溶液中の濃さが部分的に変わるだけなので、内包に亀裂はほとんど入らない。
しかし、「器官なき身体」→「器官身体」内包から外延へと、形の上で大きく変容する。言うなれば、海水をバケツにすくって「これがそれです」と言表可能な形にするようなところか。それは無分節の世界にハサミを入れることで、ある意味で、暴力的な切り捨てである(ちなみに、レヴィナスが、翻訳という裏切りを経た「語られたこと」「語り直す」のは存在者として生きている以上、無自覚にしてしまうそうした暴力を償うためだと思う)。

内包から外延への運動。それは、閉じられた羊水のあたたかさ、完璧な球体から、主客が、五感が芽生えてくるイメージと重ねることができる。

それは、聞こえるでもなく、感じるでもなく「五感閉じて」知ることができる世界、それでいて「抱きしめると世界に弾かれそう」なほど、張力が膨らんだ状態から、ぱあっと五感を開いて「さわれる」世界への、自己製作(ポイエシス)なのだ。そこで世界と私をほどいてはつなぐのが、世界を私(「あなた」と「わたし」でも「わたし」と「私」でもよいが)からこぼれ落ちる余剰差異、つまり「37度2分の発熱」「君の鼓動にとけない微熱」であるという。

そうして生まれた個物存在(外延身体)は「別々の物語を今日も生きていくの?」とひとり呟く。強い甘さにとけてくれない微熱としての「器官身体」は切なくて哀しい。それはまさに「からまったまんまでひとりぼっち」という感覚にふさわしい。しかし、「器官身体」の確かな手触りを通じて私は向こう側に接触することができるし、その時それぞれの個物主体が「器官身体であり、かつ器官なき身体」になるのも、ほんとうなのである。

ところで、「器官なき身体」を内包身体と呼ぶなら、「感情」にも内包感情外延感情があるはずだ。

内包感情、つまり「器官なき感情」とは例えば、内面が昂って、どうしようもなくなるとき「どうしようもなさ」なのではないか。
その瞬間の感情は、感情ではなく、内包感情が直に蠕動している「それ」としかいいようがない。
コップひたひたの水が淵に沿ってせり上がり、大きな波のカーブを描いて、一気にぶわっとあふれる。その、「ぶわっと」する感覚や、産毛が粟立つ感じ、目の裏がじわじわ弛んでいくと共に、腕の内側があまーい感じになって、意味がわからず泣いてしまう。そのような出来事をできるだけ原性を損なわずに形容するためには、「強度」という言葉を使うしかないのもよくわかる。その時点では、ただただ波なみの容器から水が溢れ出ることを、離れたところから見ているしかないから。

「嬉しい」とか「かなしい」といった言葉は、事後的に「強いて言えば」程度に付与したラベルで、ほんとうに心がたまらなくなるときの気持ちに、そうした言葉はそぐわない。そぐわないというか、圧倒的に足りないありえないくらい足りないのである。「嬉しい」とか「悲しい」などと、不足を承知で甘んじて使う言葉、ひいてはそれによって意味づけられた感情「外延感情」と呼んでおこう。

外延感情は目に見えて扱えるため、他者と(表層的には)共有しやすいというメリットがある。だが、ほんとうに外延感情が輝くのは、内包感情を透かす限りである。見えるものに見えないものを見るから、おもしろいのである。
私は、言葉の使用において「いかに内包感情を外延感情であらわすか(この程度ならまあ、許せるかの試行)」のマインドをかなり重視しているが、世間はおおかたそのようにできていないのがやるせないところである。

内包身体、内包感情ときたら、内包時間内包空間を考えてみることもできるはずだ。
そもそも、時間や空間は外延水準でのみ問題とされる事柄であるだろうが、あえて内包に引き込んでみると、おもしろいものが出てくるのではないだろうか (ちなみに、これに関して最近考えているのは、レヴィナスの「アナクロニズム」のこと。西洋哲学の枠組み、直線的な時間配置(外延時間)で語るとエラーになってしまうので、もどかしいと思っている)。


「器官なき身体」は、幼体・蛹・成体を同時に孕んでいるのである。
そのような姿であれば、感覚器官に依存することなく、直に「それ」を感ずる、というか「それ」自体になることができるはずだ。

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