「縄文的原型と弥生的原型」谷川徹三1969の読書感想文(20200821修正版)
1.徹三の三角錐 ~二つの原型~
徹三は縄文的原型と弥生的原型の二つを日本の美の原型と考えている。
縄文的原型と弥生的原型とは、日本の美の系譜に対する一視点を与える作業仮説として機能する
明らかに異なる二つを対照させることで、初めて見えてくるものがある。
生活の基盤のないところに生きた美の形はない
日本は牧畜に不向きな風土であったため、農耕を生活の基盤とし、米を主食としてきた。仏教の影響もあり、肉食から遠ざかった。
弥生的原型が日本の芸術における美の正系に立つことは至極自然
しかし徹三は「縄文時代という時代の永さ」を重視している。縄文的原型はいまも我々の中に潜在し、文化の深層をなしているという。
幾多の天才の中に爆発的にあらわれる
「幾多の天才」の代表例はやっぱり岡本太郎かしら。「爆発」と言えば太郎。縄文土器を愛した縄文の系譜の芸術家。
その二つの原型を三角錐で表す。これは徹三の発明だ。原型は立体的ということか。頂点4つ、ぎりぎり立体。
参考までに、縄文土器の画像。
(『発掘された日本列島2014』で撮影)
縄文的原型を表す徹三の三角錐は、動的・有機的・怪奇・装飾性の4つが頂点となる。
他、縄文的原型のキーワードは、男性的・生命的・非合理的・呪術的・複雑怪奇・グロテスク・アクの強さ・荒魂・ディオニュソス的。
参考までに、弥生土器の画像。人面つき。
(『発掘された日本列島2014』で撮影)
弥生的原型を表す徹三の三角錐は、静的・無機的・優美・機能性の4つが頂点となる。
他、弥生的原型のキーワードは、女性的・抽象的・合理的・幾何学的・単純明快・安定・清らか・線のリズム・和魂・アポロ的。
二つの原型を、徹三は具体例を示しながら説明する。徹三の好きな勾玉は弥生的原型の一表現。
なるほど。そこまでは飲み込めたし、頷ける。
それで、徹三、埴輪は?
弥生的という中に、弥生土器と並べてそれと時代を接する古墳時代の埴輪を入れて考えています
そうなの? そうかな?
2.埴輪的原型 ~第三の原型~
はにこはそうは思わない。
埴輪と弥生土器とは違う文化から生まれたものと思う。それぞれが持つ美の性格は異なると感じる。
徹三も、いま生きていたら弥生土器と埴輪との違いに気づいただろう。
なぜなら「縄文的原型と弥生的原型」は1969年に書かれた文章だ。
その後、現在に至るまでに埴輪は大量に発掘されている。徹三はその埴輪たちを見ずに書いた。少ない、というか今から考えると限られた埴輪データから結論を出した。おそらく、縄文・弥生時代の出土品についても同じことが言えるだろう。
というわけで、僭越ながら徹三に代わって第三の原型「埴輪的原型」について書いてみよう。
ちなみに、なぜ古墳的原型でないのかというと、徹三は縄文・弥生の原型を土器や土偶などの粘土製品から読み取っているので、埴輪を比較対象に取り上げるのが妥当だから。また、はにこの考えでは、埴輪が作られた時代は古墳時代より埴輪時代と呼ぶのがふさわしい。余談。
原型論に戻る。まず、埴輪を弥生的原型から切り離そう。
弥生土器のテイストと埴輪のそれは明らかに違う。
埴輪を見に行くと、たいてい縄文・弥生の出土品も目にすることになる。埴輪ほどじっくり観察はしたことはないものの、多く見ているうちに、それぞれ違う文化から生まれたことを感じる。
埴輪の三角錐を作る前に、埴輪のキーワードを書き出してみる。ここでは造形要素に着目し、出土地での配列の話は置いておく。
リズミカル・かわいい・笑い・素朴・粗い・省略・強調・いびつ・こだわり・偏り・遊び・共感。
そのほか思いつくまま。
埴輪のリズムは、弥生のなめらかな線のリズムとはまた別のリズム。点のリズム。童謡ふうリズム。
形象埴輪の話になるが、何らかのストーリーが背景にありそう。童話か神話か。それに近づこうとしている。演劇的。演劇といってもオペラではなく学芸会的。おゆうぎ会かも。下手とはまた違うが。真摯さがある。
埴輪全般に、子供がいっしょけんめい大人の真似をしているような印象がある。
さて三角錐の検討に入る。
縄文の動的と弥生の静的に対して、埴輪は?
動き出しそう。でもダイナミックと言うよりは、ちょこまかしている。大きさの割に。「遊戯的」かな。
2つめ。縄文の有機的と弥生の無機的に対して、埴輪は?
埴輪にとっては構造が重要だ。円筒を基本とし、突帯(とったい)をつけ、透孔(すかしあな)をあける。
特に円筒埴輪には、規格性がみられる。無機寄りか。
ただ、その規格は弥生土器に比べゆるめ。あそびがあるとも言える。突帯はゆれ、透孔はゆがむ。
無機的というには動きがありすぎる。
有機的は、部分が連動して全体をなす様子と定義されよう。縄文土器は動きがありながら統合され完成されたもの、という印象がある。
埴輪も有機的、と言えなくもない。ただし、埴輪は縄文土器ほどうまく統合されていない。がちゃがちゃしがち。上下で差異がある。表裏がある。偏り、ひずみがあり、いびつ。
どうにかまとまってはいる、というところ。
じっとしていてくれない部分をゆるい規格でどうにかまとめている。不完全? 未完成? 包括的?
有機的/無機的の軸に対応できない。二項対立に割り込もうとするからだ。困った。
しかしそもそも、有機的/無機的と動的/静的はかぶってないか? ついに徹三に牙を剥くはにこ。
保留。
次に移ろう。3つめ。縄文の怪奇と弥生の優美に対して、埴輪は?
どちらでもない。正確にはどちらの要素もゼロではない。怖かったり詩的だったり。だが、怪奇というには開放的すぎる。あっけらかんとしたところがある。そして優美というよりかわいい。
また、縄文・弥生の物にくらべ、埴輪は現代人の感覚に近い。共感できる要素がある。エモーショナル。情緒的。笑いを誘う。切ないことも。見る人に委ねるようなところがある。
開放的? 共感? 笑い? 怪奇・優美にうまく対応しない。素朴と迷うが、もっと感情を刺激してくるので、ここは「かわいい」とする。
4つめ。縄文の装飾性と弥生の機能性に対して、埴輪は?
どちらもある。明白に見せる意図があり特に上部は凝る一方、大量生産のため脚部を省略する合理性もある。頭隠して尻隠さず。
偏執性でもいいが、硬い言葉が埴輪に似合わないので「こだわり」とする。
2つめに戻る。
もう、有機的/無機的の軸は捨てよう。
落ち穂拾いしよう。3つの頂点、遊戯的・かわいい・こだわりから漏れた埴輪の要素は何か?
リズミカル、粗い、不完全、ゆるい、ゆれ、がちゃがちゃ、真摯、ストーリー…
1つめに戻る。どうせならひらがなでそろえよう。遊戯的を「あそび」としよう。これに大半の要素が含まれる。
2つめに戻る。形象埴輪なら「ものがたり」でよさそうだが、円筒埴輪にもある要素、真摯からの「ひたむき」としよう。
話は逸れるが、ひらがなは日本的だ。漢字を使うと語源の影に入ってしまいがちで、列島から離れてしまう。その点、ひらがなは漢字から派生した文字ではあるが、日本で作られたものだし、広がりがある。
(画像は『いろは屏風』貫名菘翁筆、東京国立博物館にて2017年撮影)
何より埴輪に似合う。
というわけで、埴輪的原型を表す三角錐は、あそび・ひたむき・かわいい・こだわりの4つが頂点となる。
今のところ。
おまけの比較検討。
縄文の男性的と弥生の女性的に対しては、埴輪は幼児的、童児的でしょう。中性的というには性別の要素が弱い。両方あると言うよりは、両方ない。
縄文の荒魂と弥生の和魂に対応させるなら、埴輪は幸魂かな。埴輪には確かに愛される要素がある。
「咲く」の要素もある。
若干、埼玉古墳群に引っ張られているのは認めます。
ディオニュソス的とアポロ的に関しては、ニーチェを読まねばならないのでパス。誰か代わりに検討してくださいな。
思いついたのでメモ。お面なら、縄文的原型は鬼、弥生的原型はお多福(もしくはおかめ)、埴輪的原型はひょっとこ。
3.日本の美の正系は三つの原型のうちどれか?
日本の美の正系は縄文的原型と弥生的原型のどちらか、と問われれば、徹三の言うとおり女性的な弥生的原型でしょう。
だが、もはや二択ではない。問いを改めよう。
「日本の美の正系は縄文的原型と弥生的原型と埴輪的原型の三つの原型のうちどれか?」
ちょこまか真似っこ妙なこだわりにいっしょけんめい、まさしく埴輪的原型である。
しかし…
もう一度考えよう。
日本の「文化」や「芸術」の正系は何か? という問いならば、確かに埴輪的原型が答えとなるでしょう。漫画やゆるキャラやアイドルの後ろに埴輪が見える。完成度の高さより可能性の大きさが支持される。縄文や弥生ではない。
しかし日本の「美」の正系となると…
美とは何か? 日本の美とは? その原型は?
こうなると、なるほど優「美」の弥生が優勢だ。しかしずるくないか?
いやずるいというより、「世界的に通用し理解され受け入れられる日本の美」の正系なら弥生的原型かもしれないが、その美と「日本の美」とはイコールではないのでは。
取りこぼされている「日本の美」があるように思う。
例えば余白の美。共感し一体化するには余地がいる。あそび、伸びしろ、突っ込みどころが必要。完全ではつまらないのである。このあたりの感覚は日本文化が母文化でないとわからないのかもしれない。だがそれもひっくるめて「日本の美」だろう。
また、はにこ自身が見てきた「日本の美」には埴輪を感じさせるものが多い。
大真面目なパロディとその向こう側の『伝説の洋画家たち 二科100年展』。
金属を幾何学と遊び心で彫刻する『堀内正和展 おもしろ楽しい心と形』。
ほか、ストーリー表現の絵巻物・強調し省略する浮世絵にも埴輪的原型を感じる。縄文や弥生ではない。
そもそも見に行く展示をはにこの好みで選んでいるので偏ってはいると思うが。
縄文的原型と弥生的原型は日本限定ではなく世界共通のような気がする。出土品自体にオリジナリティがあっても、原型は日本にのみ見られるものではない。しかしこの話ははにこの手に余るのでここまでにしておく。
改めて、日本の美の正系は、やはり埴輪的原型である。
4.感想文の感想など
徹三に感謝。
なぜ今「縄文的原型と弥生的原型」の感想文を書いたのか。
まず2016年に一度読んでいる。その時は抜き書きをした程度で、わざわざ自分の言葉でまとめようとは思わなかった。埴輪についての分類に違和感もあったし。もっともそのせいで引っかかっていたことは確かである。
そして今年2020年、『発掘された日本列島』で再会した。
再読を促されているように感じたので読んでみた。
読んだら抜き書きメモでは収まらないものがふくらんできたので、読書感想文としてまとめようと記事を書き始めた。
ところが書き出してから脳みそが動きだして思考がどんどん広がっていく。よくあることだが。行動が思考を促進するのか。広がりすぎてまとまらない。
埴輪的原型を作ろうとは思ったが、日本の美の正系を問い直すつもりはなかった。まして美について考えるとは。自分の感覚について自分で問い直し混乱する。いちおうの結論を出したのは、ただきりをつけるためである。
とりあえず投稿したものの、その後あまりにも修正・追記が多くなったので、いったん下書きに戻してしまった。やらないほうがいいとはわかっていながら。元の錯乱気味の感想文を読んだ人、ごめんなさい。
ただ
また手を入れることになりそう。微改訂で済めばよいが。
そして
いつか徹三を読み返したら、大幅に書き直すことになりそう。そうなったら別バージョンを上げるか。
徹三の文章よりも埴輪について考えることになった。これはぜんたい読書感想文なのか? もはやそんなことはどうでもよい。埴輪を改めて見直し、自分の埴輪観を深めることができてよかった。まだ埴輪体験が足りないことも痛感した。
列島展と徹三に感謝。
~~~
『縄文的原型と弥生的原型』谷川 徹三1984(岩波書店)
に収録の「縄文的原型と弥生的原型」(1969)の読書感想文。
ちなみに、この前段に掲載の「日本の美」(1965)も共通する考えに基づいて書かれている。つまり徹三も4年後に同じテーマで再び書いたのだ。と徹三を道連れにするはにこ。恩知らずだな。
おまけ情報。徹三は埴輪を所蔵していた。
鳥形埴輪の頭部と男子埴輪の頭部についての記述あり。
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