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遅れてきたGS(グループサウンズ)

プロローグ
2019年(平成31年)@武道館 

今夜は、記念すべき還暦記念コンサートだ。
そして、舞台は東京ドームではなく、やはりここ武道館でなければならなかった。
「みんな、どうもありがとう。次はね、遥か昔の歌を歌うよ。もうすぐ平成も終わっちゃうけど、それよりも昔の曲だよ。みんな昭和って知っているかな?」
大歓声と共に、会場が笑いの渦に包み込まれる。時折、鋭い口笛も交じる。
「昭和生まれの人はー?」
さらなる大歓声が沸き起こり、一斉に手が挙がる。
「なんだよ。平成ももう終わりなのに、みんな昭和生まれなのかぁ。次の曲は、今まで歌うのがちょっと恥ずかしかったのだけれど、心境の変化という奴だな。みんなは覚えているかな?」
さっきまでノリノリだったオーディエンスがちょっと静かになった。
「本当に、演るのかぁ」という感じで、メンバーがちょっと苦笑している。
ギターのイントロが始まった。アルペジオが流れる。
会場から、「おおー!」というどよめきが聞こえてきた。
いつ以来だろう。人前でこの曲を歌うのは。
ずっと考えてきたのだけれど、やはり思い出せない。
これまで、本当にいろいろなことがあった。まさか自分が60歳になっても、ミュージシャンとして舞台に立っているなんて、若い頃の自分には想像もできなかった。

平成という時代がまもなく終わろうとしている。
昭和、平成という2つの時代をなんとか生き抜いて、よくここまでやって来られたと思う。
あの2人は今、どうしているのだろうか。

1. 1959年(昭和34年)4月11日 金沢にて

この日、石川県金沢市の産院で、3人の子どもがこの世に生を受けた。
どの子も体重は標準より少し少なめだったが、皆、元気に産声を上げた。
母親たちの病室に届けられた新聞の第一面には、前日の皇太子殿下と美智子妃殿下のご成婚パレードの様子が大きく取り上げられていた。
「どうせなら、昨日生まれて来てくれれば良かったのになあ。誕生日がご成婚の日と重なったら、これから先も、何かといいことがあるかもしれないのに」
3人とも予定日は10日だったので、母親たちはそんなことをちょっと思ってしまった。しかし、すぐに、
「私としたら、せっかく大切な我が子を授かったのに。そんな不謹慎なことを考えたら、バチが当たってしまうわね。」
とあわててその考えを振り払い、思わず、神様に向かって「ごめんなさい」と頭を下げたのだった。

朝日新聞 昭和34年4月11日 朝刊

3人のうちひとりは女の子で、「由美」と名付けられた。
命名者は由美の父親で、
「可愛くていい名前だろう」
と得意がっているが、母親としてはもう少し個性的な名前の方がよかった。
日本中探しても、他にみつからないような、例えば、「ダイアナ」なんてどうかしら?しかし、当時、同じ題名の曲が流行っていたので、流石に恥ずかしくて言い出せなかった。

それで第二候補の名前を、旦那に口にしてみた。
「ポーラなんかどうかしら?」
自分で考え付いた名前だった。
「ふん、そんな化粧品みたいな名前」
一笑に付されてしまった。
結局、押し切られる形で娘の名前は由美になった。

悔しいので、子守歌がわりに「ダイアナ」を歌ってやる。
山下敬二郎バージョンで。
~君は僕より年上と~♪
歌いながら、
「歌詞が子守歌に合っていないなあ」
と改めて思う。
サビの「あっ、あ」のところは平尾昌晃の方がイカしているし。

後年、由美が4歳の時に「ヘイ・ポーラ」という曲が流行った。
「わたしって先見の明があるかも。いっそポーラに改名できないかしら?」
などと考えてみた。
「ヘイヘイ、ポーラ、覚えてるかい?」
と娘に歌ってやると、由美は「ヘイヘイヘイ、ポール」と上手にリプライしてみせた。
それを初めて耳にしたとき、
「ひょっとしてこの娘、天才なのじゃないかしら?」
と驚いてしまった。
由美の母親は日本人の歌手が歌う、日本語の歌詞が付いた洋楽が好きだった。

由美の父親は週末にしか自宅に帰ってこなかった。
そして、由美が生まれたときにも、病室には顔を出さなかった。

また、男の子のひとりは、「明」と名付けられた。
命名者は、母親だった。
「やっぱり、男の子の名前はアキラかヒロシでしょう」
と思っていた。
歌手の三田明がデビュ―した時には、
「ほらね、いい名前をつけたでしょう?」
とファニーフェイスをほころばせながら、3歳になったばかりの息子に語りかけた。
明は、母親のはっきりした顔立ちを引き継いでくれたので、
「この子は将来、三田明みたいな男前になるのかしらん」
とワクワクしたりもした。
通りすがりの人が
「うわあ、あの子、可愛い」
と振り返ってくれると、ますます得意な気分になるのだった。
しかし、明本人は愛嬌を振りまくわけでもなく、自分が「可愛い」と騒がれることには全く関心のない様子だった。

明の母親もまた、日本語で歌われる洋楽が好きだった。
子守唄はザ・ピーナッツが歌う「キサス・キサス・キサス」で、ラテンな感じが好きだった。
どういう意味かも理解しないままに、明の耳元で「キサス・キサス・キサス」と囁くように口ずさんだ。

他にも、洋風の曲であれば、特に洋楽にはこだわらなかった。
例えば「黄色いさくらんぼ」などもよく口ずさんだ。

歌と同じように、「ウッフン」と息子の耳元で囁いてやると、明がキャッキャッと笑った。それが嬉しくて、何度も何度も子守唄代わりに歌ってやった。
「歌詞が卑猥だ」と非難されようが、NHKが放送禁止にしようが、「されど母は強し」
と呟いて、そんなことは気にも留めなかった。
さらに、「明のイメージカラーは黄色」と決めて、うわっぱりやよだれかけも全て黄色を基調としてせっせと手作りした。
明の父親も、病院には一度も顔を出さなかった。

最後のひとりは、父親によって「博臣」と名付けられた。
後年、彼はこの名前のおかげで、嫌な思いをすることになる。
「僕、名前はなんて言うの?」
「ヒロオミです」
と答えると、
「ふ~ん、難しい名前やなあ。どんな字を書くの?」
と大人から聞かれる。
そこで、親から教えられた通りに
「博士の博に、大臣の臣です」と答えると
「ほほう、『末は博士か大臣か』ですか」
とニヤニヤされるのはまだいい方で、
「そりゃ、またお父さんお母さんは気合を入れなすったなあ。」
などと言われるのが常だった。
また、「名前負けだね」と言われるのも癪だった。

3人の父親の中では、博臣の父親だけが、毎日病室に通ってきていた。

父親は自動車会社に勤めていたために、マイカー族だった。
愛車はヒルマンだった。
博臣の母親は、毎日のように夫が車で病院に駆けつけてくれ、退院の際にも車で迎えに来てくれたのが誇らしかった。
毎日、夫が見舞いに来てくれることも嬉しかった。
同室の2人の夫が姿を見せないことを気の毒に思う一方で、ちょっぴり優越感を感じていた。
自分の夫は優しくて「タフガイ」なのだ。
マイカーを器用に運転して、私と息子を養ってくれている。
「そう、私は彼のようなタフガイが好きなのだわ」
博臣の母親は改めてそう思った。
彼女は小林旭のファンだった。本家石原裕次郎ではなく、小林旭の方が「タフガイ」にふさわしいと思っていた。
小林旭が「マイトガイ」だなんて、「おかしなニックネーム!」と思っていた。

彼女は他の二人とは違って洋楽よりも日本の歌謡曲の方が好きだった。
子守唄に「ダイナマイトが百五十屯」なんかをチョイスしてしまうほどだった。

「せっかく同じ日に産まれたんやから、ずっとお友達でいましょうね」
三人の中では、一番年長ということもあって博臣の母親はそんな提案もした。

子どもの命名については様々なドラマがあったわけだが、我が子が将来、世間から違う名前で呼ばれるようになるとは、この時は誰も思いもしなかった。

時は、昭和30年代。
この後、日本は右肩上がりで急成長していくことになる。

(続く)

*この物語はフィクションであり、実在する人物、団体等とは一切関係ありません。

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