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中編「他人の膿」⑷

これは多分、夢だ。私の目の前に、若い女がいた。その女は乳児を大切そうに抱えている。彼女はおっぱいをあげて、飲み終わると乳児は安心したように眠っていた。その乳児に向かって若い女は静かに言う。
「この子は私の子供だ。私の唯一の味方なんだ」
本当に幸せそうな時間だ。

それから突然に場面が切り替わった。
そこには毎日毎日泣き続ける子供とそれに耳を塞いでいるさっきの女の姿。あまりにもうるさい泣き声に女は叫ぶ。
「お母さん!泣き止ませてよね!」
女の母は、静かに彼女の子供をあやす。母は女に言う。
「あなたの子供なんだよ。しっかりしなさい」
すると女は母に言う。
「ねぇ、もうその子あげる」

突然、また場面が切り替わる。
そこにはその女と少女がいた。その女はいきなり少女に怒鳴る。
「あんた!洗い物やれって言っただろ!」
少女は無視する。
「ただで飯食ってんだから、そのぐらいやれって言ってんだよ!」
少女は無視する。
「親に向かって、なにその態度は!」
女は、少女の髪の毛を思いっきり引っ張った。そしてそのままブンブンと振り回す。少女は抵抗して、女の腕に自分の爪を立てる。
「痛っ!」
少女は短い脚で、女を蹴っ飛ばして逃げようとする。でもすぐに捕まって、女は少女のお腹を思いっきり殴る。少女は必死に耐える。声をあげたらお婆ちゃんに迷惑をかけるからだ。少女は痛みを堪えて、女を睨みつける。
「なにその態度は!」殴られる。
「あんたを!」蹴られる。
「産んでやったのは!」殴られる。
「私なのに!」殴られる。
「なんで、私の思い通りにならないの!」蹴られる。少女は言い返す。
「うるさい!」
そしてまた殴られる。何度もあったこの光景。これは、私にとっての日常だ。これは夢、過去、真実。私はこんな世界の中にいた。そして一通り殴られると、彼女は私に言う。
「……あんたのせいだからね」

また場面が変わる。次にその殴り続けた母が独りで泣いている。他は誰もいない。
「ごめんなさい、ごめんなさい。こんなつもりじゃないの。ごめんなさい」
彼女が誰に謝っているのか、わからない。これはきっと、私の願望なのかもしれない。

私は目が覚めて、その瞬間から、それらの鮮明な夢は段々と薄くなっていった。そしてトイレに行って、戻ってきた時にはその夢の形は完全にぐちゃぐちゃになっていて、ぐちゃぐちゃになったなぁと思ったら、もう忘れていた。

滝本くんに映画に誘われた。毎日あの部室で、女二人で映画を観るよりはよっぽど健康的だと思う。お昼過ぎに池袋駅東口に待ち合わせをしたのは良いものの、街の様子がいつもと違った。骸骨の格好をした人、谷間をがっつり出した魔女の格好をした人、アニメのキャラクターの格好をした人、色々な人がちらほら通る。心細いから早く来て欲しい。
「中村!ごめん、待ったよね」
「いや、全然大丈夫よ」……やっと来た。
「てか、すごいね。もうハロウィンのシーズンだもんな」
「そっか。ハロウィンかー」
正直、大嫌い。ハロウィンが嫌いというわけではない。ハロウィンに便乗して、仮装して、調子に乗っている人達をニュースで見る度に「お前らの為のハロウィンじゃないだろ」と思ってしまう。仮装して乳繰り合うのは勝手にやればいいけど人に迷惑かけるな。まぁでも日本は平和だな、とも思うけどね。
「今日なに観るの?」
「ん~まぁ適当に」
今日の滝本くんは整っていた。カジュアルで清潔感のある服装、チノパンを履いているおかげで、足先からすーっと身体のラインがモデルのようにすっきりしていて、細身の身体がさらに細く見えた。並んだら私が太って見えないだろうか、と少し心配になる。でもこの仮装の群れの中を歩いていたら、途中からそんなことは、あまり気にならなくなった。
映画は少し悩んだ末に滝本くんが観たいと言ったので、とあるサスペンス映画を観た。最終的には主人公が殺されて終わったからなんとなくモヤモヤしていて、そんな時に滝本くんに手を繋がれたから、何も感情は動かなかったけれど抵抗もしなかった。
「面白かった?」滝本くんは聞いてきた。
「うん、面白かったよ」
「最後びっくりしたよね」
「『ラスト5分は誰にも教えないでください』って予告でやってたもんね。そういうことか」
「まさか死ぬなんてね」
「だね~、死んじゃったね」
……。
「小腹減らない?」
滝本くんが声色を変えてそう言ったので、私も声色を変えて反応した。
「そうだね、なんか食べよっか?」

私たちは池袋のサンシャイン通りの脇にある居酒屋に入った。とりあえず生ビール二つを注文してお通しの枝豆を食べながら映画の感想を一通り話したところで、滝本くんは一度溜息をしてから言った。
「最近さ、しんどいことばかりなんだよな」
「滝本くんもしんどいとか思うことあるんだ」
彼はビールジョッキの取っ手を触ったり離したりしながら言った。
「そりゃ、あるよ。会社で毎日怒られてるし、お付き合いで飲みに行っても、グチグチと上司に説教はされるし」
「でもなんか大人だね。いいね、社会に貢献してる感じ。私とは違うな」
「そりゃ、歳が違うからな」
そういえば、彼は私より3つ年上だったな。
「飲み会で説教ってさ、どんなこと言われるの?」
「さぁね」
私が聞くと彼はそう言い、枝豆を食べ、ぐびっとビールを飲む。
「言われたことほとんど聞き流してるんだよね」
「え?なんで?」
「上司って色々な人がいるし、全員言うこと違うんだよね。AよりBが良いって言う人がいれば、BよりAが良いって言う人がいるし。そんなの全部真に受けたら疲れちゃうからさ」
私も枝豆を食べながら「へぇ」と相槌を打つ。
「それに、飲み会って結局は何か言いたいだけだなって思うんだよね」
「言いたいだけ?」
「そう。皆、結局は飲んでるから本当に相手のこと考えてるってより、自分の言いたいことを言うだけなんだなって。そういう考えに辿りついてしまった。だって勝手だよな、お酒飲んで酔っ払って説教ってさ。自己満足なんだよ、結局は。それってポジショントークみたいなもんだから。相手なんて誰でも良いのさ、俺じゃなくても。だから俺は平気な顔して聞き流してやるんだよ。賢いでしょ、俺」
「……」
「どうした?中村」
「あ、いや、素直に感動してしまった、その意見に」
そうだよね、本当にその通りの気がする。お酒飲んで言いたいことを言ってくる人は別に私を救ってくれやしない。
「ま、知り合いの受け売りなんだけどね」
「そうなんだ。じゃあその人に感動」
滝本くんのお知り合い、貴重なアドバイスをありがとう。
「やっぱり面白いな、中村は」
この人くらいだ、私を面白いと言うのは。彼は残ったビールを一気に飲みほして言った。
「だから飲み会はさ、こういう楽しいので良いんだよ。すみません!コーラください!」
「あれ?コーラ?」
「ちょっと酔っぱらいそうだからさ。明日もあるし」
「あ、そうだよね…、すみません。私、烏龍茶ください」
なんとなく、今日ぐらいはこのまま泊まっても良いかなと思っていたから、ほんの少しだけ残念だった。でもこれはこれでありか……。結局それから2時間、私達はソフトドリンクを飲んで、枝豆追加、タコワサ、軟骨の唐揚げをつまんで、しょうもない話をして過ごした。
そして帰り道、電車のホームで私は滝本くんに告白された。今思えば、だから最初の一杯だけ生ビールで、それからはソフトドリンクに変えたのかもしれない。予想していなかったわけでは無かった。でも正直聞きたくなかった。
「どうかな?」
「……考えさせて」
でた、時間稼ぎ。付き合えばいいのに…、滝本くんは付き合ったら多分大切にしてくれる。でもなんとなく……なんとなく付き合ったらこの関係性は下降していく気がした。私は「なんとなく」とか「なんだか」とかそういうあやふやな言葉が多いなぁ。
「ごめん。時間をください」
だからとりあえず、時間稼ぎ。

家に帰って、少年のおすすめヒップホップを流しながら少年と会話した。
『私って最悪だよね。なんかもてあそんでるよね』
『でも人に愛してもらえるなんて、幸せなことだよ』
『まぁね』って私はなに中学生と恋話しているのだろう。
『最終的には惚れさせたもん勝ちだし』
『お、中学生!良いこと言うじゃないか』
『アニメで得た知識です』
あ、そうだ。私はDVDプレイヤーがまだ壊れていないことを確認する。少年一押しの映画「星空と少女」を観ることにした。

この作品は、九〇分と短い映画だったけれど、アニメーションの色彩がとても綺麗で、空や街並みは実写そのものだった。場所も実在する所が描かれていて、アニメであるにも関わらず実写よりもリアルだった。言っていることが可笑しいかもしれないけれど、本当にそう思った。ストーリーは、本当にどうしようもないほど不幸な少女の物語だ。学校のいじめはもちろん、好きになった人は実はいじめを裏で動かしている張本人で、親からも見放されて、とにかく不幸の中の不幸と呼ぶのに相応しい子だった。でもその子はなんとかずっと笑っていて、苦しいのにずっと笑っている。そしてある日、鍵を誰かに隠されて家に帰っても誰もいなくて、外をふらふら歩きながら、どうしようもなくなって、自殺を決意した。でもその子の頭上には東京にもかかわらず星空が綺麗に輝いていた。その星空に感動して「生きてて良かった」と彼女は泣くのだった。そして夜空の下を全力で走りだした。

私は泣いていた。嗚咽して泣いていた。ひくぐらい泣いていた。落ち着いてから、少年に言った。
『なにこれ、すごいね』何と言って良いのかわからず、こんな言葉しか出てこなかった。
『何が?』
『星空と少女』
私は久しぶりに心が活発に動き回っているのがわかった。脈も速くなっていた。なんだかパワーに溢れていた。少年から返事が来た。
『この作品を観ると、人間ってすごいなって。僕は何度も何度も死のうとしてたんだ。でも自分で切り開かないといけないんだって思った』
『切り開く?』
『だって「死ぬ」って選択肢を選んだ瞬間に何でもありって気がするでしょ。死ぬ覚悟があるなら、どんなことだってできる。じゃない?』
私は死のうとしたことはなかった。死ぬということは怖い。「無」になることが怖い。母親に殴られ続けた時は、逆に「生きてやる」ってなった。「負けてたまるか」ってなった。
『それに僕は復讐をしないといけない。死んだら、復讐ができなくなる。だからまだ絶対に死ねない。この作品を観て、そう思ったんだ。きっとこの作品の彼女だって、走り出した後の物語はいじめていた奴らへの復讐だったかもしれない。このまま終わってたまるかってなったかもしれない。だから僕もしっかり復讐するんだ。こんな理不尽な世界に。それがきっとこの作品の願いだから』
復讐というのは、この前言っていたずっと許さないということだろうか。私には違うことのようにも聞こえた。だから少しだけ恐ろしくなってしまい、話題を変える事にした。
『少年は、将来の夢ってなんかある?』
『今は無いかな。なんで?』
『私、いま就職活動してて、全然決まらなくて』
『どこ行きたいの?』
『行きたいところは特に』
『芸能関係とか、そういうのに近いところで働かないの?』
『あえて違う所受けてるんだ』
『なんで?』
なんでって……だって、『怖いんだよ。一度負けてもう一度同じ世界で負けるのが』
『お姉さんの弱虫』
なんだと!と打とうしたけどやめた。その通りだ。
『私は、君みたいに目的を持って素直になれないね』
『僕、素直?』
『好き嫌いはっきりしてるし、やるべきこともわかってる感じするよ。いいなぁ』
彼は間違いなく自分の中での答えを知っていて前を見ている。私はきっと四年前から止まっている。
『ならお姉さんも素直になって、行きたいと思う場所受けてみたら良いと思うよ。行きたくない所受けたって受からないよ。受かっても続かないよ』
私は、なんて返して良いか分からなかった。それから何分か経ったら少年からさらにメッセージが届いた。
『お姉さんは、ちゃんと生きてる?』
偶然にも、星野が初めて私に投げかけてきた言葉と同じだ。……ちゃんと生きてるのか、私は。
『少年に今まで誰にも話したことない気持ちを話すね』
『うん』
私は一度深呼吸をした。そして文字を打ち始めた。
『私ね、母親に暴力されてたんだよね。もちろん私、母親が大嫌い。死ぬほど嫌い。死んでほしいって思ってるぐらい。一生許さない。本当に』
『うん』
『でもね、きっとどこかで本当にわからないような細胞のどこかで、母親が大好きなんだなって思う感情が確かにあってね。自分で自分の言ってる意味がわからないけど、そういう表現しかできなくて。なんでかな。それがとても気持ち悪いんだ。そして気持ちがぐちゃぐちゃになって、自分はちゃんと生きてるのかわからなくなる。母親の呪いなのかもしれない。私は大嫌いなのに、生物的な何か力が働いてるんだ。だから私は、きっとちゃんと生きてないんだよ。心と体がバラバラで、そして色々嘘で塗り固めて、偽物の塊なんだよ』
全身が震えていた。心臓も今までにないくらい早く動いている。
『でも初めてこのアプリで会話した時、お姉さんは自分を本物って言ってたよ』
それは咄嗟に、と打とうとしたら続けて少年からのメッセージが飛ぶ。
『お姉さんはちゃんと生きてるよ。僕はお姉さんの顔も声も何もわからないけど、でもきっと今を精一杯生きてるんだってわかるよ。お母さんのことはきっとこの先も苦しむんだと思う。でもお母さんを一生許さないんだったら、そのお母さんが、お姉さんのことを羨ましくなるくらい自分らしく生きた方がいいよ』
『自分らしくってどんな風なのかな?』
『自分が思うままに、ということだと思うよ。他人とか結果とか関係なしに、自分がこうしたいって思う道だよ、きっと』
でもそんな道の先にだって途方もない壁があるのだろう。人生、そう上手くはいかない。
『その道を進んでも苦しかったら?』
『苦しくない人生なんてきっと楽しくない。だって僕らは苦しいからこそ「星空と少女」を観て、感動することができるんだ』
少年の名前も顔も声も知らない。きっとこの先も会うことはない。でも少年がどこかでしっかり生きているということだけはわかる。その文章には生命力が溢れていた。文字ってすごいと思う。こんなに色々なことが進化している時代で、文字で気持ちや何かを伝える文化が無くなっていないのは、きっと文字というモノにただならない力を人間が感じ取っているからだろうか、と哲学みたいなことが心臓の鼓動が落ち着くのと同時に冷静に頭の中で浮遊していた。
『ありがとう、少年』
私はそれだけを送り、そして就活サイトを開いた。

(続く)

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