*鍵が壊れています。

※注意※
これから書く文章は、創作ネタの一つとして頭の中にある思考を整理するために手探りで書いたものです。小説の体をなそうとはしてません。表記ゆれとか誤字脱字があったり、前後の文脈がおかしかったりしてますが、あくまで、後々出る作品を作る過程で生まれたメモ書き程度にとらえていただけますと幸いです。


  • スケール:G#mとか? Bmも吝かではない。

  • テンポ:ちょっと緩めな感じ。ガツガツしないでね。


人間たちが電線・電波を通じて繋がりあったときから、僕らは試されているのかもしれない。この試練を乗り越えることができたら、長きにわたり進化しなかった人類は、ようやく次のステージに進むことができるのかもしれない。たった今まで、知恵を働かし徒党を組むことで人類は発展してきた。途中、争いが発生したり未知の病に翻弄されたりしたが、なんだかんだで60億人近くまで人類は増えている。しかし、この問題は果たして解決できるのだろうか。それは人間にとって、正確に言えば人間同士の関わりの上で非常に重要な問題だ。

人間の頭の中には「好き」と「嫌い」の概念が存在する。この2つの概念は、あるときは食べ物に対して、あるときは習慣に対して、あるときは人間に対して付与される。これによって、これからの行動は決まる。

「ラーメンが好きだから、晩御飯はラーメン屋に行こう」
「走るの嫌いだから、マラソン大会は仮病で休みたい」
「アイツ嫌い、悪口言ったろ」
といった感じに。
「嫌い」の概念は、特に邪悪な気を帯びている。「嫌い」を耳にしたとき、自身がその対象を好きであれば良い気分はしないだろう。その人と話し続けることにためらいを覚えてしまいかねない。

人間は、他人と距離を取ることができる生き物だ。地球は広く凸凹している。険しい山がそびえ立ち、海が果てしないくらいに広がっている。人間が容易に乗り越えられるものではない。仮にそれらが存在しなくとも、人間の声の届く範囲は地球全体で見たら極々限られている。おまけに耳も塞いでしまえば、聴覚をシャットアウトできる。自身の周りに壁を立てるのも一つの手だ。

人間は、集団で生活することと同時に他人と適度な距離を保つことで、無用な争いを可能な限り減らしてここまでやってきた。未だ戦争はなくなっていないが、もし人間が距離感をつかめない動物であった場合、この世界が可愛く思えてしまうような、目も当てられない事態に陥るのではなかろうか。

適度な距離感を保つ某。それ即ち、鍵である。玄関や窓に設けて境界を作るように、人間と人間の間にも概念としての鍵があるんだと。しかし、平成の時代に突入してから、どうもその鍵の機能に疑問が出始めている。


便利になったからと言って心が満たされるとは限らない。表があれば裏があるように、利便性を採用したことで発生する弊害も存在する。

現代社会は、気軽かつ高速で情報を得たり拡散したりすることができる。他者とコミュニケーションを取ることだって容易だ。まあ、すれ違いも発生しているのだけど。弊害とは「距離が近すぎる」こと。最近、やたらと身の回りの人間たちがわたしとの距離を極端に詰めてくる。わたしからは、壁に向かって急ブレーキをかけながら走る車に見えてくる。どんなチキンレース? 大変息苦しく窮屈だ。分譲住宅を購入した覚えはないんだけどなあ。

もし、わたしに近づく人間が意中の人だったら、どれほど幸せなのだろうか。わたしから距離を詰めていくのならさておき、相手からいらっしゃるってことは、それもう確定演出ってことじゃないか! 勇気を振り絞って告白して玉砕して打ちひしがれることもない。そういう意味でも、極上の幸せだとわたしは思う。

しかし、現実はそうではない。大半はわたしに対して好意なんぞ抱いてないだろう。むしろ敵意がある人が多い。お持ちのスマホは拳銃か何かだろうか。今にも痛い痛い言葉の弾が炸裂しそうだ。その弾丸でもって射程に収めた相手を貫き、痛みで喚く姿を見た日の夜は祝杯を上げるのだろう。まあ、嫌いなやつが泣いてるのを見て嬉しくなる気持ちは分からなくもない。背徳感溢れるが潔さもあるからだ。

でも、現代のそれはだいぶ過剰な気がする。今まで気にしていなかったが、彼らは自らをエスパーか何かだと思っているらしい。もしくは、妖怪の覚なのだろうか。ともかく、わたしの物理的なパーソナルスペースはおろか、わたしの頭の中にまで干渉し、わたしに対してラベルをベタベタと貼り付ける。そのラベルがわたしに相応しいものなのか確証が得られているわけでもないのに、決定事項として騒ぎ立てるのだ。ここにきて、情報の拡散の容易性が裏目に出る。特に悪い印象の情報は拡散が比較的早い。早いと思っている。思っているだけで対して変わらないかもしれないが、そのように錯覚してしまう。なにせ、悪い情報が拡散しているときに状況を冷静に見る余裕なんて無いからだ。

わたしは問いかけたい。
「あなた、鍵閉め忘れていませんか?」
ここは田舎じゃない。ただでさえ多い人間たちが狭い土地で生活している。いや、土地が狭いと勘違いしているだけかもしれない。まさに三密。現実世界であれだけ大騒ぎしたのに、こちらの世界もパンデミックに陥ってしまうのだろうか。それもそれでしんどい。

鍵を閉める方法。まずは、聞きたくない言葉を魔法で弾くこと。この魔法は、この世界に入ったときに覚えた。この世界における不幸の元は文字列だ。文字列に魔法をかけることであら不思議。都合よくその言葉だけを弾くことができる。ある特定の話題をシャットアウトするのに便利だ。

次に思いつく方法は、関わりたくない人間との間に魔法で壁を作ること。こちらは言葉ではなく人間を基準にしている。こちらかあちらかに関わらず、人間同士の喧嘩におけるスタンダードな解決法だ。関わりを断てば喧嘩なんて起きない。至極単純明快。

極め付きは、この世界から抜け出すこと。前述した2つの方法は魔法を行使する必要があり、聞きたくない言葉や関わりたくない人間が多ければ多いほど、手間が増える。それと比較すると、この方法が一番手軽である。まるで日々の喧騒から逃れるように旅に出かけるような感覚だ。ワクワク感すら感じてくる。ただし、この世界の恩恵に預かることができなくなる。

何故だろう。なぜ自衛をしないのだろう。魔法を行使することがそれほど疲れることだろうか。相手に怒りをぶつけるほうが余っ程エネルギーを使うのではないだろうか。怒ったところで相手の態度が変わる確証なんて無いのに。人の性格が怒り一つで変わるのなら、だいぶと苦労はしないのだろうなあ。

喧嘩したくない。痛い思いをしたくない。だからわたしは鍵をかけた。堅い堅い鍵を。相手と相手の間に壁を作るというよりは、自身の周囲に壁を作る方が正確だ。独房を作ると言い換えてもいいだろう。別にわたしは悪くないはずだけど。

もちろん、24時間鍵をかけっぱなしでは生きていけない。距離を取るのも大事だが、コミュニケーションを取らない訳にはいかない。だから、心の許せる相手に対しては、わたしのスペースに招き入れるようにする。心の許せる相手に限って。

この世界に生きる人間たちには、とある数値が付与されている。その数字が大きければ大きいほど、他人に対しての影響が大きくそれが誇りになるのだ。わたしは鍵をかけており、ドアをノックする人間が信頼できるかどうかを気にするので、数字は大きくない。しかし、わたしは数字の大きさよりも大事なことに気づいた。信頼だ。ときどき数字の誘惑に惑わされることもあるが、信頼という要素と比べることで跳ね除けてきた。


最悪だ。わたしの鍵が壊れてしまった。もちろんわたしが壊したのではない。壊されたのだ。

正確に言えば、物理的に鍵はかかっているのだ。最近は、鍵が故障してかかっているはずなのにかかってなかったことがあったけど、少なくともわたしは被害を被っていない。この世界に対する信頼はまだ捨ててない。もちろん、気が狂って自分の手で鍵を壊すなんてことは絶対にない。

一度は信頼した。その根拠は一体何だったのか忘れてしまった。今はただ、喪失感とか虚無感とかで満たされている。人間って残酷。信頼を得るのに時間はかかるし労力はかかるのに、失うときは一瞬だ。失ったことで負った傷もそうそう治るようなものじゃない。時間がかかる。

わたしが壁を超えて外側に流れていく。わたしのほんの一部だけど、それがわたしの全てだと誤解して、寄ってたかってわたしのことを撃ってくる。例の言葉の弾で。本来他人に見られるはずのなかったわたし。わたしのことを知っているのは、わたしが信頼できると認めた数人のみ。そう、わたしの鍵を壊したのは、この数人の中の誰かだ。

一体誰を信じればよいのだろうか。もう、誰かと接することが怖くなってきた。いくら自分の巣の奥深くに潜ったところで、容赦なく巣穴に手を伸ばしながら、わたしのことを探ってくる。まるでかくれんぼの鬼のように。いつか見つかってしまう恐怖に押しつぶされてしまいそうだ。こんな時代を生きなければならないのかと思うと、こんな世界から脱して現実世界で生きていくほうが楽なのかもしれない。そう思わざるを得ない。物理的に距離が取れるって自覚したい。ちゃんとした家に住みたい。鍵があってちゃんと施錠できる家に。部屋に。

この世界が作られたことで、欲しい情報を気軽かつ高速で手に入れることができた。コミュニケーションも容易になった。そしてこの世界は、人間から鍵を奪ってしまった。物理的な鍵があっても、人間の記憶から鍵という概念を消してしまった。今日もどっかで炎が上がっている。

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