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一度心肺停止した、私からのご報告(その1)

ご無沙汰しておりました。百果葉の安永周平です。
実は6月に入院致しまして、長らく投稿も閲覧もお休みしておりました。

6月21日に一度心肺停止した私は、現在自宅療養中の身で、今生きていることへのありがたみを日夜感じているのですが、
生かされた命について、今しか感じることができないかもしれない、と思い書き綴ることにしたのです。
家族への感謝と、現代医療への感謝と、自分は一体どんな存在になったのだろうか、などなど諸々を報告して参ります。

【経緯】

経緯の報告の前に、どうやら私には俗に言う「霊感」は無かったようです。心肺停止前後の記憶がないことと、俗に言う「幽体離脱」や「臨死体験」という不思議な記憶は一切ありませんでした。縁が無かったということでしょうか。

経緯としては、6月21日日曜日の朝8時半ぐらいでしょうか。当日私は早朝7時からの、町内の「道ぶしん」として河川内側の共同草刈に従事した後、帰宅後の風呂場で心肺停止になった、ようです。記憶は、事故前日の20日から、23日に病院で意識を回復するまでの3日間がすっかりありません。

後から聞かされた当時の状況は、想像しただけでもなかなか身震いする現場だったようです。

共同草刈からの帰宅後、体調不良だったのでしょうか、一度玄関で横になってしまったようで、9歳の娘が団扇であおいでくれていたらしく、しばらくして、風呂場に入ったようです。妻から聞いたのは、その風呂場で「ガタン!」と大きな物音がしたので、偶然様子を見に行くと、シャワーが出っぱなしの状態ですでに私は倒れていたとのことでした。

記憶がないので全く覚えがありませんが、お恥ずかしい話、すでに少量脱糞しており、その姿を確認して、妻は大絶叫したとのことでした。
極限まで動揺し、大絶叫を続ける妻の声で、テレビゲームをしていた娘も驚いて来て、その悲惨な姿を見てしまいました。

妻は、大絶叫したまま、娘に携帯電話を取りに行かせ、私の頬を叩いて声掛けをしたらしいです。が、口から何やら痰のようなものも出始めたのを見て、さらなる極限状態になっていったとのことでした。
妻は110番!を連呼していたらしいですが、9歳の娘が救急車は119番だよ!!と訂正したと。小学校での学習でしょうか、後から聞いて驚きました。

119番に連絡し、救急の指示を受けながら、妻は狭い風呂場で心臓マッサージを始めました。
救急隊員が到着するまで、一体どのくらい、私という「死体かもしれない」物体に、どのような思いで心臓マッサージを続けたのか、また、その修羅場を娘はどのような思いで見ていたのか。
たった二人しかいない状況での極限状態を、私は想像することができません。

娘は玄関を飛び出し、救急車が来るのを泣き叫びながら待っていたらしいです。
近所の方は、最初は「家庭の事情か」とも思ったらしいですが、泣き方が尋常ではなかったので、だんだんと気になって出て来られました。
娘は公道まで出て、救急車を家まで誘導したとも聞きました。

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救急隊員が到着し、風呂場からとりあえず外へ運び出され、処置が始まりました。
AED(自動体外式除細動器)による電気ショックで、勝手に跳ね上がる私の姿に、娘は恐怖したらしいです。
2度目のAEDでも蘇生しなかったのかは不明瞭ですが、心臓マッサージが続けられ、急いで救急車へ移動させる最中、
玄関辺りで、「奥さん!旦那さんが自発呼吸を始められましたよ」と伝えられたそうです。
そう、自宅を離れる前に、魂は引き戻されたようです。

妻も娘も救急車に同乗し、すぐさま出発。風呂場での処置中に、現場の隊員によって判断されたのでしょう、数キロ離れた公共施設にドクターヘリが来るとのことで、そこへ向かいました。
公共施設にはすでにドクターヘリは到着しており、医師の方も待機していたとのこと。
私は本当に運が良かったのだと思い返すのですが、現場の判断とともにドクターヘリへの連携と、
救急医療を奇跡的な流れで受けることができたことに、関係者の皆様に心から感謝しております。

ドクターヘリは基地病院である兵庫県立加古川医療センターから来て、北播磨総合医療センターへ向かいます。
発進する際、定員の関係上、付添は1名しか乗ることができないとのことで、妻と娘は車で向かうことになりました。
全く記憶はありませんが、ここで一旦家族とはお別れです。


その2に続く


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