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立春大吉

新年があけました。

2024年は早々から災害・事故・事件のニュースではじまり、不安な思いをされている方、これまでの日常から投げ出され日々の生活すら困難になってしまっている方、また新たにがんばっていこうと今まさに立ち上がろうとされている方、様々な場所でそれぞれの新年を迎えていることと思います。

今は世の中が大きく動く時なのかもしれません。

陰極まれば陽に転じると申します。

夜明け前が一番暗いとも言われます。

どのような思いの中過ごされている方々にも、温かく安らかな日常が降り注ぎますようお祈り申し上げます。






さて。
本日は「立春」ということで、昨日の節分には例年通り我が家でも豆まきをしました。
豆まきというと、普通は「鬼は~外!」ってやるのが一般的だと思うのですが、私はあれ何時の頃からか気がひけてしまうようになりまして、最近はもっぱら「福は内!」を連呼するようになりました。
まあ私以外の家の人は「鬼は外」もやるんですけどね。

何か、可哀そうじゃないですか?鬼。

お気付きかと思いますが、わたくし「Neo」のアイコンにしている絵なんですけども・・



山姥Neo氏



まあ、鬼ですわ。

鬼。
好きか嫌いかで言えば・・

まあ、好きですわ。



元々好きではあったんですが、何年か前にとある家系的な縁のようなつながりに気付いたことがあり、その後いくつかの鬼シンクロに見舞われ、それ以降はより他人とは思えなくなってしまいました。



節分で追い払う「鬼」にはいろいろな意味があって、見えない良からぬものの総称として「鬼」がいるのはわかります。
ですが、それをカタチにしてしまうと何だか気の毒に思えて仕方がない。
人の中にも仏のような心と鬼のような心が混在しているのだから。
それが生まれるのには、なにか理由があるのではないか。
鬼の心をただ切り捨てたり、檻に閉じ込めたり、追い出したりしたら、それから鬼はどうなるのだろう。



世の中はどんどん分離していて、国同士が、人々が、家族が、つながりが薄れている。
個人の事は個人の責任で、自分の事に精いっぱいで他の人がどうしているのか気に掛ける余裕なんて生まれない。
鬼のカタチに見えるものの心には、鬼しか住んでいないのだろうか。



この世は、相対する二つのもので出来ている。
陰と陽、その両方が一つの器の中で共存している。
陽の中には陰があって、陰の中にも陽が存在している。
だからどちらもあっていいんじゃないか。
拒絶するのではなく、どちらも受け止めて。



ええと、なんの話だったっけ。
ややふわっとはしましたが、兎にも角にも私は、今年も私の中の鬼をやさしく抱きしめて、おだやかにいきていこうと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。





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