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新しい優しさの形

時代が変われば人は変わり、価値観も変わる。変わらないもの、と呼ばれるものもあるが、実はちょっとずつ変わっていることもある。現代における「優しさ」も少しずつ変わり始めているものの1つかもしれないと、最近なんとなく考えるようになった。


優しさ、というとどういうものを思い浮かべるだろうか。実体が無い分ひとにより異なる想像をするのだろうが、自分と何かしら他者との間に生まれるというのは変わらないのではないか。あんまり範囲が広すぎてもいけないので、今回はひと同士の場合に限定してみる。
ひととひとの間の優しさ、というとお互いに支え合うとか、相手を思ってあえて厳しくするとかというのが挙げられるか。これらを仮に「積極的な優しさ」と呼ぶと、対して相手の気持ちを汲み取ってあえて距離を置いたり、何も言わなかったりするのは「消極的な優しさ」と呼べそうである。この「消極的な優しさ」には私も日々お世話になっている。

良くない癖だとは思うけれど、私は度々誰かと一緒にいてもぼんやり関係ない考えごとをしてしまうことがある。そもそも考えごとはよくする方だが、ひとに気を遣っているときには流石にその余裕は無い。なのでこんな状態になっているということは一緒にいてリラックスしているということではあるけども、まあ褒められたものではない。
ある日、大学で友達とふたりで学食を食べていたときもぼんやりしてしまった。ふっと気が付くと友達はスマホを眺めており、慌てて謝ると、謝られたことに驚いたと笑いだした。
「君ってよくLoading……って表示が出てるよね〜。何か考えてるんだなってわかりやすいよ」
と彼女は言う。他にも何人か友達に聞いてみたけれど、皆それに頷いた。でも、誰ひとりとして私にそれを止めるように言わない。多分、私がこういう人間だってことをわかってくれているのだろう。わかった上で、自身も違うことをしながら一緒にいてくれる。この「消極的な優しさ」には頭が上がらない。

「積極的な優しさ」は様々なひと同士の間で行われて時には国境さえも越えるのに対し、「消極的な優しさ」はこれまで基本的には身近なひとの間で行われてきた気がする。しかし、最近ではその様子が変わってきて、ひととひとの距離が急激に近くなった現代世界においてはそれが必要とされる範囲が広がったように思われる。
という話を先日、中高の同級生にしてみた。彼女は法学部出身で、私よりぐっと事実に基づいて話のできるひと。彼女はこの話の具体例に、SNSを当てはめた。最近、社会的制裁が法の力を上回ってひとの尊厳を裁いている。あまりの影響力に、流石に法規制が始まるのではないかというのが彼女の見解だが、するとその法の基準はどうやって決めるのか、言論の自由や職業選択の自由はどうなるのか…とふたりで頭を悩ませることになってしまった。

誰でも簡単に他人の生活を覗いて、誰でも簡単にひとを傷付けられるようになった。ひととひとの距離が見えない糸で繋がれ、どんどん短くなっていく。なにもジレンマはハリネズミだけに起こるものではないのだ。
こういう状況だからこそ、新しい優しさの形として「消極的な優しさ」が広く求められるかもしれないと思った。ある程度の無関心が、お互いを気遣うことに繋がるかもしれない。よそはよそ、うちはうち、がリテラシーとして求められる時代がやってきつつあるのだろう。
ただ、無関心も度を過ぎるといけない。社会的な生き物である我々人間は、ある程度他人への関心がなければうまく社会では生きていけない。その塩梅を、これから大人になる子どもたちのみならず、今を生きているひとびとが上手く掴んでいくためには、他人と接する経験や、想像力が必要なのだろう…


というようなことをよくぼんやりと考えている。そりゃLoading……の表示も顔に出るか…


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