映画「セッション」について

先日、「セッション」という映画を観た。たくさんの賞をとった作品だという。映画にはあまり詳しくなく、流行ったものほど何となく距離を置いてしまう悪癖もあり、どんな内容なのか全く知らなかった。


めちゃくちゃ賞とってる…


私はジャズをちゃんと聞いてこなかった人間なので、ジャズのこと、ましてやジャズドラムのこともよく知らない。思い浮かぶのは普段聞いているロックバンドのドラムのイメージ。
比べてみると、ジャズはロックに比べていわゆるリズム隊の数が少なく、より曲の進行に対して重要度が増すような気がする。(全くの素人なので全然違うことを言ってるかもしれない…)

劇中では、聴いたことのある曲を楽しむ一方、やはりヒリヒリするような緊張感が印象深い。観ながら思わずひいひい言ってしまった。テレンス・フレッチャー役、J・K・シモンズ氏から発せられる空気の張り。ひとくちに緊張感と言っても、割れる寸前の風船のようなものから雷鳴のような怒号のさなかに至るまで様々である。作品内での緩急が繰り返されることで、徐々に作品世界に引き込まれていく。


主人公アンドリュー・ニーマン役、マイルズ・テラー氏の演技もやはり目を引く。
最初はあまり感情が読み取れなかった。しかし物語が進むに連れて、偉大なジャズドラマーになりたいという願望だけでなく、彼の力量を認めず理不尽な要求をするフレッチャー教授への憎しみが彼を動かしているようにも見えた。まさにエゴとエゴのぶつかり合いだ。

一方で、彼らの関係、言動を「狂気的」という言葉だけでまとめて良いものだろうかとも思った。
誰かが何か悲願を成し遂げようとする時、世の中の常識を逸脱するような言動をとる場合があるのは想像しやすいのではないだろうか。恐らく、現実にもこのような背景を元に生み出された功績は多々あるだろう。
映画内で表現される目標への焼け付くような情熱、思いとは裏腹に悲鳴を上げる肉体、登場人物同士の関係複雑に絡み合う。「狂気的」のラベルで覆うにはもったいない気もする。


自分に近しいところで考えると、「教授」としてのフレッチャーのあり方も気になる。アンドリューとフレッチャーが所属する音楽学校がどのような設定かはわからないけれど、日本の大学のような位置にあるのであれば、フレッチャーが教員免許をもっているとは限らない。日本でも大学教員になるために中高教員免許は必要ない。多分、実績はあっても学生に教えるのは苦手という大学教員もいるだろう。

フレッチャーの指導を教育の観点から見てみたいと思う。アンドリューのドラム技術、性格をすぐに見抜き、彼の技術が向上するための方策を的確に打ち出すことができる判断力は見事だ。ただ、それはアンドリューのためではなく、完璧なバンド演奏のためである。実際に、アンドリューが自分に楯突いた結果、演奏がうまくいかなかったとき、結果的にアンドリューは退学に追い込まれてしまった。

しかし、ぼろぼろになろうとも確実にアンドリューは力をつけ、ついにはフレッチャーの想像を超えるまでになった。この結果を踏まえた時、果たしてフレッチャーの指導は必ずしも悪いものだったと言い切れるのだろうか。指導自体はモラハラ、パワハラの嵐であるが、きちんと結果を残している。
フレッチャーの教育は、軍隊的な昔の日本教育に通じるところがあると思う。現在はそれを問題化して、モラハラ、パワハラのない教育が目指されているが、もしかすると極限状態において爆発的に伸びる才能もあるのかもしれない。しかし人道的にいかがなものかとはやっぱり思うし、難しいところだ。
(そもそもこの作品では教育の観点は見どころではないだろうが……)


幕引きの後、アンドリューは大成したのだろうか。アンドリューの性格や物語の進行上、何とも言い難い。ただ、何かを成し遂げる時、そこに犠牲を厭わない心は多少なり必要なのかもしれない。


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