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恋愛と結婚、社会

 あなたは恋愛をする部類の人だろうか。そして、人はなぜ恋愛する、逆にしようと思わなくなるのだろうか。今回は私が実際に体験したとある出来事から得た気づきと、それに基づいて私が社会変化といった観点交えながら仮説を展開してみたことを記事にしてみた。

考えるきっかけとなった同僚との会話

女性の同僚を含めた飲み会の帰り道、私の同僚がふと呟いた。
「人を好きになる気持ち、付き合いたいという気持ちを忘れた。性欲はあっても、そのようなことをしたいと思わない。俺はこのまま人間としてダメになりそうだ。笑」

私自身は彼の気持ちに共感することはできなかった。人並みに恋愛はしてきたし、異性と付き合っていない期間が長くなると、どうしても恋がしたくなるような恋愛体質人間だからだ。
しかし、私の周囲には先ほどの友人のような考えや価値観を持つ人も多い。寧ろ、私個人の観測範囲でみると、そういった人々が多数派だ。

彼の話を聞いたとき共感することは出来なかったが、なんとなく理解でき、彼や私たちが現在置かれている環境ではそうなることもあるかもしれないと変に納得してしまった。

なぜ恋愛をしたくなるのか, したくならないのか

恋愛をする理由。社会の変化と時間的コストの増大。

 人はなぜ恋愛をしたくなるのか。「動物的な本能からくる性欲から突き動かされる」のか、それとも「人間というのは社会的な生き物で、他者と交わる、コミュニケーションを行うことを欲し、その欲求の現出」なのだろうか。恐らくどちらも正しいのだろう。

 ではなぜ「恋愛しなくなった。欲がなくなった。」と言われるのだろうか。私は仮説として、「現代社会は娯楽やモノが溢れすぎてしまっていること」と「社会が我々に特定の選択肢を強制する力が弱くなってきていること」という2つが大きく影響していると考えている。

 我々1人1人の「有限の時間」と「有限の労力(なにかの活動に費やすための力や体力)」と比べて、現代社会の娯楽やモノは膨大になってしまっている。恋愛を含めた「活動」の選択肢が爆発的に増え、必然的に「選択と集中」を迫られることになる。男友達と遊ぶ、アニメを見る、仕事に熱中する、枚挙にいとまがない程に時間の使い方の選択肢は無限にあるが、そのなかで意識的あるいは無意識的に私たちは優先する活動を選択する。

恋愛が選択されにくくなった理由

なぜ「恋愛」を選択する行動がとられなくなるのか。

 まず、恋愛というのは、膨大な選択肢の中でコストが比較的高く、不確実性も高いということが挙げられる。時間を費やしたしても必ず報われ、幸せになれるとは限らない。そういったものに時間を費やすより、よりコストが低くて幸福が感じられるものは存在する。よって、恋愛というのは一種のギャンブルであり、「不確実な賭け事をすることに魅力を感じない」のと同様に、膨大な他の(確実性の高い)活動に時間を投資するのも理に適っているように思える。

 次に、リスク的な行動である恋愛、特に結婚を強制、促すような社会ではなくなったということだ。選択肢自体の数は、戦後などでもそれなりにはあっただろう。しかし、社会による圧力、強制力は変化した。「20代前半に結婚することが当たり前、結婚していないと噂が立つ」というような社会ではなくなった。そして、「子供が稼いで家庭に還元してくれる」という考え方はすることはなくなった。寧ろ、子供を育てるにはそれなりの経済力が必要であると考えられるようになり、言い方は悪いが「子供は贅沢品」になりつつある。そのため、結婚するまでの過程である恋愛に対する経済的なインセンティブは弱くなり、リスク的で不確実な恋愛を選択しなくなっていく。

「経済的成熟が必然的に恋愛不要を加速させる」という可能性

 上述したのはあくまでも私個人が見た世界での仮説だ。しかし、仮にそれが正しいとしたら非常に興味深い。(余るほどに過剰供給と言えるほどに)娯楽やモノが溢れかえるというのは、社会が経済的には豊かになった形の1つだ。しかし、そのように豊かで社会が経済的に成熟していったことで、国として人口減少による経済力低下に少なからず影響を与えているかもしれない。経営学でいうところの「製品ライフサイクル」のようなものが社会や国といった共同体自体にも存在するのかもしれない。

 「少子化」という問題はよく議論され、給付金や支援政策するべきだという議論がマクロ的観点でされることが多い。しかし視点を変えて、そもそも結婚して子供を育てる以前の恋愛自体が少ないかもしれない、その原因はいかなる社会変化で起こっているのかについてもう少し議論されても良い気がする。金銭的な負担を減らしたところで結婚から出産の数が増えるのか、そうでなければ「国のライフサイクル」を受け入れて今は維持か下降率を抑えることがよいのか、もしくは時間的コストを減らしたり、恋愛に時間を割きたくなるように促す方法があるかと模索したりするべきなのかなど色々ある。

おわりに

 今回も私の経験した出来事から仮説をたてて話を展開していった。これは私の経験や観測範囲からくる極端な仮説、なんなら夢想にしか過ぎないだろう。しかし、こういったことを考えていると何ともない日常が少し奇怪で、面白いものに感じることもあるのだ。
 もしこの記事が読者の「恋愛」や「社会変化と少子化」に関する問いを考えるきっかけとなれば非常に嬉しい。

それではまたいつかのどこかで。


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