「死ぬ」の反対ってナニ?~ 「死」について考える~

 「死ぬ」の反対と言われて、最初にどのような言葉を頭に思い浮かべるだろう。僕は、この問いを実際に何人かにしてみたことがある。皆一様に、こう答るのだ。「生きる」だと。

 今、多くの人が、未来への希望を見失って生きている。それは、「生」を見失って生きているからに他ならない。日本の10代の死因一位は自殺だ。日本財団の第4回自殺意識調査では、10代後半の約三割が「これまでの人生のなかで、本気で自殺したいと考えたことはあるか」という問いに「はい」と答えている。物心ついてたった10数年で、35人学級の中の10人くらいは「本気で自殺したい」と思ったことがある。この事実はちょっと衝撃的だ。彼らのほとんどはまだ働いてもいないし、いわゆる社会の荒波の外だ。これは決して、今の若者は精神が軟弱だとか、そういった類の話ではない。僕には、社会全体が「生」を見失い、その重苦しい荒波が、学校に濁流となって流れ込んで、子どもたちが教室の中で一生懸命顔を出して、空気を求めて藻掻いているように見える。

 本題に戻るが、僕は、「死ぬ」の反対は「生まれる」だと認識している。似たものを挙げると、「死んでいる」の反対が「生きている」だ。でも、「死ぬ」と「生きる」は決して反対の概念ではないのだ。だから何だと思うかもしれないが、僕は、多くの人が「生」を見失っている理由は「死」を遠ざけているからだと考えている。「生きる」という行為は、「死」に向かって歩むこと。つまり、「死」は「生」の対極にあるのではなく、「生」の先にある。「死」に至る過程が「生」であると言えるだろう。考えてみれば、当たり前のことだ。でも、その当たり前が、社会から消えてしまった。「死」をタブーにしてしまった。現代人は、本来身近な存在である「死」を、遠ざけてしまった。「死」を不吉なものとして隠してしまった。「死」を遠ざけ隠すことは、「生」を遠ざけ隠すことと同義なのに。

 誤解がないように申し上げておくと、決して、死を身近に感じるために危ない目に会えと言っているわけではない。ただ、あまりにも周囲の大人や社会が「死」を覆い隠すため、社会で、学校で、家族で、死について考え、学ぶ機会がほとんどないのだ。僕たちは命を食べているのに、目の前にあるのは調理され加工された製品ばかり。人の死に場所は、ほとんどが病院だ。かつては嫌でも身近に感じていたであろう「死」が、今は意識しなければその輪郭が見えてこない。

 現代日本では、死と触れ合う職業に従事している人や高齢者や重い病気の人たちのような限られた人だけが、死に向き合う。それは、生きることに悩んだ子どもたちの目の前に、「死」が突然顔を出しまうということではないか。そのとき、その子どもはひとりだ。たったひとりで「死」に向き合ってしまう。だからこそ、「死」をみんなで学ぶ必要があると思う。誰もが気軽に、と言うと語弊があるかもしれないが、重苦しい空気の中ではなく、「死」に思いを馳せ、話しあったりする場があれば、「生」を見失わずにすむのではないかと思う。浅はかな考えかもしれないが、そう思うのだ。

 未来とは「死」であり、希望とは、その「死」への道筋である生き生きとした「生」の中にのみ芽吹くものだ。光を描くために影をつけるように、「生」を描くためには「死」が必要なのだ。現代人は、もっと「死」について考える必要があるのではないだろうか。もちろん、それは「生」について考えることと同義である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?