見出し画像

【短編小説】まつ毛 〜第1話〜

「隆男ちゃん、まつ毛だけは立派な良いまつ毛してるよねぇー」
子どもの頃、周りの大人たちに「まつ毛だけ」は褒められていたような気がする。小学校ではまつ毛にマッチ棒を乗せて戯けた。

55になった今、鏡に映った顔を確かめてみる。
幸いにして髪は十分あるけれど、日焼けした肌に厚いクマ、ほうれい線はどこまでも深く、長い。まるで腹話術のふくちゃんのようでもある。
まぁ加齢には逆らえないよな、と自分に言い聞かせるが、もう少し眼が大きくて、鼻が小さくて高くて、顎が細ければ、つけまつ毛をしたブルドッグにならずにすんだのかもしれない。
そんな心の声が聞こえたのだろうか。隣から鏡を覗き込んだ女房は「ブサ犬ね」と言った。

女房とは35歳の時に結婚した。紹介してくれた職場の後輩は「小さくてお人形さんみたいな人」だと。
名前は優香と言う。よくテレビに出ていた女優と同じ名前なのが嬉しくて、どこでも「おーい、優香ー」と大声で呼ぶ。彼女は恥ずかしそうに「はーい」と答えた。

ーーあれから20年、平穏で幸せな生活が続いている。ただし優香はいつのまにか人形から着ぐるみに進化した。
今も変わらず優香と呼ぶ。
「おーい、優香ー」「はーい」

夫婦の趣味はドライブだ。
ーー私の相棒を紹介しよう。1976年式フォルクスワーゲンゴルフ。初代ゴルフと言えばわかりやすいだろう。かの有名なジウジアーロデザイン、ゴールドの車体、右ハンドルの2ドア5速ミッション。
残念なことに職場の同僚や後輩達は全く興味を示さない。まぁハイブリッドやEV全盛の時代、車のサブスクが持て囃される世の中だからほとんどの人はそんなもんだと思う。別に気にしない。

例えばこんな選択肢はどうだろう。
目の前に浮かぶ無人島に探検に行こう。エンジン付きのボートで行くか、丸太で筏を作って行くか。
私にとっての答えは至って簡単。

どれだけ時間がかかっても筏の方を選ぶ。できれば木を切り出すところから始めたい。楽しむとは本来そういうことのはずだ。

だからこのゴルフはとても気に入っている。さぁ窓を全開にしてドライブに出かけよう。
「おーい、優香ー行くぞー」「はーい」


お待たせー、助手席のドアを開けて乗り込んできた優香は、薄いレースを何枚も重ね、肩から透明の紐で吊るされたゴールドのワンピースを身にまとう。まるでオペラリサイタルのようだ。
それでも優香は言う。「あなたの車の色に合わせて選んだのよ」

ーー嗚呼優香よ。車の外から見るとまるで裸じゃないか。


小洒落たイタリアンのお店でランチとデザートをいただいたあとは、涼しい森を抜けて家を目指す。

美味しかったわね…の会話くらいはしただろうか。いつの間にか助手席でウトウトし始めた優香が起きないよう、いつものように優しくクラッチを繋ぐ。
ただでさえ広いとは言えない車内。助手席の彼女の脚は徐々に開いていき、変速するたびにシフトノブが彼女の太ももと接触してしまう。おっとこの先はヘアピンカーブ、サードまで落としたいところだ。

私は左手で、汗ばむ太ももに優しくシフトノブを食い込ませ、優香を起こすことなくギアを落とした。


「おーい、優香ー、家に着いたよ」
優香は少し赤くなった右の太ももさすりながら答えた。
「はーい、あら寝ちゃったみたい、ごめんなさい」
「いいんだよ」
「いつも優しいわね」
「だって他に取り柄がないからな」
「そんなことはないわ。まつ毛は素敵よ」

#エッセイ #短編小説 #ショートショート

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?