読書感想文 スティーブン・キング『ペット・セマタリー』
えっ、『ペット・セメタリー』じゃなかった?と思うところだが、小説の中で子供がスペルを間違えて書いてるのを、訳者が日本語に反映したとのこと。映画では、説明しきれないところなので、『ペット・セメタリー』となっている。
これもまた、不気味とか怖いとかいう、読む前からのイメージがあるんだけれど(たぶん映画の影響)、読んでみると印象が違った。
失った大事なペットや大事な人を蘇らせる方法があるのなら、実際それに手を染めるかどうかという人間の気持ちを描いた小説じゃないかと。
舞台装置として、昔から子供たちがかわいがっていたペットを埋葬する「ペット・セマタリー」が存在する。子供たちが作ったペットのための墓標がたくさんある、ふと自分の子供の頃を振り返ってしまうような場所である。
主人公ルイスが、引っ越してきて隣人となったジャドにそこへ案内してもらったときに、「奥にある倒木の山を越えてはいけない」と注意される。しかし、その奥には・・・
今まで読んできたキングの小説同様、隣人ジャドとの細やかな交流、幼い娘と息子がいる、ルイスの家庭での出来事が、事細かに描写される。それによって、読者はルイスとジャド、特にジャドに好感を抱くようになる。
変化は、妻と子供たちが妻の実家へ行って留守にしている間に(妻の父とお互いに相性最悪なルイスは留守番である)、娘がかわいがっていた猫が(おそらく)車にひかれて死んだことから始まる。
そこで現れるのは、魔法というよりも、明らかに呪術である。実際、土地そのものに強く結びついているために、土着の呪術というイメージが強い。勝手なイメージかもだが、魔法よりも、ずっと泥臭く、人が理由もなく信じているような迷信に近い。
それに一度手を染めてしまったら、二度目も使わずにいられるほどルイスはの心は強くなかったし、また無残に心折れるような出来事がルイスの身には起こり、呪術にでも頼らなければ、失ったものへの悲哀が止まらなくなる。
この、失ったものに対する深い深い悲哀は、どんな人間にも理解できるものだが、その悲哀を解決できるかもしれない方法が手を伸ばせば届くところにあるときに、手を伸ばさずにいられるかというのも、また人の心の迷いとして、読者にも理解できる。特に、自分がもし○○していればという後悔にも苛まれているルイスの心が、そういう誘惑をはねのけられるのか、というのもまた人の心の迷いとして理解できるものである。
そこからの状況は、カタストロフ一直線である。呪術は、望んだ結果をもたらすが、それはうわべだけで本当に望んだものではない。その辺りは、願い事をするときには慎重にならなくてはいけないという、昔話と共通する部分である。
禁断の術を使って(うわべだけでも)成功したら、次に使うときの心の抑止力はどんどん低くなる。または、そういう人間は抑制することができないという点で、すでに狂気に陥っているのかもしれない。
そういうことを考えさせられる小説だった。
ちなみに、キングはこの物語を書く際に、『猿の手』を下敷きにしているというのも納得である。