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椅子【短編小説】

 椅子は、そこにあった。寂しげな背中をたたえながら。 





 体育祭が近づいていた。体育祭。いつもは無彩色の学校が、1日だけ、鮮やかに色づく日。赤に青に黒に、情熱に青春に歓喜に屈辱に。放課後には太鼓や演舞、チアの掛け声が響く。彼らの屈託のない笑い声、真剣な眼差しは、秋晴れの濃く澄んだ空にあまりにも似あう。

 漫画みたいだと、私は思った。体育祭を染める色は、ぺったりとのっぺりと、その行事を正しい配色で色付けていく。あるべき姿で、思い出というページに印刷していく。恋も葛藤も不和も団結も、全て台本通り。流すべき時に涙を流し、歓喜すべき時に手を取り合って喜ぶ。そうとあるべき正しい姿でそこにある。

 私はその日のために、ただひたすらに42枚のベニヤ板を染めていた。半年後には解体される、古い校舎のもう使われていない一室で。周りには、数人の装飾メンバー。チアはきつそう、外は暑い、気だるそうにだべる彼らもまた、この体育祭という行事を完璧な思い出へと昇華させる重要なキャラクターの一員だ。このパネルは、体育祭を正しく鮮やかに染める、大道具の一つとなるだろう。私はベニヤ板の上の鳳凰を、紅に染めていった。ぺったりのっぺりとした平面。どんなに影をつけたって、どんなに遠近法を使ったって、平面は、平面。

 私はひたすらに無気力だった。輝かしい青春の1ページに、特に興味はなかった。しかし、彼らの思い出に、黒いしみを残すわけにはいかない。友人に勧められるがままに装飾に参加した。赤いペンキと、黄色いペンキを混ぜる。思ったような明るいオレンジ色にはならなくて、濁ったペールオレンジが出来上がる。どんなに明るい色だって、混ぜてしまえば彩度は落ちる。

 「青い鳳凰でも良かったね」と友人は言った。
「鳳凰は赤いものだよ」と私は言った。
「そうかな。」友人は笑った。その目は少しー少しー、なんだっただろう。

 体育祭前日、ベニヤ板はグラウンドに運ばれた。櫓に掲げられたそれは、最後の仕上げにかかったチアや演舞に火をつけた。42枚のベニヤ板が消えた教室には、ペンキに汚れたブルーシートや刷毛が散乱していた。
「なんかもう、寂しいね。本番は明日だけど。」友人は言った。残された残骸たちを片付けてしまうと、教室はすっかり元のように、無彩色に戻った。

 体育祭当日。体育祭は、台本通りに色づけられていった。暑い、熱い空気がグラウンドに立ちこめる。澄んだ秋晴れの下、彼らの努力は実を結び、あるいは報われず、彼らは美しい涙を流した。ベニヤ板の鳳凰は、彼らを見守った。私は始終、冷めていた。非日常にあっても、私の無気力は変わらなかった。私は鮮やかに色付けられていく漫画の1ページをただ、眺めていた。

 彼らの思い出に、黒いしみを残すわけにはいかない。私は私の使命感にも似た感情を、ふと思い出した。完璧な1ページを創る、キャラクターの一人になりきれない私は、ここにいる資格はないのかもしれない。私はオーディションで落とされるべきだった役者。ふと居た堪れなくなって、42枚のベニヤ板と過ごした教室へ、ひっそりと向かう。

 この教室も、毎日のようにやって来ていた生徒たちが急にいなくなって、さぞ寂しかろう。久しぶりに活気が戻って来たと思ったら、一ヶ月もせずにまた見捨てられるなんて。騙されたような気分だろう。そんなことを思いながら、重い扉を開ける。

 椅子は、そこにあった。寂しげな背中をたたえながら。半年後には解体される、もう使われていない古い校舎の一室で、ペアになるべき机もなく、ただ一人ぽつねんと、取り残されている。ペンキに汚れ、しかし染まり切ることもできずに。

 私は椅子に腰掛けた。遠くでスターターが響く。薄暗い教室に、私と椅子の、黒い影が落ちる。私は長いこと、その影を見つめていた。

 ふとそこに、背の高い影が加わった。友人は、椅子の背中にもたれかかった。

 「ほら、ちょうちょ」
友人の手が、私の肩に置かれた。長く伸びた影の先、黒いちょうちょは私の肩に、止まっていた。

 細い窓から突然、夕日が差し込む。世界が色づく。色は混じり合って、輝きを増す。この色は、混じっても濁らないんだな。






 椅子は、そこにあった。二人の高校生と、真っ赤な夕日の、あたたかな体温を感じながら。






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