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【#15】質的調査的なフットボール分析とは何か

アンダーグラウンド

先週は頭痛が酷く、数日飲まず食わずで寝込んでいたため更新できませんでした。すいません。

先週はデュッセルドルフへ行き、そこでだいぶ疲れてしまったよう。デュッセルドルフには日本人街があってエセじゃない日本食が食べれるので、何かしら食べて帰ろうと思ったのだけれど、ラーメンも寿司も恋しくなくて食べなかった。だけど日本語の活字だけはどうしても恋しくて、日本からの輸入書店には立ち寄った。

すぐ読み終わらないようにユヴァル・ノア・ハラリを一冊買って帰ろうと思ったけど、それは日本で活字ジャンキーだったヤツの思考で、そんな誰が読むかわからない本は輸入するわけなかった。ハードカバーなんて一冊もあるわけなくて、有名どころの文庫が倍の値段で売っていた。

すぐ読み終わらないようにと一番分厚いものを探して、結局村上春樹の『アンダーグラウンド』を買った。地下鉄サリン事件の被害者(この呼称が正しいかもこの本を読んでいて疑わしくなってきてはいるのだが)のインタビューをもとに作ったノンフィクションだ。

帰ってすぐに体調を崩して一日中寝ていたものだから、その間買ってきた本を読んだ。久々の活字だし、元からオウム真理教に興味はあったし、自分がインタビュー調査畑に進んで行こうと考えいたものだから、(不謹慎であるけど)面白くて仕方がない。

元から頭が痛いし、内容も重くて頭が痛くなるような内容だけれど読み進められる。オウム真理教について興味があった、というのがWikipedia読んだ程度だと思われないように、余談だけどオウムエピソードを書いておこう。

高校の英語授業で、学期末でテスト返却も終わっているというので、教員が余談を始めたことがあった。その教員は宗教団体のところに行っては論戦を仕掛けるのが好きだという、だいぶ変わった趣味の持ち主で、かつて阿佐ヶ谷だかどこかの中央線沿線にあったオウム図書館という施設に行った話をしてくれた。

話が始まってしばらくしてみんな興味がなくて寝てしまったのだけれど、30分ぐらい続いたなぜ上祐史浩が死刑にならなかったのかというその先生の説を、クラスでただ1人真剣に全部聞いていた。終業のチャイムが鳴ったときクラスのほかのみんなはぐっすりと眠っていた。いつもの授業のときの私のように。オウムの話をした授業だけが、その学期で唯一寝ないで起きていた英語の授業だった。

というぐらいにはオウム真理教には興味がある。が、ではどうしてフットボールに関する記事タイトルで、オウム真理教の話なのか。というのもなにもアップで五体投地をしてフットボールに帰依しようとか、そういう話ではない。社会学の知見をフットボールに転用できないか、という試みである。具体的に言えば、今回私が読んだ本のようなインタビュー調査、もう少し広くいうと質的調査の知見を活かせないだろうかと思ったのだ。

社会学に何ができるか

社会学をざっくりと分類するのは憚られるが、おおよそとして理論研究、量的調査、質的調査で分けて捉えようと思う。そしてそれぞれのフットボールへの転移可能性を見ていこう。

理論研究といえば、やはり私の大学である学芸大のビックブラザー瀧井先生のゾーンプレスが代表格だと思う。プレッシングという戦術概念を日本に翻訳・移入することを成し得た。具体的なケーススタディをするにしても、結局のところ目指したところは、普遍的な原理原則の抽出であった。

今となっては誰も不思議には思わないが、1stDF、2ndDFを決定して、1stはチャレンジ、2ndはカバーという普遍原則を確立したというのは、偉大な功績だと言うしかない。今となって考えれば、素人に武装させてどう戦わせるかを本気で考えていた、社会主義ゲリラのような発想でもある。そういう意味で、瀧井先生が「エンジョイ」を唱えるのはある種必然でもある気もする。

戦略的なレベルでの理論と言えば、ここ10年で流行ったピリオダイゼーションもある。選手のピーキング-テーパリングのコントロールを年間サイクル単位で計画することを理論化に成功したように見える。雑にまとめるならば、選手が疲労するのと回復するそれぞれのキャパシティを計算して、どこまで追い込んでトレーニングしていいかを示そうとしたのだと思う。最もそんな単純な話で片づけられるわけではないが…

それに理論研究として一番シンプルなのは、フォーメーションがある。フォーメーションなどは電話番号と同じで、意味のない数字の羅列だという人もいるが、少なくともDFの枚数で自陣ゴール前の守備であったりボール保持をある程度デザインできるという面で理論研究に近いと言えると思う。

だから、ビエルサなんかは相手のフォーメーションに応じて、自動的に自チームのフォーメーションが決定する。相手のFWが何枚だから我々のDFは何枚という風に。最もビエルサは理論研究の人ではなくて、ビデオを擦り切れるまで見てパターンを抽出するという、圧倒的な量の調査から質へと転化させた研究者である。

彼がよく「フォーメーションは○○通りしかない」というパターンの数が変化するのも、帰納的に考えているが故にその時々で変化する。抽象論から入っていないのだと思われる。

第二のパースペクティブとして、量的調査という面で言えば、近年のブラジャーをつけてプレーする選手の増加を見てわかるように、GPSを通してデータ回収が容易になった。走行距離からスプリント回数やら何やらを測っていて、心拍数とかまで測っている。フィジカル的なスタッツだけでなく、パス回数やパス成功率、それだけではなく実際的な指標としてのゴール期待値など、データ会社の勃興とともに情報はさまざまに収集されている。

近年で一番、量的調査的という意味でサイエンスを多用して成功しているように思われるのが、RBグループとガスペリーニのアタランタが挙げられる。レッドブル・ライプツィヒが何をやろうとしたかと言えば、シュートを打つまでの時間すらコントロールしようとして、観測可能な指標を最大限活用して改善を試みた。

メジャーリーグでのビリー・ビーンのセイバーメトリクスの成功が持ち込まれ、様々なスポーツ分野が量的調査に還元されるという意味で「アメリカナイズ」された結果であろう。

質的調査の難しさはいくつかあるが、特にデータ収集とデータ運用という点が大きい。データ収集というのは、単純に考えても機材と人件費、要するに金と時間がかかる。特に量的調査という名前が示す通り、基本的にはデータサイズの大きさがデータの妥当性をより高めるので、資金投入が大きいほど有効なデータを獲得しやすいことになる。

当然、現在では多くのデータがオープンソース化されている部分もあるが、任意の指標のデータが必ずしもフリーアクセスとは限らない。もし、独自の指標あるいは独自の基準でデータを評価するなら、自分たちで集めなくてはならない。これは資金力が大きいチーム、規模が大きいチームに長期的に有利に働く。(当然のことではあるが)

苦労をして集めたデータだが、データ自体は嘘をつかなくても、適切な解釈がなければデータは価値を生み出さない。これは『サッカーデータ革命―ロングボールは時代遅れか』にあった私の好きな話で、舞台はサー・アレックス時代のマンチェスターユナイテッドに遡る。

あるオランダ人DFがタックル数が減少していることを「発見」したファーガソンをはじめとする首脳陣は、そのDFを放出した。ところが以降守備陣は失点が増加した。そのオランダ人は年齢による衰えでタックル数が減ったのではなく、むしろ円熟を見せてタックルをしないでも守れるポジショニングを取れるようになったのであった。

つまり、正しいデータ抽出とデータ解釈をすることが何よりも肝要になるのである。ポゼッションを指向するフットボールを目指したところで、ボール保持率を上げても勝ち点に結びつく指標になるとは限らない。では、ポゼッションを基軸としたゲームモデルで有効な指標とは何かを検討する必要がある。あるいはそもそも強豪チームが大概ボール保持戦略をとっているからと言って、チーム強化のためにボール保持戦略を採用するのが最適解かは別の問題として存在している。

第3の視点として、ようやく本題に入って、質的調査的なフットボール分析とは何かについて検討しよう。質的調査とは、例えば(半構造化された)インタビュー調査やフィールドワーク(参与観察とも)のような、統計や数値的に計量し難い情報を収集する調査のことである。

質的調査が(自然科学的という意味で)科学的、つまり再現性があるかという問いに対しては、アカデミズムの世界でも未だに議論が割れるところではある。しかし、やはり量的調査でははずれ値として処理される、例外や逸脱を深く調べることができるという点で、認識利得は充分にあるように思われる。

もう少しかみ砕いていえば、そのとき、その場所で、そこにいた人間は何を考えたのかについて知ろうとすることが質的調査の根幹であろう。それはときとして現在進行形でもある。

私の好きな社会学者のひとりの岸政彦さんは、インタビュー調査のはじめに必ず研究参与者に「お生まれはどこですか」と聞く。私もそのフォーマットが気に入って借用しているが、未だに拙いインタビューしかしたことがない。生まれや、育ち、両親、地元、学校…それらは例えば貧困の調査であるならば、貧困というさらに大きな現象を理解するリードラインになるようにも思われる。

が、それをフットボールにも転用できないだろうか。逆説的な表現だが、選手を本当に「心から理解する」というアプローチである。そしてそれはオシムさんのアプローチでもある。合宿の食事の時間のオシムさんは、自分の食事には口をつけずに始終選手を観察していたという。そして、どの選手は家庭で上手くいっていないとか、誰と誰が仲がいいとかそういうことまで把握していた。

最近のフットボールは、理論化と量的な評価が加速したがゆえに、前時代に見られた、能力値は高くても人格的に少し問題のある選手やタスクを遂行できない選手の居場所は無くなりつつある。彼らのようなはぐれもの、逸脱者たちの居場所を残しておけないものかと思う。

オシムさんの手腕に還元するのではなく、質的な調査を経由して、フットボールを分析する手段を理論化できれば、新たなサイエンスとしてのフットボールの地平が開けるのではないかと思う。

たとえば、性格的に落ち着いた選手はディフェンスに向いているという俗説を本気で検証するところからスタートできるのではないか。

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