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【#16】自分のフットボール哲学を再整理する

フットボール=相互行為=コミュニケーション?

フットボールの本質とは何でしょうか。68×105mのピッチに、11人vs11人が集まってひとつのボールを互いのゴールに蹴り込みあって、得点が多い方が勝ちという競技。しかしそう単純なものでしょうか。少しひねくれて見て、フットボールとは中世における聖人の祝祭日に端を発する狂乱であるとか、夕日が差し込む河原の喧嘩のようであるとか、まぁいろいろ言うことはできるでしょう。さもすればフットボールを語る人の数だけ、フットボールの定義はあるでしょう。

拡大解釈するならば、その人なりのフットボールの定義というものが、その人のフットボール観、もっと大きな言い方をすればフットボール哲学と言えるでしょう。その人のフットボール哲学はその人の生き方と密接に関わっています。オシムさんは数学者として大学の教授にもなれた人でした。ベンゲルさんは経済学の修士号を持っていました。ラグビーのエディーさんは教師の経験もあった人でした。高校時代の恩師も、数学科の教員で論理的に考えることが好きな人でした。

では、私にとってのフットボール、私のフットボール観、私のフットボール哲学はなんでしょう。私は社会学の学生であり、同時に英語教師の卵でもあります。そう考えたとき私にとってフットボールの本質とは、「相互行為」であると定義したいと考えます。社会学の用語として「相互行為」とはもともとドイツ語の”die Wechselwirkung"、英語でいうと"An Interaction"といったところでしょうか。だが、さらにもっとシンプルに言い換えて、「(相互)コミュニケーション」と定義を仮置きしましょう。

まだ駆け出しの社会学徒でしかないので、説明に正確さを期すことはできませんが、「相互行為」は社会学の分析の中心概念でのひとつです。相互行為は個人と個人の結節点であり、社会の紐帯の基礎単位と考えらています。相互行為に関しては、多くの論者が多くの見立てを立てて、社会の構造を解き明かそうとしてきましたし、今ものその試みは続いています。

例えば、著名な社会学者のひとりであるT.パーソンズは社会の中における期待に着目しました。いわゆる「役割期待の相補性」の話が好きなので、引用しようと思います。自転車に乗っているとき、向かい側からも自転車が来ますs。相手が右にハンドルを切る、つまりこちらから見て左へ行こうとしたら、私もハンドルを右に切ればぶつかりません。アルゴリズム体操みたいなものでしょう。このとき、人々はお互いに右によけるだろうと「期待」していて、この期待こそがパーソンズが相互行為の中核をなすものであると主張するものです。

かつて私が所属していたジュニアユースのコーチが、私が中学生だった当時、相手のベクトルの逆を突いてプレーしろという意味で、「逆取り」と連呼していた時期がありました。その時期に、スクーターバイクで練習場に来るコーチを見ながら、選手同士で「○○コーチはウインカー右に出しておいて、『逆取り!』っていいながら左折してるぜ」とかなんとか下らない妄想の噂話を良くしました。普通に考えれば、そんなことをすれば事故を起こすに決まっているし道路交通法違反もいいところですが、思春期はそういう下らない作り話がいくらでも出てくる時期でした。

大事なことは何かというと、自転車が右折しようとするときには、お互いの雰囲気を察しますし、ウインカーを見てどちらに曲がるのかも、非言語的なコミュニケーションで判断しています。つまり、言語的なものだけがコミュニケーションではなく、むしろ非言語的なコミュニケーションも相互行為の一部であり、社会を秩序立てています。

この立場に則り、フットボールもまた相互行為、積極的に定義すればコミュニケーションの一形態であると私は考えることができると思います。よくよく考えてほしいのですが、私がドイツに行ってフットボールに混ぜてもらうと何の問題もなくプレーできます。ワールドカップや国際親善試合、ピッチ上の11人は相手の11人とは、お互い別の言語を話すのでコミュニケーションをできないはずだが、試合は何事もなく行われそしておおよその場合何ごともなく終わります。共通のルールを用いているのだから当然だろうと思うかもしれませんが、互いに同じルールの下でプレーするだろうという期待が存在していると読むこともできます。

だから、フットボールは(相互行為という意味で、以下同)コミュニケーションであると見るとき、日本でよく聞く「自分たちのサッカー」をするという考え方は幾ばくか矛盾したものに写ります。これは俺のスタイルだからといって、ドイツでドイツ人に日本語でまくし立てる人は狂気の人であるでしょう。ところがフットボールになると、急に自分たちのスタイルを押し出そうとするのです。

コミュニケーションにはもちろん様々なジャンルがあり、そのジャンルに応じて自分の得手不得手はあるにせよ、その場に応じた正しいコミュニケーションを選択する必要があります。ゆえに、大味なコミュニケーションもできた方がよいし、歯切れのいいテンポ感のあるコミュニケーションもできた方がよい。プレゼンのように念入りに準備を重ねて行うものもあれば、飲み会のような即興性に満ちたものもある。話し手のときもあれば、聞き手のときもある。しかし、どのコミュニケーションが是あるいは非ということはない。

フットボールにおいても、アラダイスボールはダメでティキ=タカは正義だという人もいるが、それは一概に断定することはできないことでしょう。長いボールか短いボールかどうかではなく、正しいボールを蹴ることが重要なのです。フットボールには攻めるときもあれば、守らなくてはいけないときもあります。

会話にしてもフットボールのいずれにせよ、主導権を握ることが肝要であり、どれが良いコミュニケーションということはなく、自らの意図がはっきりと伝わったかがどうかが重要なのです。

フットボール=母語?

フットボールをコミュニケーションと捉えることで、トレーニング運営の目指す姿もくっきりと見えてきます。仮に大学生であれば、選手経験は10年以上ある選手がほとんどで、フットボール一筋にやってきたと容易に想像がつきます。言語に置き換えて考えるならば、大抵の選手にとってフットボールは、プレーするスポーツの中で母語、つまり日本語にあたるスポーツと言えるでしょう。

考えてみてください。母語を喋る技術を上達するために、単語や文法から勉強をやりだすでしょうか。日本語を練習するためには、日本語で喋りながら工夫を凝らすしかないでしょう。かつてジョゼ・モウリーニョが「ピアニストがピアノの周りを走ったり、指立伏せをしますか?」と問うたように、要素還元型の理解から複雑系のものを全体論的に捉えるのが、ここ十数年の戦術ピリオダイゼーション・ブームの考え方です。そして、その考え方にはフットボールをコミュニケーションとして理解する私も同意します。

インテグラル・トレーニング、エコロジカル・トレーニング、グローバル・トレーニングと様々な横文字が日本にも輸入され、ディファレンシャルラーニングだとか制約主導型アプローチなどと聞くと、興奮して賢くなった気がしてきます。これらのトレーニングメソッドの隆盛を考えるに、実際のゲームにどれだけ近い状況でトレーニングできるか、ということを追求していった先にこれらの概念は生み出され出来たものであり、それらの方法論はまさに今体系化に向かっているのでしょう。実際、バルセロナのカンテラのヘッドコーチから話を聞いたとき、彼らはトレーニングがどれだけ試合に即しているかの指標すら有しています。

そして、言語学習の領域でも、実際の場面に近い状況を再現する、という文脈で同じことが言えます。日本の学校における英語教育をおおよそ間接法、つまり英語を日本語を介して教えるのがスタンダートでした。しかし、例えば、日本国外の日本語学習者は、日本語を日本語で教える直接法が専らの主流です。現在、私もドイツ語をドイツ語で教わっているように、できるだけ文脈を活かした形で、実践に応用しやすい形で教えようというのが、各方面でのトレンドに見える。

余談だが、文科省が最近になって、オールイングリッシュ授業と言い始めたので、ただでさえ多忙な現場は大混乱している。もちろん、理想はわかるのだが、私も教育実習の際には、夜な夜な涙を流しながらオールイングリッシュ指導案を書いた。

さて、話をフットボールに戻すと、要素還元型のトレーニングを極力減らすために、昨年は指導者の後任2人にトレーニングを任せる際に、原則パス&コントロール(通称:パスコン)を禁止しました。私がいないときに、ちょくちょくパスコンをしていたようですが、それはそれでいいものです。禁止されていることをやることほど、楽しいことはない。そういうものです。

その意図は、もちろん、日本語の母語話者が日本語の勉強を単語帳でしないように、母語に相当するスポーツで単語練習のような真似は、頻繁にする必要などないのは自明でしょう。パスコンが全て無意味だというわけではなく、むしろ学校の体育の授業のような、初心者がいる場所では有効なのは、語学の初学者も語彙を増やすのが急務なのと同じようなものでしょう。

逆に、ゲームこそが至高の教師であると言って、ゲームしかトレーニング行わないのも愚かしいことです。それはまるで習うより慣れよと言って、海外にいきなり放り出されるようなものです。もちろん、その方法で喋れるようになるジョン万次郎のような人もいるでしょうが、多くの人は途中で心が折れてしまうでしょう。

ここまでのことをまとめると、要素還元型ではなくゲームに近い形で、必要な要素を落とし込むという、一目見ると形容矛盾にみえるトレーニング設計を行う必要があります。で、私がどのように実践しているかというと、毎回のトレーニングの授業と捉えています。

かつてtwitter界に習志野民間先生という匿名の教員のアカウントがいて、含蓄のある事をことあるごとに言っていたのですが、その中でも覚えているのが「授業は晩ご飯と同じ」ということです。その心は、毎回豪華なものではなくて、有り合わせの材料で手早くおいしく、だけど栄養バランスを考えて作れということです。毎回の授業がフレンチのフルコースのように重くなくてはいいのだけれど、毎回少しずつ味付けが違っているといいと。

一汁三菜で言えば、白いご飯は運動量にあたると思います。90分のトレーニングで確実に運動量を確保していく。そのなかで主菜、副菜という形でチームが抱えている課題の修正や週末の試合に向けて戦術を仕込んでいく。

凡庸な例えですが、キャベツが恐ろしく冷蔵庫に余ってしまっているとします。ここでいう、キャベツというのはクロス対応でもゴール前守備でもなんでもいいのですが、要するにチームが抱えている問題です。で、毎日キャベツをただ千切りに出しても選手は飽きてしまう。そこで火曜は回鍋肉、水曜はロールキャベツ、木曜お好み焼き、金曜…と、「こいつキャベツ食わせようとしてるな?」と選手にバレないように手を変え品を変え食わせる。そうすると週末の試合で進研ゼミの広告の漫画みたいに気付くわけです、「ここトレーニングでやったとこだ!」と。

まぁ一部の選手は、お好み焼きと白ご飯同時に食わせようとしてるあたりで指導者の意図に気付くわけですが、そういう選手を「賢い選手」と呼んだりするわけです。

百戦百勝のギャンブラーはいない

さて、トレーニングを授業のように運営すると宣言しましたが、学校教育が暗記偏重というイメージが強いからなのか、戦術パターンを暗記させられるのではないかというイメージを持たれることが往々にしてあります。そのためか戦術よりもまず先にやることがあるみたいな言われ方をすることがありますが、パターン戦術など実際の試合で役に立つ場面が少ないと何より私が強く思うところです。

では、詰込み型の教育では無かったら何をするのかと言えば、問題解決型のトレーニングです。(一応、補足しておきますが、パターンが有効な場合もあります。キックオフ、ゴールキック、コーナーキック、スローイン等のいわゆるセットピースです。)試合の中で想定されうる状況に対して、汎用的に認知・決断・実行の基準となる原理原則を提示することで、選手自身が主体的に問題解決を行う援助をします。

なぜ問題解決型のアプローチを行うのかというと、詰め込み教育型の暗記偏重アプローチが劣っているからというわけではありません。日本では古来より守破離というように、型から覚えることを尊んできた文化もあるわけです。それでもなお問題解決型のアプローチを行うのは、「教師の存在意義は何か、あるいは最良の教師とはどのような教師か」ということに関する私の信念からです。

私が思うに、最良の教師とは「最終的にその教師がいらなくなる教師」です。どのみち卒業すればその教師とは別れるわけですし、大方の場合教師の方が先に死ぬわけです。だから教師である自分がいなくても、生きていけるように鍛えるというのが教師の本質なのです。

人生でも、フットボールでも、言語学習でもなんでもいいのですが、常に目的は「勝つ」ことではなく「勝ち続ける」ことです。だから、教師が自分無しでも勝ち続けられる方法を教える必要があります。勝ち続けるための方法、それは「勝つこともあれば負けることもある」ことを知ることです。より踏み込んで言えば、負けることに向き合う方法を伝える必要があるということです。

百戦百勝のギャンブラーはいないのです。人はいずれ負ける日が来ます。勝ち続ける必要などない、負ける可能性を最初から考えるやつは臆病者だという考え方が日本にはややありますが、これは決戦主義と呼び私は明確に否定します。負けること自体が想定外なので、もし負けたときに次の勝負で取り返そうとより大きな手を打とうとします。100戦して1勝99敗でも、その1勝でどデカい手を打って取り戻せばいいというのは暴論です。

51勝49敗でも勝ち越しは勝ち越しなのですから、負けとの付き合い方を考える必要があります。最初に10連敗しても焦らずにあと39敗はできる考えなくてはいけないのです。勝てば全、負ければ無という思考法は、学習を生まず成長に繋がらないのです。

まだ伝わっていない方も多いと思うので、再度コミュニケーションに置き換えてみましょう。ある人とあなたが会話をするとき、1発面白い話がウケたからといって、あと99回つまらない話についてきてくれるかと言えば、そうではないでしょう。多少うまくいかないことがあっても、最終的に良好な関係を築けているという点で収支が合っていればいいのです。

言語教師の目線に話を引き戻せば、外国語学習の本質も「結局、最終的に人は分かり合えない」ということだと思います。だけれど、「分かり合おうとする努力をやめてはいけない」ということもまた本質なのです。

別の記事で述べようとは思いますが、言語が違えば理解の体系も当然異なるわけですから、完全に理解するということは難しいのかもしれません。それでも理解への諦めから暴力でしか解決できないというテロルに走らずに、分かり合おうとする努力を続けねばならないのです。

ここまで読んでくださったみなさんは、勝ったり負けたりするもの、あるいはわかりあえないかもしれないものを、またどうして厚木はやったり教えたりしているんだとお考えになったでしょう。

それは単に「おもしれぇ」からです。私が面白いと思うものだけを教えているのです。で、「どうだ、おもしれぇだろ?」とやってる。私の戦術運用思想の核を突き止めていった先にあるのはおそらく「おもしれぇ」ということだけです。

定食屋のことを悪くいうつもりはありませんが、「定食屋のようなフットボールをしてなにがおもしれぇんだ」と私は良く言っています。それは同じテンプレにキャベツを千切りにして、おかずを変えても飽き飽きするだろうと思うのです。勝つこともあるし、負けることもあるし、わかりあえないこともある、けど私がいなくなっても飽きのこないおもしれぇフットボールを伝えていきたい。それが現時点での私のフットボール哲学です。

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