見出し画像

【#14】「生産性が全てではない」という生産性

脱・頑張る依存症

もうネタ切れも激しいので、ビジネス書みたいな内容でも書こうと思う。というのもドイツ語がまぁからっきしなので、たくさん勉強して早く習得せねばと焦燥感が募る。だが、一朝一夕に喋れるようになるものでも無しなので、そうなるとどうやって生産性を上げて、少しでも早く上達しようかと思案するわけである。

で、早速だが、みなさんに質問しようと思う。どうやったら生産性が上がるのか。私の頭の中の消しゴム、おっと考えていたことをデリートしてしまった。こういうときは、「Ctrl+Z」をすれば、内容を復元できる。いいライフハックだ。誰かこんな記事を書いていたような気もするが、それはもう脳内のクリップボードには残っていなかった。

気を取り直して、私の頭の中のイマジナリー日本人は、まず間違いなくこう言うだろう。

「とにかく、頑張ることでしょ」

生産性を上げるためにどうしたらいいか、仮に街頭で100人にアンケートしたら、多分アンケートに協力してもらう人を100人見つけるだけで苦労を極める。協力のお願いを断られることが100回も続けば、100人の回答を得る遥か前に心が折れるだろう。おそらく、集計して日本人がどう考えているなんて分析するところまでは辿り着けまい。

頑張るということは、それでも100人の協力者を見つけるまで、笑顔を張り付けて粘るということだ。それはさも、終電間際のターミナル駅の改札前で、手当たり次第にナンパをするオトコのようである。深夜に見境なくナンパするオトコの虚しさというのは、通りがかるものすべてに「右側が男子トイレ、左側が女子トイレ」と伝える多目的トイレの前の点字音声案内版と同じだ。ただ、トイレの音声案内版はそれでも社会にとって有益だが、オトコは社会に害をなすだけという違いはあるが。

読者のみなさんの中には、100人分ぐらいのアンケート調査なんて気合でなんとかできるという猛者がいらっしゃるかもしれない。そんなあなたが仮にアンケート結果を持ってきたとしたら、私はサンプルの母集団が無作為に抽出されていないことを指摘して徹底的に論駁して、最後には再調査を命じてあなたの心をバキバキに折るだろう。

私の主張の邪魔は決してさせはしない。私が頑張りたくないがためにこの記事をつらつら書いているのだ。私を頑張らせようとするヤツは、全力で叩きのめす。いやしくも頑張るぐらいなら、頑張らないために頑張った方がよっぽどマシだ。

矛盾しているように聞こえるかもしれないが、生産性を上げるために必要なことは「頑張らないために頑張る」ということだ。著しくステレオタイプに則った見方であることを承知で言うが、日本人は「頑張らないために頑張ること」が著しく下手なことが多い。

とても凡庸な例えをすると、クラス全員で「よーいドン」で、他の人よりなるたけ早く、日本からドイツへ行かなければならないというタスクが課せられたとする。そうすると、急いで行かねばと慌てるあまり、とりあえずドイツに向かって自転車で全力で漕ぎ出してしまう。

この例え話をする人は、十中八九、自転車で全力で焦げる時間などたかが知れているのだから、飛行機の情報を調べてチケットを買って、優雅に乗っていけば快適なのだから、戦略を立てることが重要だ。というオチにもって行くだろう。

この手の話をする人は、コロナ禍で大打撃を受けた航空業界に、再び顧客を取り戻さんと、旅客航空事業のステルスマーケティングを行っている。フライ・エミレーツの胸ロゴが入っていないか、今一度よく確認してほしい。

私たちがまず疑い実行すべきは、本当にドイツ連邦共和国に行かなくとも、東京ドイツ村ではダメなのかと、大会運営本部にレギュレーションを確認することだ。

いつの間にか大会が始まっていたことはさておき、東京ドイツ村はドイツでとは全く異なるであろう、という疑念が浮かぶと思う。しかしよく考えてほしい。東京ドイツ村は、日本の千葉県の袖ヶ浦市にあり、「東京」「ドイツ」「村」のいずれの条件も満たしていない。このことは、現在のドイツに相当する地域に存在した神聖ローマ帝国もまた、「神聖」でも「ローマ」でも「帝国」でもないという状況において、東京ドイツ村とパラレルである。これを偶然の一致と呼んで片づけることは、アカデミックという文脈で言えば、全くもって誠実な態度である。

さて、意味のないような回り道をしたように見えるが、決してこの下りに生産性がないとは言わせはしない。東京ドイツ村はその名からして、辺境伯の領土のようであるが、それでも辺境伯なりに示唆のあることを教えてくれた。要するに、ドイツに行かなくとも、東京ドイツ村で良いと大会本部が認めて、それで済むなら手間が省けるというものだ。

言い換えると、生産性を上げるためには、まず頑張るのではなくタスク過剰でないかを見直す必要があるということである。このことは、神聖ローマ帝国時代になぞらえ、行動を取捨選択することから、東京ドイツ村では「選定行(せんていこう)」と呼ぶのは、あまりにも有名な話である。

またも下らないウソをついたところで、少し真剣な話に戻って、具体的に言うと、私の場合、ドイツ語を日常生活で支障ないレベルまで上達したいという優先順位が一番のプロジェクトがある。このときに、プライオリティの高いプロジェクトの時間を奪う、重要度の低い余計なプロジェクトがあれば、早々にそのプロジェクトは中止した方がいい。

つまり、私は「ネタがない、ネタがない。書きたくない、書けもしない。」と言いながらnoteを書くなどというのは、この上ない時間の浪費なので即座にやめた方がいい。というわけで、留学の記録の本マガジンは、作者の都合のため、今回をもちまして連載は終了となります。みなさまのご愛顧・ご愛読いただき誠にありがとうございました。









何が「完」だコノヤローと思った方は、全力で画面を連打してください。





めっちゃ指紋が画面につきます。




さて、ここらで連載終了なんてさらさらしないと白状するとして、本当は画面を連打すると「完」の文字が、変換前の状態に戻って「KAN」になり、まもなくして「♬心配~ないからね」と歌がかかって、なんだ野球選手が夢だった方かとみなさんが納得し、まぁなんだかんだありつつも、最終的に必ず愛が勝つギミックを搭載したかったのだが、プログラミングに関してはいかんせん知識不足でそれは叶わなかった。心からお詫び申し上げたい。

いそぎ?だいじ?おまえ?

だいぶふざけ倒したので、真面目な話を書いてもよい頃合いだろう。いかに愛が地球を救ったり愛が勝つとはいっても、恋人以外に依存先を持たない恋愛が危険であることは間違いないだろう。過剰な「選択と集中」によってリソースを投下した場所、この場合で言えばパートナーとの関係が、一時的であれ悪化した際に人格までも否定されたように感じてしまうからである。

一応、私の事例に照らし合わせておこう。私の場合、ドイツ語の習得が喫緊の課題ではあるが、ドイツ語の習得にのみ全てのリソースを注げば、ドイツ語学習が停滞したとき、単に勉強が上手くいっていないことを自分の人生全てが上手くいっていないと錯覚してしまうだろう。

勉強であれ、スポーツであれ、人間関係であれ、その他仕事でもなんでもいいのだが、そのことと運命共同体になってしまうことのリスクというのは、リターンと比較して極めて大きい。

それにネガティブな効果は、メンタル面だけに留まるものでない。例えば、私は現在スペイン語も並行して学習し始めたが、一見してドイツ語の学習時間を奪っているように見えるこの作業も、ロマンス諸語の角度からドイツ語の文法体形や語彙体形が見えて、学習の解像度を上げている。つまり、他のタスクが相互作用的にポジティブな影響をもたらすことが十分あり得るということである。

ここまで書いてきたことを上手く纏めるために、平野啓一郎の「分人」概念を引いてきたりして、熊谷晋一朗の「自立とは依存先を増やすことである」としめれば完璧である。つまり、言いたいことは、依存先を増やしてリスクヘッジしろということになる。だが、そういう説教臭い記事は、もう嫌というほどネットの世界に氾濫しているであろうから、せっかくなので並行しているプロジェクトのひとつである社会学の学習から得た知見を書いておこう。

「人はけっして完全に結婚しているのではなく、たかだかたんに人格の一部で結婚しているに過ぎない」
Simmel 1908=1994 〔上〕=168

ドイツの社会学者・ジンメルはおよそ100年以上前に、結婚した家庭での人格、地域での人格、職場での人格、学生時代の同級生と会うときの人格…を使い分けていることを指摘していた。同様に、私たちもプロジェクトをいくつか併せ持つことが、リスクヘッジにつながるというわけである。

これでもまだ十分すぎるほどに偉そうだが、それはもう深夜に書いている以上致し方なしとしよう。そうしたら、ようやっとこだいぶ前の問いに戻って、生産性を上げるために過剰なタスクを減らすという話をもう一度する。

ここまで述べてきた通り、複数のプロジェクトは並行していた方がいいことは確かである。しかし、あまりにも複数のタスクを抱えている場合、主たるプロジェクトやタスクの効率が落ちることが容易に想像される。主たるプロジェクトの生産性を上げるためには、優先順位の低いプロジェクトを切り捨てる必要がある。

プロジェクトの数を複数持てと言いながら、減らせと言っていて、どちらが正しいんだと思われるだろう。その人が抱え込めるプロジェクトの数は、その人のキャパシティに依存するので、それぞれに適した数のプロジェクトを並行して運用することが望ましい。

全ての人に適用できるわけではないが、抱え込めるプロジェクトの数の簡易的な判定法としては、ほぼ毎日チェックするSNSおよびSMSの数を数えるとよい。私の平凡な例を上げれば、twitter、instagram、LINE、whatsapp、note、Youtubeとなるので、だいたい6から7個ぐらい最適解ということになる。

上述したSNSは、おおよその人が運用するようなところであるが、これに加えてマッチングアプリも入れている人は、抱え込めるプロジェクトの数が多いということになる。もっとも、そういう人はたいがい、浮気することにキャパシティを使っているので、結局運用できるプロジェクトの数は変わらないが。

さて、プロジェクトのキャパシティが決まったら、自分の中のプロジェクトを列挙して、優先順位をつけていき優先順位の低いプロジェクトを弾いていく。優先順位の高低は、緊急度と重要度の2つの指標で見ていく。「緊急度ー重要度」マトリックスに関しては、ビジネス書を適当に読めば、基本載っているのでそちらを参照されたい。

ビジネス書っぽいアドバイスをひとつ足しておこう。緊急度と重要度で優先順位を付けた後、優先順位の低いプロジェクトを自分のキャパシティに収まる数に収めていく。このとき、プライオリティの低いプロジェクト、どちらを切り捨てようかとなった場合、アウトソーシングできるかどうかも検討する。

これに基づいて考えて、優先順位が低くアウトソーシング可能だと判断し、食事を作り置きにしたり学食で食べる回数を増やしすことで、時間を確保することができた。もちろん、アウトソーシングすればお金はかかるし、冷凍ピザばかり食べれば、栄養の偏りは出ることはやむを得ない。だが、シャワーを浴びることや洗濯機を回すことは外注することは基本的にはできない。筋トレもしかりである。

全力でやること。

さて、やることを絞ったらいよいよタスクに手をつけていく。タスクが決まると、「頑張るぞい」といってタスクの方を全力でやる人が多いのだが、実行段階に入っても頑張ることはご法度である。ニートの格言に「働いたら負け」という言葉があるが、これは真理を突いている。生産性のない仕事で働いたら負けなのである。ただ、生産性のある仕事をしなければ勝つこともできないが。

私は何度か受験生指導をアルバイト等で行ってきたが、常々言ってきたのが

「全力で勉強するな、全力で休憩せよ」

ということである。これは全力で仕事するよりもはるかに難しい。しかし、仕事よりも創意工夫の余地が大きく残されている。休憩の重要性をお伝えするために、こんな場面を想像してほしい。

厚木がパソコンの画面に向き合いがながら、あーだのうーだのいいながらnoteの原稿を書いている。もうかれこれ作業を始めてから3時間ぐらい経っただろうか。厚木は全力で原稿に向き合って渾身のボケをひねり出した。「青森県を投げたくなったら下北半島を持つべし。」いいフレーズだ。「デンマークを投げたくなったらユトランド半島を持て。」よりよっぽどフランキスカだ。ドイツで交通渋滞に巻き込まれたときに「ゲルマン人大移動」などとほざくヤツよりよほどセンスがある。

だが、ちょっと待てよ。厚木より先に青森を投げているヤツがいるとしたら、厚木は二番煎じということになる。そんなヤツはいないだろうが、休憩がてら確認にウィキペディアの「青森県」の記事に目を通しておこう。

そんな軽い気持ちでウィキペディアを読み始めたが最後、ハイパーリンクがハイパーリンクを呼び、記事を転々としてあっという間に1時間が経ってしまっていた。しかも今いる記事が、アンサイクロペディアの「アフガン航空相撲」のページ。青森を投げることなんかより、アフガンで航空相撲する方が倍面白いに決まっている。

こうして半沢直樹の倍返しが炸裂する。大和田常務のトラップカードオープン!「マジックシリンダー!」半沢直樹に自らの倍返しが突き刺さる。しかしそんなことより、「とらっぷ」を予測変換すると「罠」という字になる方がよほどトラップだ。おめでとうマイクロソフト。君が優勝だ。そういえば、バカリズムが『都道府県の持ち方』という本を出していた。都道府県を投げる先駆者など余裕でいた。

結果として、仕事を全力でやったために凡庸な成果物が生まれ、休憩は漫然とやったために時間を浪費してしまった。頑張ったって何ひとついいことはない。休憩を全力でやらなければ、仕事そのもののクオリティを落としてしまうのだ。休憩を返上して仕事をするなど論外である。

休憩を全力で行うために重要な原則がある。それは、「休憩は量的に、仕事は質的に評価する」ということだ。

サッカーの試合を思い浮かべてほしい。ある選手が30mのスプリントをかけた。次に全力で走れるようになるまで、10秒かかる選手と30秒かかる選手がいたしたら、優秀な選手がどちらであるかは言うまでもない。サッカー選手の評価の指標として、間欠性回復能力が良くとりあげられるが、これは休憩を全力ですることの能力の指標である。

一方で、相手の選手に1分間プレスをかけ続けた選手と1秒プレスをかけた選手がいたとしても、どのみちボールを奪えているのだとしたら仕事の質としては変わらない。むしろ、たった1秒で奪えたのだとしたら、コストパフォーマンスすなわち生産性が高いだろう。つまり、タスクの遂行についてはクオリティで評価するべきなのである。

このこと良くわかる例が、富樫義弘の漫画ハンター・ハンターの登場人物であるネテロである。ネテロは作中の回想シーンで、修行の一環として、山に籠って感謝の正拳突き1万回に毎日取り組むことを決意する。最初は、ほぼ丸一日かかって終えていた修業が、日を得るごとに所要時間が短くなっていき、次第に日没に間に合うようになるという形で、ネテロの成長が描写される。

これが仮にもし、感謝の正拳突き1日10時間だったとしたら、適当にこなしても10時間が経過すれば終えることができて、さほど成長につながらなかっただろう。

ハンター・ハンターのこのエピソードにインスピレーションを受け、芸人のサンシャイン池崎が感謝の1万ジャスティス生配信という企画を行っていた。池崎がバイクレースのごとく、感謝の24時間耐久ジャスティスをしていたとしたら、今頃彼は爆死していただろう。

仕事は、例えばドイツ語単語100個とか文法書見開き5ページのように、時間ではなく質に重点を置いて、こなすべき量を設定して取り組むのが望ましいのである。

頑張るを翻訳する

ここまで長々と「頑張る」という言葉がこの上なく嫌いだということを延々と説明してきたが、それはひとえに頑張ることには中毒性があることが最大の問題点として内包されているのである。

頑張った経験は誰にでもあると思う。頑張るのは社会一般で言われるようにいいことでもある。満足感をくれるし、人生は充実する。だけど、一度頑張るとそれが基準になってしまうと、今までの頑張りじゃ満足できなくなってしまう。そうすると頑張る量が増えていき、周りの人も頑張ることを前提で仕事を割り振ってくるようになる。こうして頑張りの無限ループに入ってしまえば、アルコールや薬物依存となんらかわりのない「頑張り依存」の出来上がりである。

いみじくも先ほど引用したように、「自立とは依存先を増やすこと」である。頑張りにだけ依存するシステムがどれだけのもろさを抱えているか、考えればすぐわかることである。日本では仕事のクオリティよりも「やってる感」が重視されるがゆえに、頑張っている人の方が評価されやすい。

でも、「頑張る」そのものから疑ってみる。誰かが既に指摘していることだとは思うが、英語やドイツ語を話していて思うのは、「頑張る」に相当する概念が存在しないということ。

だから、彼らは全然仕事を頑張っている感じはしない。この前も、ドラッグストアのレジ打ちの女性は、私の商品のバーコードをスキャンしながら、客としてきている友だちと週末のパーティーの予定について話していた。

ゆえにより一層、休日に全力な彼らの姿は、人生に誠実だと思う。家の庭で、河原の芝生で、軒先のカフェのテーブルで、彼らは全力でダラダラしながらビールを飲んでお喋りしている。彼らは多分人生が一度きりと知っていて、本気で休んでいる。

頑張るのは用法用量を守って。ただし、頑張るときはやってる感じゃなくて全力で頑張る。熱量を持って。サンボマスターのボーカルの山口くんぐらい熱く。世界をかえさえておくれよって叫ぶ勢いでベッドでゴロゴロしろ。サリーはきっと待っている。

さぁ、生産性をぶち上げるためには、まずこんな生産性がない記事なんてさっさと閉じることだ。下らない記事なんて読んでないでさっさと全力で休憩したまえ。記事にスキなんてしなくていい、時間の無駄だ。今すぐ閉じろ。






閉じろと言ったのにここまでスクロールしちゃったんですね。

じゃあ、やっぱスキはだけはして。



KAN























よろしければサポートをお願いします。みなさんのサポートで、現地で糊口をしのぎます。