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「今日は、月が綺麗だよ」

◯ある男の話

「今日は、月が綺麗だよ」


そのたった10文字足らずが遅れずに早1時間。僕はずっと彼女とのトーク画面を見つめている。

「彼女」と一言で言ってもお付き合いしていたりする訳ではなく、ただの「女友達」である。“まだ”、な。そう、僕はいつか彼女に告白して交際を申し込む心づもりだ。でも、それは今ではないし、さらには(かの文豪には申し訳ないが、)こんなキザったらしい遠回しな言い回しを使いたくはないのだ。僕はいづれは正々堂々彼女に愛を伝えてみせよう。ただそれは今じゃないが。

ああもう悩んでいたってしょうがない。もう送ってしまおう。だって本当に今日は綺麗な満月なのだ。他意はない。ああそうだ他意はない。気づいた時にはまだ地平線の少し上に浮かんでいたはずのまんまるがもう既に見上げるくらいの高さまで昇ってしまった。たった1行のこの言葉を伝えるのに何を躊躇う事があるだろうか、いやない。それ、送ってしまえ。

えいやっと送信ボタンを押そうとした瞬間、画面の左側にぴこんと白い吹き出しが現れた。彼女からのメッセージだ。

うわ。

彼女からメッセージが来たこと自体は大変嬉しい。嬉しいが、タイミングは最悪だ。ただの男友達に送ったメッセージに即座に既読マークが付いたら彼女は気持ち悪さを覚えるのではないだろうか。たとえ好かれていないにしても、彼女には、彼女にだけは嫌われたくはないのだ。1度冷静になろう。まだ間に合う。「僕も今ちょうど君に連絡しようとトーク画面を開いたところなんだ!偶然だね!」作戦で行こう。そうしよう。よし。

ふと、まだ僕のメッセージを送る前でよかったとほっと胸を撫で下ろす自分がいることに気づく。さっき決めたはずの覚悟はどこへ行ったんだ。戻ってこい俺の覚悟。

そんな軟弱な自分に呆れていたら何となく落ち着いてきた。さて、彼女に返信しなくては。まずはメッセージの内容を確に、

彼女のメッセージに目を通した瞬間、僕の思考回路は停止した。目の前の文字列が僕の造り出した幻想なのではないかとさえ思って何度も見返したがそこにある文章は変わらなかった。


“今日は、月が綺麗だよ”


僕が送ろうとした文章と一字一句同じだ。これは運命か?運命なのか?この際、彼女があの文人のエピソードを知っているのかなんてどうでもいい。僕のことを勘違いのキザ野郎だと罵ってくれてもいい。でも、こう返させてくれ。


“そうだね。しんでもいいな。”


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◯ある女の話

綺麗だな。

純粋にそう思った。やっと地平線から顔を出したばかりのまあるい天体。人間はそれを見てうさぎを連想する人がいたり、お団子を連想する食いしん坊さんもいるんだからおもしろい。かくいう私も食い意地の張った、その後者の人間である。あ、お腹なっちゃった。そんなことを考えながら帰路を急ぐ。

そういえば。このまん丸い月を見て、彼は何を連想するのだろうか。ふと気になってしまえばこの好奇心を抑えきれないのが私だ。これでも自分のことはよくわかっているつもりなのだ。これは早速聞いてみるしかないなとメッセージアプリを開く。


“今日は、月が綺麗だよ”


そこまで打って思い出した。この言葉にはもうひとつ意味があった。いつかの文豪が訂正した日本語訳、という事にはなっているがその真偽は定かではないらしい。そこまでのエピソードを含めて、私と彼のこの関係性に、というより私の彼への気持ちにふさわしいのではないかという気がしてきた。

うん、これを彼に送ってみよう。どんな反応が返ってくるのだろうか。ワクワクしながら送信ボタンを押す。

すると、コンマ1秒もしないうちに既読マークが付いた。何事かと思い2度見までしてしまった。とりあえず急いで彼とのトーク画面を閉じる。既読が付いたということはすぐにでも返信が返ってきてしまうのだろうか。いまさらながら自分の行いを後悔した。もし彼がその言葉の意味を知っていたとして、彼は私のことなど一切興味がなかったら。変な奴だと、うざったいと、思われてしまうだろうか。

ここで私は自分の気持ちに気がついた。

そうか、私、彼のことが好きなんだ。
だから、嫌われたくない。

自覚した途端、心臓がバクバク音をたて始めた。どうしよう。彼はなんと返すのだろうか。嫌に時間が経つのが遅い気がする。拒絶の言葉でもなんでもいいから早く返信してくれ。とにかくこの緊張から抜け出したいのだ。


ぴろん


手の中の端末が気の抜けた音を出して震える。一気に指先が冷たくなったような気さえした。見たい。けど見たくない。二律背反するこの衝動に最終的に勝ったのはもちろん前者だった。私は私の好奇心を呪いながらも、それに忠実に従い画面をタップする。さっき慌てて閉じたトーク画面をもう一度開く。覚悟は決まった。さぁ。

“そうだね。しんでもいいな。”


信じられなかった。いや、信じるも何も目の当たりにしてしまっているから事実に違いはないはずなのだけど。え、なに?それちゃんと意味わかって言ってる?よな??え??

私の脳内が混乱を極める中、また手の中の端末が振動した。今度は電話らしい。誰だこんな時に、と思ったらその張本人からで最高潮だったはずの緊張が限界突破をしたのを感じた。やったね。また強くなれたね私。

じゃなくて!

今はこの彼からの電話をどうにかしなくてはいけない。まぁ出る以外の選択肢はないんだがな。もうなるようになれ、


青いボタンを押すと画面が切り替わった。

「いきなりごめん。今、電話大丈夫?」
彼の声だ。そりゃ彼から来た電話だから当然なんだけどね?けどね?久しぶりに聞いた彼の声で、少し気持ちが落ち着いた。そうだ、この優しい声も、気遣いができるところも、私は「好き」なんだろうなあ。そう思いながら、なんてことないように言葉を返す。

「あぁ、うん、大丈夫だよ。どうしたの?」

「あの…さっきのメッセージのことなんだけど…」

そりゃそうくるよなあああ。それとなく話を逸らしてみよう。

「ね、月!綺麗だよね今日!ぴったり満月の日なのかな?」

「えと、それもそうなんだけど、そうじゃなくて、えっとあの…すき、です!」

「え?あ、月?うん、月の話してるよね、私たち。」

いやこれは流石に冷たすぎるんじゃないか私。もっと素直になってもいいんじゃないか????

「月じゃなくて!君のことを、愛してます!…あっ」

あまりにもストレートな、情熱的な告白に言葉を失ってしまった。なんだ「あっ」て、そんなん言うつもりじゃなかったってか?言うつもりはなかったけどつい本音が出ましたってか?ああもう私だって、

「私も…私も愛、してるよ君のこと。」

「え…」

言ってから恥ずかしくなってきた。彼もなんにも言わないし。なんか言えよもう。

「…多分。」

「たぶん?」

「そう。たぶん。」

ばか、なんだ多分って。たった2文字で今のなかった事になんてならないぞ私!諦めろ!素直になれ私!

「…ていうのは冗談、」

「じゃ、じゃあ、その多分を、確信に変える努力はしていいですか!」

私の自信なさげなぼそぼそとした声など、彼の熱意の前では蚊ほどの存在感すらなかった。彼はそのまま言葉を続ける。

「僕は君のことが好きだ、愛してる。だから、僕と付き合って、下さい」

ああもう、最初はちょっとした好奇心だったのに。好きを自覚してからの展開が早すぎるんだよもう。

「ん、いいよ付き合ってあげる」

ほら、なんでこんなに素直じゃないの私!!好きだろ、好きなんだぞ知ってるんだぞ!私の事は私が一番よくわかってるからな!

そんな私の素っ気ない態度など気にもとめず、彼は電話の向こうでめちゃくちゃに喜んでいるようだった。私だって嬉しいわ。なんなら叫びたいわ。お前が好きだと、愛していると叫びたいわ。でも、

「さっき、気づいたんだけどさ、ずっと前から月が綺麗だなって思ってたらしいんだよね、私」


こんな天邪鬼な返答しかできない私を許してくれ。

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文:ゆか 絵:ぐっち

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