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SNSと写真

ねぇあなたは何のために写真を撮るの?そこに明確な答えを持てる人はすごいなぁ…と思う。
仕事として、プロとして写真を撮っているわけではない、ただの趣味に理由なんて本当はいらないのかもしれない。あまつさえ評価なんて。それなのに時々SNSに載せた写真の反応の薄さに落ち込むことがある。
「伝わらなかったな」「わかってもらえなかったな」「下手なのかな」

SNSなんてなかった時代に写真を楽しんでいた人はどうしてただろう。
子どもの頃の写真はアルバムの中に大切に綴られて、私の記憶のない小さな頃の姿をそこに残している。その写真は私と、家族以外には見せることなんて想定もされていない写真。たぶんもっとそういう、個人的で、写した人、写った人以外の誰の為でもないもの。そういう楽しみ方の為に撮られていたもの。
「綺麗な景色だったから」
「あなたが楽しそうだったから」
「忘れたくなかったから」
自分の為、誰かの為に撮る。
きっとそんな風だったのだと思う。写真に救われるのは誰より撮った本人だったはずだった。

シャッターを切ることはただ楽しくて、簡単には思ったように撮れないから難しくて楽しい。思った以上に美しく写ると嬉しい。その瞬間だけはちょっとだけ、自分が世界の奇跡の一瞬の目撃者になって、それを納められたような気にさえなる。世界が愛おしいなって、わたしは結構本気で思えたりする。

そんな風にして撮ってさえ、一度SNSに投稿してしまうと、いいねの数がまるで写真の評価のような気がして、それが自分自身への評価のような気がしてきて、悲しくなる時がある。
評価を欲してたのじゃない。欲しかったのは共感で、届けたかったのは「綺麗なもの見つけたよ」って子どもが砂場から貝殻を見つけた時のような、ほんの些細な喜びの共有だった。
なのになぜか、数字にされると間違える。受け止め方を間違える。そんな時がよくある。

ただ、思う。願わくば写真が「何より撮る人自身を救うものであるように」と。
それは私だって、音楽を作る人が誰かを救うように、感動を生むように、人の心を動かしてみたい。きっとその気持ちがあるから、微かな願いをもってSNSなんてツールに載せてみるんだと思う。共感より強く、心を揺さぶられる誰かの写真のようになりたいと憧れる気持ち。

でも、きっとそういう音楽や写真に、誰より救われるのは作った人であり撮った人自身なのだ。自己の救済の先にしか、誰かの為、は存在できない。だって内側を軽んじて形骸化した魂からはきっと何も生み出せないから。

だったら内面に深く向き合って写真を撮ろう。誰より私を救う為に撮ろう。私から繋がる糸の先には大切な人達がいるから、その場所まで光のさざなみが届くように。


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