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体育座りとBGM

グラウンドいっぱいに広がる青空を眺めながら、人生にはドラマみたいにBGMが必要だよ
。なんでこの音楽は頭の中にしか聴こえていないんだろう。と思った。小学校高学年の頃の記憶だと思う。

体育の時間が嫌いだった。
身体を動かすのはあまり得意じゃない、とずっと思っていた。
「なんであんたは運動神経が悪いんだろうね。誰に似たんだろう。私もお父さんも足が速くて、中学の時には高跳で……」
体育の成績はいつも3か4。ほかの教科でほぼ5が並ぶ通知表の中に異質に混ざる3という数字は、母をイライラさせたらしく、結果怒らせる事になる体育というものが必然的に嫌いになった。
グラウンドに体育座りでお行儀よく並ぶ赤白帽の隊列の中で、ぼんやり空を見上げていると、頭の中には音楽が流れていた。何の曲だったかなんて今はもう覚えていないけれど、幼い私はそれを「ドラマみたいだ」と思った事ははっきりと覚えている。
BGMがかかれば、この憂鬱な体育の時間も物語の主人公とし演じ切ってしまえる。それは自分からは少し遠く淡い世界の出来事で、浸りきってしまえば苦痛もない。
隣前後に並ぶ級友達の誰一人にも聴こえない、私だけが知り得るドラマだ。
ドラマにしてしまえば、体育が得意ではないことさえも「設定」になってしまうから、都合が良かった。

或人たちにとって音楽は、なくても生きていける部類のものだという。
確かに今即時的に音楽を失ったとて心臓が止まる訳では無い。
でも、音楽がない日々なんて想像しただけで恐ろしく味気のない日々だ。

小川洋子の『密やかな結晶』という小説の中では、ある島に住む人々は朝目が覚めると“ 何か”を失くしてゆく。ある日は「香り」であり、ある日は「声」を。失くしたことさえもやがて記憶から消えていく。静かに喪失が進んでゆく。
例えばそんな風に今ここから音楽が消えたなら。

心臓が止まる事はなくても、心が音楽に裂いたその居場所に何も収まらず、温度の欠けた余白だけがそこにあるとしたら。

なにか大切なものを失ったと、きっと涙が教えてくれるのじゃないかと思う。

こうして今noteにつらつらと思考の断片を書き留めている指先のBGMはJYOCHOだ。
さっきまでは“ 互いの宇宙”で今が“ つづくいのち”。
脳内に溜まる言葉をただ書き留めるというだけの行為を「何かささやかで美しい所作なのじゃないか」と錯覚させるような、そんなBGM。

私にしか聴こえていない。
知覚しえない。
でも確実に私がこの命を演じ生きる為に必要な、音楽。

早く脳内にスピーカーを埋め込めればいい。全てをドラマにしてしまえるように。

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