人の日記が開いていたら

僕は視野の99%を失っています。向い合せの人の眉間に視線をおくと、相手がピアスをしているのかとか、何色の服をきているのかも見えていないくらいの狭さです。

見えている部分と見えていない部分の境界はすごく曖昧で、外側が黒や闇としてクッキリ「見えていない」と認識できるようなものではありません。何も認識されていないのです。よく簡単に、サランラップの芯を覗いているようなものと説明することもありますが、それは正確ではありません。


そんな僕ですが、もっと見えていた昔に比べて、人の目を見つめるのが苦手になっているなと実感することがあります。

障害をもっているという精神的な弱り、自信の低下、不安、そんなものが影響しているのでしょうか、、、。なんとなく違う気がします。


どちらかといえば、見つめ続けるのは相手に失礼という気持ちが強い気がしています。


その反面、「眼力(めぢから)がありますね」と言われることが少なくありません。


森野いるかさんの「やっぱり笑顔が怖い。」を読んでいて、改めて視線について考えていたときに浮かんだのは、相手の目しか見えないようになってきているからかも、ってことです。


どういうことかというと、


人と目を合わせた時、僕の視野は相手の身体はもちろん、耳、顎、頭を捉えることができていません。僕が見ているのは相手の目と鼻柱くらいのもの。周りは見えずそれだけを見続けているのは、おそらくみなさんが相手の目をみているときとは異なる世界です。


自分の脳に投影されるのは、相手の目(と僅かな周辺)だけ。僕が得る視覚情報はそれのみです。みなさんの目(視覚)が目の前のたくさんの状況を幅広く取りに行っているのとは異なり、僕のそれは、わずかな範囲を深掘りしようとしているような気がします。貴重な視覚情報を余すとこなく利用しようとすべくといいますか。


目は口ほどにものを言うというように、目が腹の底の覗き窓なのであれば、脳の視覚部分を総動員して、その目に潜む情報を文字通り”目一杯”拾い上げることはなんとも失礼な行為に思えてきます。


目の奥に潜む深い感情や想いへのアプローチは、人の日記を盗み見るような行為と同列に語れてしまうものではないかとさえ思えてきます。


僕の視線は、無意識であれ、そのような行為を実行しているのかも知れません。


だから僕の視線には「眼力がある」と言われるのかも知れません。


もしも、目を見続けることで、相手の心が100%、いや80%くらいの確率ででも読み取れるとしたら、いつもいつも相手の目を見続けるでしょうか。


本音が読み取れてしまうとしたら、安易に相手の目を見つめ続けるでしょうか。

人の日記が開いていたら、あなたはそれを見つめるでしょうか。

目を逸らしたくなるのは、読み取られて困る方とは限らず、読み取れてしまう方もまた逸らしてしまうのではないかと思うのです。

その真偽はわかりません。

単なる認知の歪みがそう思わせてるだけなのかもしれませんが。

☆PEACE☆

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