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狂った指が街に舞う『マッド・フィンガーズ』

ラジカセ片手にニューヨークを歩き回るハーヴェイ・カイテル。恍惚とピアノを弾くハーヴェイ・カイテル。唐突にキレるハーヴェイ・カイテル。絶望に打ちひしがれ、裸で街を見下ろすハーヴェイ・カイテル。

マッド・フィンガーズ』(1978)は、そういう映画だ。ハーヴェイ・カイテルを存分に楽しむ90分なのである。

青年ジミー(ハーヴェイ・カイテル)は、カーネギーホールの舞台に立つことを夢見ているピアニスト。彼はその傍ら、マフィアの父親の頼みで借金取りを始め、次第に暴力に取り憑かれてゆく、という物語だが、映画自体『タクシードライバー』(1976)の追随作なのは明瞭だ。もちろん主役は元々ロバート・デ・ニーロに打診されており、また、『タクシードライバー』の生々しく狂ったニューヨークに息を吹き込んだカメラマン、マイケル・チャップマン(惜しくも先日亡くなられました。合掌。)が再びカメラを持ち、その狂気を加速させている。

ロバート・デ・ニーロ演じる『タクシードライバー』の主人公トラヴィスは狂熱に浮かされていながらも、不安と葛藤に悩むキャラクターであり、であるからこそ現実と悪夢が入り混じる映画のタッチがトラヴィスの内面を見事に活写している。だから、観客はトラヴィスという人物に共感し、英雄視する部分もあれば彼の狂った行動に恐怖を覚え、突き放される体験をする。判然としない後半部は、狂気と正気を綱渡りするトラヴィスの不安定な揺れ動きが見事に伝わってくる。ベトナム戦争によって潰された若き人生は暗く鬱屈した青春を迎え、負のエネルギーは時限爆弾のように爆発に向かって作動する。トラヴィスという人物の背景や精神構造の深さが丁寧に描かれているからこそ、不明瞭なドラマが活きてくる。

だが、そのフォロワーとして作られた『マッド・フィンガーズ』は似て非なるものだ。確かにどちらもニューヨークの下町を舞台とし、モヤモヤとした感情と行き場のない怒りが暴力へと噴出していく過程を描いたストーリーラインはそっくりだ。だがはっきりと違うものがある。狂気だ。本作の狂気は、同情の余地なく、ひたすらエクストリームに暴走し続ける。破滅するまで誰にも止めることのできない情動に、全編が包まれた常軌を逸した作品なのだ。

だから、批評家からは散々な評判を受けた。容赦ない暴力性と女性の扱い方、あまりにも下品な主人公とその父親の共犯的な関係、誇張されすぎたハーヴェイ・カイテルの演技(当時39歳のカイテルは到底青年には見えない)どれもがクローズアップされ、酷評された。確かにプールから上がったギャングの情婦ジェリー(タニア・ロバーツ)に目をつけたジミーが、トイレで半ば強姦に及ぶシーンなどに代表される女性への手酷い描写は、監督であるジェームズ・トバックが♯Me Tooで過去の悪質な性的行為を告発されている現在、気持ちよく見られるものではない。

しかし、この映画はそこがミソなのだと思う。あまりにもやりすぎで容赦のない展開の数々に、観客は置いていかれてしまう。その不快感こそが、映画の肝なのだ。それは、最終的にデニーロではなくハーヴェイ・カイテルが主役を演じていることが大きいと思う。役になりきるような演技(メソッド演技)をこなすデニーロは、その人物を観客が理解できる部分も理解できない部分も全て会得する。だが、ハーヴェイ・カイテルは違う。本物なのだ。つまり、彼の演技はハーヴェイ・カイテルという人間の一部分を映画の人物と重ね合わせるような演技を行う。本作のジミーというキャラクターは、ハーヴェイが持っている欲望や狂気などの暗黒面を剥き出しに加速させたような人物なのだ。だから、トラヴィスのように同情できる部分など微塵もなく、ジミーとカイテルは映画の中で、本能的な激情に突っ走る。

ジミーは明らかに対話不可能な人間だ。「音楽がなかったら狂ってしまう」と曰う彼は、そのものずばり音楽の殻に閉じこもっている。首にスカーフを巻き、ピアニスト気取りの彼は、口をパクパクとさせながら恍惚と震えるように上半身を揺さぶらせてピアノを弾いて、街ではお構いなしに大音量でラジカセを流しながら放浪する。彼は音楽という自分の世界に常に閉じこもっている。ピアノは彼の孤独をより強める。独りよがりに鍵盤を叩くジミーの指は次第に狂い始め、誰かを殴り、銃のトリガーを引くことに使われゆく。ピアノにおいて指はとても重要なのもだ。少しでも痛めたり、怪我をしたら致命傷になる。それぐらいピアノと指は繊細な関係にある。のだが、血の味を覚えた指は誰かを一方的に攻撃する。もはやコントロールできない衝動は、事切れるまで解消されることなく。

ピアノを弾き、誰かを殴る彼の狂った指はジミー以外誰のいうことも聞かない。彼はピアニストである亡くなった母の亡霊とマフィアである父親の影を引きずり、窓の外に映る女性のスカートの誘惑につられ、一方的なコミュニケーションを取り続ける。だから、夢のカーネギーホールで演奏するためのオーディションで失敗するのだ。誰とも合わせることのできないジミーの音楽は上手くいかない。いくら自分1人で弾いているときには美しい音色を叶えようが、独善的な彼の音楽は人には受け入れられるはずがない。

あまりにも過剰で笑えてきてしまうが、芸術家気取りの若者の肥大するエゴを映像化した素晴らしい場面がある。ジミーが自宅でピアノを弾く場面では、いつも流麗なメロディが流れ続けるのだ。気持ちよさそうに鍵盤をタッチするジミー。だが、彼は弾いてる途中で自身の奏でる音にあまりにも陶酔してしまい、腕を指揮者のように挙げてしまう。もちろんピアノなどひいていないはずなのだが、美しい音楽は鳴り続けている。つまりそれは、彼の頭の中で再生されている音だったのだ。客観的にジミーの演奏を観客が知る術はないが、彼の演奏は話しにならないだろう。繊細さを失った彼の曲は、頭の中では完璧かもしれないが実際には、ひどく醜い。そして、オーディションでは失敗し、挫折を味わう。目前の夢を打ち砕かれたジミーは、やけくそまじりに裏の顔である借金取りへとそのエネルギーを放出する。

観客に忖度せず、むしろ嫌悪感と苦笑をもたらすジミーの人生には誰しもが衝撃を食らうだろう。飾られることもごまかされることもないクズのドラマには、辟易とさせられながらも地獄の淵を見るように不思議と惹きつけられるのだ。

その力は監督・脚本を担当しているジェームズ・トバックによるものが大きいだろう。先述のように問題のある人物だが(彼のセクハラ行為は裁かれるべきではあるが)、天才であることには変わりはない。ジミーという人物はトバックの人生が大きく影響している。ニューヨークの裕福な家で生まれた彼は、ハーバード大学を卒業するハイソサエティな秀才である。しかし、卒業後はギャンブル依存症に悩まされ(その経験は『熱い賭け』(1974)の脚本として大いに活かされている)、妻との生活にも飽き飽きした荒んだ生活が続いた。そんな彼の乱れた人生は映画において発揮され、元来の育ちであるハイカルチャーと粗野でワイルドなローカルチャーの矛盾する二要素が上手く相互作用している。崇高さと下品さ、クラシックと50〜60年代ロック、マチズモと女性の幻影そしてピアノと借金取りなどのコントラストは非常にクレバーでありトバックという人間性が強く表された演出である。

60年代後半から70年代当時、公民権運動と黒人カルチャーの台頭に傾倒していたトバックは、フットボールプレイヤーでブラックスプロイテーションの代表的なスター俳優ジム・ブラウンの活躍を自分の荒んだ生活の拠り所にしていた。ハーバード大学を卒業後、ジャーナリストとして活動していたトバックは、フットボールプレイヤーだったジム・ブラウンに関する取材を受けて、彼の家に数年間住んでいた。ブラウンの享楽的な生活に飽き飽きし、生計のために映画の道を選んだトバックは見事に監督として大成する。もちろん本作にはジム・ブラウンが出演しており、黒人文化の繁栄と中流階級の白人の不毛な存在が見事に対比されている。恋人を取られ、体格差からも明らかに不利なジミーのルサンチマンは溜まるばかりなのだ。性的に機能しないジミーは、女性に対しても鬱憤を溜めており、有色人種や女性の権利の向上によって、無価値さを突きつけられた白人の暴走とも解釈することができる映画になっている。

「Mockingbird」や「Angel Of The Morning」などのクラシック・ロックをラジカセでガンガン流しながら、レストランで父親と会食する場面は明らかにスパイク・リーが影響を受けている。『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)で常にラジカセを持ち歩き、ピザ屋のサル(ダニー・アイエロ)にウルサイと怒鳴られるラジオ・ラヒームのキャラクターと当該の場面は『マッド・フィンガーズ』そっくりだ。そしてやはり、ダニー・アイエロは本作にも出演しているのだ。

抑圧された衝動と外界からの期待に引き裂かれ、自身との戦いに身を投じる男の深い悩み。男は遂に血みどろの殺し合いを演じる。階段でのバイオレンスシーンは『タクシードライバー』と肩を並べる陰鬱な名場面だ。スタインウェイのピアノを弾くために大事にされてきた指は敵の金玉を握り潰すために使われる。そして夢が潰え、暴力にまみれたどん底の彼は裸になる。シメはハーヴェイ・カイテルお得意の裸演技だ。しなやかな筋肉を見せつけながらカメラ目線で窓辺に立ち、眼下に広がる街を憂う。窓に突き立てられた指は正気を取り戻すことがあるのだろうか。

ジェームズ・トバックは、初監督作ながらも極めて個人的な内容で容赦ない描写を立て続ける。『マッド・フィンガーズ』をフランスでリメイクした『真夜中のピアニスト』(2005)はそれなりに上手く作られた作品であるが、本作にあった荒削りな狂気のエネルギーは全く存在せず、上品で一線を超えることない少し残念な映画であった。作家の創造に対して比較的自由な70年代においても、タブーに触れすぎている本作は、表現の限界領域を押し広げる効果を発揮している。新人監督の漲るパワーが、時々暴発しているとはいえ、削がれることなく商業映画にぶつけられる事は滅多にないことであり、手のつけられないトバックの狂った指は、驚くべき怪作を生んでしまったのだ。

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