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全てをぶっ壊せ!『アウト・オブ・ブルー』

ラストムービー』(1971)の失意から9年後、デニス・ホッパーがメガホンを取った『アウト・オブ・ブルー』(1980)は、壊れゆく人間たちの破壊衝動と感情の爆発を捉えたアナーキーでパンクな荒々しい傑作だ。

ホッパーは、かねてからの野心作『ラスト・ムービー』を71年に製作する。だが、この映画はコケにコケた。映画に殺されゆく男の物語は、アーティストとしてのホッパーの繊細さと熱に包まれ、映画に狂わされる人間たちを感覚的に映し出した。だが、直感的なイメージの羅列や現実と虚構が混じり合う、映画そのものの解体は、ドラッグやアルコールの服用で酩酊したホッパーの脳を投影したようで、複雑かつ難解なものと受け取られた。

配給を担当したユニヴァーサルは、出来上がった作品を気に入らず、ホッパーに再編集を要求したが(編集権はホッパーが所有していた)、彼はそれをはねつけた。ヴェネチア映画祭でグランプリを受賞したにも関わらず、多くの批評家はこれを自己満足のクズ映画だと断罪し、公開はニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコの3都市で2週間のみの限定公開に追いやられてしまう。

若き頃からこの作品を温め続け、長い準備期間を要して、1年間の編集作業によってやっと形をなした、ホッパーの夢である『ラストムービー』は、結果的に彼を悪夢に連れ込んだのだ。大きな絶望を味わったホッパーは、業界からも半ば干され、酒とドラッグに溺れた。アルコール、コカイン、ヘロインを大量に摂取する彼の生活は、常に妄想状態で死と隣り合わせだった。

『ラストムービー』のゴタゴタで、アメリカの映画界からはお呼びがかからないホッパーは、ドラッグのやりすぎで銀行口座もすぐに底をついてしまう。彼は、そうなるとヨーロッパやオーストラリアへ出かけて、細々と仕事を経て70年代の残りを過ごした。タオスの自宅では、家の外でも中でも所構わず銃を撃ちまくり、当時の妻にも愛想を尽かされることになる。

そんな、ドン底の彼の下に映画出演の話が舞い込んでくる。『イージー・ライダー』(1969)や『ラストムービー』で組んだプロデューサーのポール・リュイスに頼まれ、ホッパーはカナダのTV映画に出ることになる。『シンディ・バーンズの場合』と名付けられたその映画はレナード・ヤキールという男が監督する予定だった。だが、初監督の重圧からか、彼は撮影開始2週間でまともに使えるシーンを作れず、それまでにホッパーの出演シーンすらも撮れない状態で、ヤキールは首になり、映画の製作自体の中止が浮かび上がる。リュイスは企画を放棄する旨をホッパーに吐露し、泣きつくまで追い込まれていた。そこでホッパーは、せっかくの準備がもったいなく忍びないし、『ラストムービー』以来の復帰へのチャンスとして監督を打って出ることにするのだ。

当初は、『ペリー・メイスン』(1957-1966)や『鬼警部アイアンサイド』(1967-1975)で有名な俳優レイモンド・バーが扮する児童心理学者ブリーンを主人公とし、非行少女のシービー〔リンダ・マンズ)の救済と再生のハッピーエンドが描かれた物語だったが(ホッパーは彼女の父親役でキャスティングされていた)、ホッパーはそれを僅かな時間の中、1日で脚本を書き換え、週末を利用してリュイスと共に出資者達と面会し、その後も話を直し続けた。

その結果、出演俳優と現代の北アメリカの家庭問題を主題にすること、そしてカナダの映画として作る点を同じくしながらも、ほとんどオリジナルの、ホッパーでしか作りえなかった素晴らしい作品に出来上がることとなった。

ホッパーによると1980年の夏、『アウト・オブ・ブルー』の撮影を開始した日、ラジオからニール・ヤングの歌が流れた。ホッパーは即座にその映画のタイトルを決定したという。その曲は、まさに「My My , Hey Hey(Out Of The Blue)」だった。前日からホッパーが書き直しはじめていた脚本には、「ロックンロールは死なない。錆びつくよりは燃え尽きたほうがましさ」と歌われるこの曲の影響が強く現れることになった。

セックス・ピストルズのジョニー・ロットンは1978年、バンド脱退時に「ロックは死んだ」と言った。ロットンに捧げられたこの歌は、ニール・ヤングが彼に対して「ロックはまだ死んでない」と答えたような歌詞だ。

その歌では、「王(キング)は消えたが、彼は忘れられてはいない」と歌われる。王とはキング・オブ・ロックンロールと称され、ニール・ヤングのアイドルであるエルヴィス・プレスリーのことだ。そして、映画の主人公シービーもエルヴィスを崇拝し、部屋でドラムを叩き、街ではパンクロッカーと仲良くなる。

ホッパー演じる父は、飲酒運転によってスクールバスと大事故を起こす。この衝撃的な場面は、5台のカメラが用意され、ショッキングかつ父親の壊れた人間性を表す印象的なシーンだ。映画全体に張り詰める潜在的な破壊衝動の湧き上がりがこうした悲惨な出来事を生み出し、連鎖的に他の人々にもその衝動が移りゆく。父は、その事故で刑務所に収監され、母親は他の男に走る。そんなクソッタレな現実から逃避するように少女は家出して、バンクーバーへ行く。撮影のためにこの街にきたホッパー自身、町中にパンクが溢れているのを見たことによってそうした要素も大きくクロースアップされることになる。

ロックは時代をいち早く象徴する。時代が生み出し、時代の姿であったパンクをモチーフにして、早熟の少女の不安と苛立ち、そして彼女を取り巻くドン底の人々を映していく。シービーに「パパはまだパンクがわかってたわ」と言われるように、ホッパー演じる中年のトラック運転手は見事なまでにパンクであり、ホッパー自身もパンクな生き方をしている真っ只中だった。

「My My ,Hey Hey」について、ジョン・レノンは「僕はこの曲は嫌いだ。燃え尽きるよりも、古い兵士のように消えていく方がいい。」と述べた。それに対してニール・ヤングは、「ロックンロールの精神の本質はずっとロックが衰退していくよりも、本当に明るく燃え尽きる方がいいということなんだ。ロックンロールは、そんな先まで見ない。ロックンロールは、今なんだ。世界が明るくなっているのかい?薄暗い中、明日を待っている人がいる。人びとが知りたいことはそこなんだ。そして、それが僕が言う理由なんだ。」

ニール・ヤングのロックに対する姿勢とホッパーの生き方は似通ったものだった。ロックは、今を歌うことだ。彼らは錆びることなく燃えてゆく。真っ暗な暗闇で、手探りに生きる人たちの光明となりながら彼らは燃え尽きるのだ。そして、そんなロッカーたちを誰も忘れはしないだろう。明かりを灯してくれた人々は、シービーのような少女からも世代を超えて愛され、その灯火は新たな表現者へと受け継がれてゆくのだ。

当初の教育的な側面の強いシナリオは、ホッパーによって大きく変更された。レイモンド・バーのシーンは大きく削られ、リンダ・マンズ演じるシービーを中心にドラマは展開される。彼女の人生に冷めたような目つきと態度は、複雑な家庭環境に置かれた少女の社会=大人への失望が強く表現されている。それでも、彼女は明るい方向にどうにかすがろうとする。痛々しいまでに彼女とその家族はドン底へと堕ちてゆく。だが、彼女の心の中にはロックがある。彼女は、自分の部屋で堪えきれない感情をドラムにぶつけるのだ。

そして映画は、ホッパーが書き換えた、劇的なエンディングへと進む。父親は娘の股間に顔を埋めながら強姦紛いの行動をし、首を掻き切られ、少女は母親を道連れにして父のトラックの中でダイナマイトで爆死する。「俺の映画はいつも炎に包まれて終わるんだ」とホッパーは語るが、その意味でもまさに本作はホッパーの映画になっているのだ(彼は公私共に無類の爆弾好きだった)。

シービーの人生はパンクそのものだった。その生涯は短いのかもしれない。でも、彼女は人生の最後に文字通りスパークし、その命を散らせた。このラストはバッドエンドではないと思う。彼女は大人や社会に対して最大級のプロテストを表現したのだ。このまま生き続けていたら、彼女も自分の親のようにどうしようもなく最低な大人になっていたかもしれない。そんな錆び付いた人生なんかより、ド派手に燃え尽きたほうがロックじゃないか。クズみたいな現世なんて全てぶっ壊してしまえ!

奇しくも、ホッパーが「My My, Hey Hey」をラジオから聞いた日は、エルヴィスの命日だった。エルヴィスの魂は、ニール・ヤングからホッパーへそしてシービーへと受け継がれた。そこには、短命ながら派手に散っていったシド・ヴィシャスの魂も含まれていただろう。『アウト・オブ・ブルー』は、全てのロックでパンクな人間の賛歌だ。

彼らは永遠に人々から忘れられない。人々の記憶の中で再生し、生き続けるのだ。『ラストムービー』は文字通り映画の終わりを描いていた。そして終わりがあれば、始まりがある。それは、新たな映画の誕生を予感させる映画でもあった。キリストのように死に、再び生き返えるのだ。シービーの壮絶な死は、『ラストムービー』のそれと大きく重複する。その後どうなったかは、観客は露知らない。だが、彼女の魂はロックと共に生まれ変わるだろう。

そして、ホッパーも復活した。ホッパーとニール・ヤングはこの映画の数年前、セックス・ピストルズのアメリカ・ツアーでパンクと触れ、ジョニー・ロットンの存在を叩き込まれた。そして、それが2人とディーヴォの出会いだった(2人とディーヴォはその後、すこぶるぶっ飛んだ傑作映画『ヒューマン・ハイウェイ』(1982)を生み出すことになる)。『イージー・ライダー』で既成のロックを映画音楽に導入したホッパーは、ここでもパンクの意義を認め、その本質をついたパンク時代のバイブルを作り上げた。

だが、依然として、酒とドラッグは彼の精神を蝕み、本作から数年間、彼は廃人すれすれの狂気の淵へと落ちかける。しかし、彼は友人たちの助けによって、治療に成功し、86年に薬とアルコールを完全に断つ。そして、俳優デニス・ホッパーは『ブルー・ベルベット』(1986)で亜硝酸アルミでハァハァとトリップする変態(彼は薬も酒もやらなくても、頭の中でトリップを再現することができるようになっていた!)フランク役で驚異の復活を遂げる。その後のホッパーは、監督として、俳優として再び第一線で活躍し、それだけはなくアーティスト活動にも専念する。彼の壮絶でパンクな人生は、多くの表現者たちから敬意と愛を向けられた。それはひとえに、人生そのものがニール・ヤングの歌のようであり、彼がロックそのものだったからだろう。

そして、なぜこの映画を取り上げようと思ったかというと、もちろん僕がこの映画、及びデニス・ホッパーが好きだからだが、それだけではない。

リンダ・マンズが先日亡くなったからだ。彼女の訃報を知って驚いたのは、まだ58歳だったことだ。彼女の出演作品はそれほど多くない。それでも、『天国の日々』(1978)での少女姿と、アドリブで続けられるヴォイスオーバーや『ワンダラーズ』(1979)での彼女の涙はどれも忘れ難い名演だ。そして、『アウト・オブ・ブルー』のシービーは、それを見た者の頭に強く刻み込まれる迫真の演技だ。彼女の若き死を知った時、僕はシービーを思い起こした。リンダ・マンズにとってのダイナマイトは映画だった。彼女は、その少ない出演作の中で、シービーの爆発と同様、誰にも忘れられない演技を残した。そのことからも彼女もまた、最高にパンクな人だったに違いない。そして、彼女とシービーの魂は僕たちの中で生き続ける。

Rock and roll can never die(ロックンロールは死なない)

※この記事は『アウト・オブ・ブルー』のDVD特典と「銀星倶楽部13号 特集デニス・ホッパー」を参考にさせていただきました。



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