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【掌編・不純情小説】ビジネスパートナーと彼女

「ねえ、ちょっと聞いて」

会話の流れからすると唐突だった。
盛り上がっていた話題の慣性で、か細い声で発した遥子の言葉は聞き流されてしまった。

その飲み会は、同窓会のように和やかだった。集まった八人のうち五人が、前の職場の同僚なのだ。
前の職場というのは新進気鋭のベンチャー企業で、業界の常識を覆す新しいビジネスモデルをいくつも生み出して話題になった。あれから20年が経った今、もうその会社はないが、そこから巣立っていったビジネスパーソン達は、自ら事業を起こしたり、別の会社の革新的なプロジェクトを任されたりしていた。
偶然にも、共同企業体での受注が決まった政府系事業のプロジェクトメンバーが、三つの会社から配属されたこの八人だったのだ。入札を勝ち取った労を互いにねぎらうための、旧知の仲間で集まった非公式の祝勝会だった。

元同僚五人の中に、俺と遥子と、遥子の夫である龍彦がいた。俺と龍彦は、それぞれが小さな専門会社の代表者としてこのプロジェクトに参加した。遥子は龍彦の会社の役員として現場を取り仕切っている。俺と龍彦は、これまでにも幾度か組んで仕事をしてきた、いわばビジネスパートナーのような関係だ。友人でもある。

「ねぇ!ちょっと聞いてってば!」

遥子の大きな声が、今度はみんなの会話を止めた。隣に座っている龍彦が遥子を諌めようと肩に手をかけたが、遥子はその手を振り払った。
俺は遥子がかなり酔っているのを、このとき初めて気づいた。

「あたしね、謙介とホテルに行ったの」

「なっ…何を言い出すんだ、遥子」

俺は天地がひっくり返るほど驚いた。反射的に過去の記憶を頭の中で探った。

「行ったじゃない。あたし、謙介に連れ込まれたの」

龍彦が驚きと怒りの目を俺にむけた。場が凍りついている。

「いい加減にしろよ、遥子。話すならちゃんと話せよ。最後まで。」

「どういう事だよ、謙介」

龍彦の声が、低く不気味に響いた。

「確かに、俺は遥子とホテルに行った事があるよ。だけどそれは20年以上前、お前たちが結婚する前…いやもっと、付き合いはじめる前のことだ。しかもだ、遥子は服を…上着さえも脱いでないし、俺は遥子に触れていない。それは信じてくれ」

俺は気が動転するのを必死に抑えながら、冷静に釈明しようと努めた。声が震えた。

「…俺が強引に連れ込んだんだ、酔っていた遥子を。すまなかったと、今でも思っている。
 部屋に入ってから遥子は言ったんだよ。自分が好きなのは俺じゃない。他に好きな人がいるんだって。
…それが龍彦、お前だよ。俺は振られたんだ。お前に負けたんだよ。大昔のことさ。今はもう、そんな気持ちは微塵もないよ。わかるだろう?俺には恋人がいる」

龍彦の顔から怒りの色が引き、目は悲しみの影を帯びてきた。
落ち着きを取り戻した俺は、二人に尋ねた。

「どうしたんだよ遥子。龍彦、お前たち大丈夫なのか?」

遥子がわっと泣き出した。龍彦は足の覚束ない遥子を抱きかかえて立ち上がり、

「みんな、申し訳ない。今日は失礼するよ」

と頭を下げ、二人で出ていった。

遥子のことについて、俺はなんとなく予感するものがあった。
俺はある法則のようなものを密かに持っていた。その法則とは、俺を振った女、俺から離れていった女は、その後しばらく経ってから、俺に接近してくるのだ。それが数ヶ月後のこともあれば、数年、それこそ10年や20年経ってからということもあった。その女たちには共通点があった。彼女たちは、悲しみ、孤独、失望の中にあった。そういう時に、俺に連絡をよこしてくるのだ。
数ヶ月前から、遥子は大した用でもないのに入札のための業務調整だと言って俺を呼び出したり、夜遅くから電話をかけてきたりしていた。電話の向こうの遥子の声に、俺はこの法則の既視感を感じていた。

龍彦と遥子が席を退いてから、メンバーの気遣いに助けられて場は再び盛り上がっていった。誰も俺たち三人のことには触れなかった。

そろそろ飲み会も締めくくられようとする時間になったとき、スマートフォンにメッセージが届いた。龍彦からだ。

「さっきはすまなかった。事態は、だいたいお前が予想している類いのことだ。あとで詳しく話す」

俺は残りのハイボールを一気に飲み干した。

(了)


©️2024九竜なな也

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