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【短編連載・不純情小説】リバーサイドマルシェ⑥

 コーヒーカップに指をかけたまま、多香美は川の対岸の景色を眺めていた。対岸には平野を埋めるようにして耕作地が広がり、その向こうに山がかすんで見えた。

 川面に乱反射した朝の陽光が屋外撮影のレフ版のように多香美を照らした。多香美は眼をやや細め、心地よさを満喫しているように微笑んでいた。俺はこのとき、はじめて多香美の顔をしっかりと見たような気がした。
 多香美の色白の肌は、俺が苦手とするか弱そうな透明感のある肌ではなく、しっかりと色素を蓄えた血の気のある肌だった。二重まぶたから延びる地毛のまつげは長く、物事をしっかりと見ようとする眼差しを多香美は持っていた。かき分けた黒髪からのぞく、つるっとした耳の曲線が、顎のラインに自然につながっていた。細くてややとがった顎は、その幅と首の細さが釣り合っている。時折強まる風に前髪があおられて現れる小さな額がかわいい。紅く染められた唇だけが、別の生き物のように見えた。多香美は美しかった。

 コーヒーを味わいながら同じ方角を眺めていると、多香美がぽつりと言った。
「あなた、よかったわ。感じたわ」
「そう。ありがとう。君もよかったよ。久しぶりに楽しめた」
 俺の返事を聞いていないかのように、多香美は黙ったまま、視線の向きも、表情も変えなかった。
 コーヒーカップが空になると多香美が言った。
「ねえ。お野菜を買いたいから、ちょっと待っててくれる? それとも一緒に行く?」
「俺はここで待ってるよ。コーヒーをもう一杯飲みたいんだ。急ぐ用事もないからゆっくり買ってくればいいよ」
 俺は本当にもう一杯コーヒーを飲みたかったし、少しの時間だけ、ここに一人でいたいと思った。
 二杯目のコーヒーを飲み終える頃、多香美は戻ってきた。微笑みながら野菜の入った白い袋を二つ持っている。
「お待たせ。はい、これあなたの分」
 差し出された袋の中を見ると、にんじんと玉ねぎとなすが入っていた。
「自炊してる?」
「してるさ。…なんだかカレーセットみたいだな」
「そうね」
 多香美は笑った。
「おなかがすいたわ。カレー食べたくなっちゃった」
「こんな朝からカレーか?」
 俺も腹がへっていた。あたりを見回したが、カレーライスを売っていそうな出店はなかった。まだ 7 時にもなっていない。こんな朝からカレーを食べさせる店なんて、表通りに出ても見つけられないだろう。
 そう考えてから、俺は多香美が言っている意味を悟った。
「作ってやろうか。鶏肉とジャガイモはあったから、俺の部屋に来る?」
「ええ。行くわ。一緒に作りましょう」
 この日から、俺と多香美は毎日会うようになった。多香美を川沿いに誘ったときは、後のことは考えず一夜限りのつもりだった。この日から 30年近く、多香美と人生を共に過ごすことになるとは思ってもみなかった。

つづく 6/7
©️2024九竜なな也

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