見出し画像

ガンダム映画の最新名作『ククルス・ドアンの島』で、安彦良和監督がネットミームから奪い返したもの

特別料金1900円かよ、高いな〜と見る前は思っていた。貧乏なCDBちゃんはいつも割引デーに映画をハシゴして鑑賞料金を節約しているからである。しかし、1時間48分の最新ガンダム映画『ククルス・ドアンの島』を観たあと、思わず4400円の豪華版パンフレット+クリエイターサンクスセットを買ってしまうくらい面白い内容だったのである。率直に言ってこれは歴史に残る名作アニメだと思う。

何よりまず、異常なくらい絵が上手い。元々この『ククルス・ドアンの島』というファーストガンダムシリーズの中の1話がなぜネットミームめいた扱いをされてきたかと言えば、当時のテレビアニメのスケジュール上の「捨て回」として、あまり作画がよくないアニメの代名詞みたいになっていたからだ。今回の劇場映画はそのリベンジの意味も込めた映画化であるわけで、ある意味では絵がブラッシュアップされているなんてのは想定内の話ではあるわけだが、そんな域をはるかに超えて上手いのである。
もともと安彦良和氏はアニメーターとしても漫画家としても超一流であり、『浦沢直樹の漫勉neo』(2021年6月9日、NHK Eテレ)に出演した際には、ほとんど下書きをせずに目から描き始めて複雑な人体アクションポーズが魔法の如く描き上がっていくという、70歳過ぎてまったく衰えない画力で視聴者を絶句させた天才なのだが、今回のエンドロールの中にも「原画」のスタッフクレジットの中に「安彦良和」の名があり、おそらく作画・動画にもかなりコミットしていると見られる。

というか、そう思わざるを得ないくらい「絵が生きている」のである。ジブリの写実的な上手さとも違うし、ディズニーのフルアニメーションとも違う。ある意味では日本アニメの代名詞になった『機動戦士ガンダム』のあの絵、誰もがガンダムと言われて思い浮かべるあの絵が、恐ろしい上手さで2022年にアニメとして動くのである。マジかよ。初代ガンダムのキャラデザというのはある意味では古くなったデザインで、だからこそ逆襲のシャアとか閃光のハサウェイとかそれぞれの時代の絵柄でアップデートされてきたわけだが、安彦良和みたいな本物の天才が監督して動かすと、初代ガンダムのあの絵がそのまま洗練されてキレキレで動くのである。こればかりは見てもらわないとその凄さが伝わらないが、骨董品になったビンテージカーを天才チューナーがフル改造して天才ドライバーが運転すると高速道路でポルシェの最新型をブチ抜いて度肝を抜く、というあの『悪魔のZ』的なロマンにビリビリしてしまうほどの作画のうまさなのである。

一例を挙げると、ミライさん。最新の巨乳アニメ美少女からはかけ離れたもっさりしたキャラクターデザインなのだが、これが映画の中でものすごく人間らしく生々しく、ついでに言えばほのかにエロく、そりゃブライト艦長もコロッと行くよねまだ若いしね、というリアリティのある女性として動いている。輪郭線を区切っただけのシンプルな絵柄なのに、そこに満ちた情報量が濃密なのである。正直言って、安彦良和監督がこの絵でファーストガンダム全話をリメイクしたらもう一度国民的ガンダムブーム来るのでは?と思うほどだ。と思ったらアムロ役の古谷徹さんが舞台挨拶で似たようなことを言っていた。

もちろんアニメの絵は何十人ものスタッフが描くものだけど、そのオーケストラの指揮者として、自分自身が圧倒的な「腕」を持つ安彦良和監督がいるというのは、やはり大きいんだと思う。

そして脚本と演出。物語の中で、無人島の灯台で孤児たちを養う逃亡兵ククルス・ドアンが畑仕事の時にかぶっている軍帽がある。暗い緑色の軍帽に、白いタオルを日除けに垂らしている。工事現場で建設作業員がヘルメットでやっているアレである。
軍帽の両脇にタオルを垂らす、というこのスタイルに、日本兵の『帽垂布』スタイルを連想する人も多いと思う。もちろんジオンの軍帽であり、ジオンのマークが入っている。それにタオルを日除けにかけただけなのだから、日本兵の帽垂布とは正確には違う。でもたぶん、観客にどことなく与える印象として、日本兵とジオンの脱走兵を重ねる、ということを、安彦良和監督は意識的にやっていると思う。映画の時代としては宇宙世紀なんだけど、「昭和」のイメージを令和公開の映画に引用して持ち込んでいるのだ。

映画の中で、ククルス・ドアンは、自分がかぶっていた帽子をアムロに「日差しよけに」と渡し、アムロが被って無人島を探索するシーンがある。アムロがジオンのマークの軍帽をかぶる姿は、そのまま映画の予告ポスターにも使われている。ちょっと引用する。

このアムロの軍帽姿を見て、安彦良和がこの帽子になんの映画的意味も込めていない、と見る人は、あまりいないんじゃないかと思う。戦争、あるいは戦後、いずれにせよ明らかにある世代にとっての「昭和の記憶」がここに引用されている。
日本人にとってこの「帽垂布」の軍帽は、理想化され神格化された神風特攻隊の飛行服の対極にある、生々しく陰惨な現実の戦争、南方戦線の日本兵のイメージだ。


そう、『ククルス・ドアンの島』は、というよりそもそも『機動戦士ガンダム』という物語は、80年代初頭を席巻した近未来SFでありながら、最初からどこか昭和の記憶、戦争の記憶についての物語だったのだと思う。

富野由悠季は1941年生まれ。安彦良和は1947年生まれである。兵士として戦争に行った世代ではなく、その戦争を子どもの視点から見上げていた世代だ。

朝日新聞が2019年に富野由悠季に行なったインタビュー記事がある。引用しよう。

https://www.asahi.com/and/article/20191229/8595254/

富野由悠季:領土、生活圏、資源、真の独立……そういう戦争の口実や原因、そして結果についての『ガンダム』の描写は、ある意味で第二次大戦の引き写しなんです。
僕にとっては、日本の過去の戦争を意識的に、あるいは無意識に投影した部分がある。そこには、屈折したものも含まれているかもしれませんが。

未来の宇宙世紀を舞台にしたガンダムが実は「過去、第二次世界大戦の引き写し」であったと語ったあと、富野由悠季は自分の父親について語り始める。

自分の父親が、日本大学法学部に学徒動員の手が伸びるや、徴兵を逃れるために軍需工場で兵器の開発に関わっていたこと。ある日見つけた父親のノートを見ると、そこには少年兵を本土決戦で特攻させる兵器の開発構想が記されていたこと。

自分は戦場に行きたくないから徴兵逃れで兵器を作り、しかもその開発工場で自分より年下の少年兵を特攻させる兵器のアイデアを捏ね回していた父親を、富野由悠季は激しく軽蔑する。さらに引用する。

富野 戦後は中学の理科の教師になったけど、「教員に落ちぶれた」と平気で言う。教え子に失礼だと腹が立ったし、現実から常に半歩退いた、まるで余生を送るかのような人生への態度は何なんだろうと、子どもながらに思っていました。(中略)和解もできないまま、96歳で逝きました。

――ガンダムのパイロット、アムロ・レイの父親も兵器開発者でした。それ以降のシリーズでも、軍事技術者の親との確執やディスコミュニケーションを抱えた主人公が登場していますね。

富野 アムロと父親との噛(か)み合わない会話や相互無理解の関係は、僕にとってはまったく創作ではありませんでした。

安彦良和もまた、父親を中学2年生で亡くしている。安彦良和には父親がいない。そして富野由悠季には精神的な意味での父親がいない。『機動戦士ガンダム』は、そうした2人が作った、戦争と父性をめぐる物語だ。

今回の映画『ククルス・ドアンの島』で、戦争と父性のモチーフはより明確に描かれる。優秀な軍人でありながら戦争に疑問を感じて軍を脱走し、無人島で戦災孤児を育てるククルス・ドアンは、あまりにもわかりやすく、富野由悠季や安彦良和にとっての理想の父である。そうした父親であってほしかった、間違った戦争に敢然と逆らい、踏みにじられる弱者の側に立つ父親の息子でありたかった、という理想がそこにはある。アムロはある意味では捕虜でありながら、本当の父親から得られなかった父と息子の関係をククルス・ドアンと結ぶ。富野由悠季や安彦良和が、本当はそうしたかったように。

この映画『ククルス・ドアンの島』では、ブライト艦長がアムロを殴るあの名シーンもリメイクされている。「ぶったね、2度もぶった、父さんにもぶたれたことないのに」という、すっかりネットミームになったあのセリフである。ククルス・ドアンの島、というサブタイトルもまた、作画崩壊を意味するネットミーム的に使われ、ネタになってきた。

安彦良和監督が『ククルス・ドアンの島』をリメイクしたのは、そしてあの「父さんにもぶたれたことないのに」というシーンを作り直したのは、『機動戦士ガンダム』という作品のテーマをネタ、ネットミームから奪い返すためだったのだろう。ガンダムは本来、昭和の戦争と不在の父親をめぐる、彼らの世代の身を切るように切実な物語だったのだ。

大島渚の『戦場のメリークリスマス』。野坂昭如の『火垂るの墓』と戦争童話集。『二十四の瞳』。流れ者が父親の代わりを果たす、アメリカ黄金時代の西部劇。『ククルス・ドアンの島』を見ている時、いくつもの過去の名作が脳裏をよぎった。このシーンがあの映画のオマージュなんですよね、みたいな気の利いた話ではない。それらはみな、彼らの世代が残した戦争や父性の物語だ。そしてこの『ククルス・ドアンの島』もまた、安彦良和たちが後の世代に残す、『機動戦士ガンダムとは、本当は何についての物語であったのか』という置き手紙のような映画になっている。

『ククルス・ドアンの島』公開の舞台挨拶で、安彦良和監督は「いろいろなガンダムが好きだと言う方がいらっしゃると思います。ただ、僕にとってのファーストガンダムはあまりにもすてきすぎて、満足しているだけです。けんかを売っているわけじゃないんです。好きな方はどうぞほかのシリーズを愛してあげてください」と語っている。彼が自分を「ファーストガンダム原理主義」と語ることに、もしかしたら少し気を悪くするファンもいるのかもしれない。宮崎駿が作った2期ルパンの最終回『さらば愛しきルパンよ』が、2期ルパンのファンにとって一期至上主義に見えるように。でもそうじゃない。この『ククルス・ドアンの島』では、イムガヒ(林嘉姫)監督という、韓国生まれの女性演出家が副監督をつとめている。

「最初に韓国で見たガンダムが『機動戦士ガンダムW』で、その前からロボットアニメが好きな女児で、ワタル、サイバーフォーミュラ、ライジンオーが大好きだった」と彼女は語る。『機動戦士ガンダムW』が女性ファンを増やしたエポックな作品であることはよく知られる。ファーストガンダムではなく、Wからガンダムに出会ったサブカルチャー育ち世代の女性演出家が、副監督としてこの古い作品を運転している。『ドライブ・マイ・カー』の女性運転手みさきが、古い車を運転し新しい場所に運ぶように。

サンライズに撮影部で就職し、演出を志すようになり、若くして今作に抜擢された彼女は、まだ経歴の浅い自分がなぜ、と福嶋プロデューサーに尋ねると、安彦良和監督の意向だ、と教えられたとインタビューで語る。自分たちの過去を象徴する作品の副監督になぜ韓国生まれの若い女性演出家を登用したのか、その意図は安彦良和監督にしか分からない。でもそれは、クリントイーストウッドがかつて作った映画『グラン・トリノ』の、頑迷な老人が守ってきたアメリカの魂を象徴する名車を、新しい世代のモン族の少年に譲り渡すラストシーンを思い出す。古い魂を運転する、新しい若者の物語。

長くなってしまったけど、無料部分はいったんここで終わり。もしも気に入ってくれたら、この後の月額マガジン部分で、ネタバレ的な内容に触れて書くので、投げ銭がわりに読んでくれると他の有料記事も全部読めるし、経済的にも助かります。豪華版パンフレットを買ってしまって金がないので。

ここから先は

2,216字
絵やイラスト、身の回りのプライベートなこと、それからむやみにネットで拡散したくない作品への苦言なども個々に書きたいと思います。

七草日記

¥500 / 月

絵やマンガなどの創作物、WEB記事やTwitterに書ききれなかったこと。あとは映画やいろいろな作品について、ネタバレを含むのでTwitt…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?