今こそ息子に退屈という名の自由を与えたい

登園自粛も二週間を迎える。

息子の登園自粛を決めたとき、わたしは息子が暇を持て余すことを恐れた。幼児向けワークを購入したり、ネットでぬりえを探して息子の好きなものをプリントしておいたりと、少しでも彼の自由時間を埋めるためのアイテムをあれこれ用意して臨んだ。

だけど、びっくり。息子は、退屈しない。

ある日突然、明日から保育園は5月までお休み。長い長い、お休み。と告げられ、息子は大喜びした。「ずーっとお休み!やったー!」と言って、その日から毎日、就寝前に布団の中で「明日は何しようかな?」とうれしそうに話す。

登園自粛中の息子の日常は単調そのものだ。
毎日、朝食後すぐ、まだ人の少ないうちに散歩に出かける。帰宅したら、花に水やり。そのあとは昼食までずっと自由時間の息子。食後に昼寝をしたら、また夕食まで自由時間。そして入浴、就寝まではさらに自由時間。

幼児にこんなに「自由」を与えても、きっと持て余してしまう。わたしはそう信じていた。ところが、この平穏な日々が半月近く続いても、息子は飽きることなく忙しそうにくるくると夢中で遊んでいる。

息子がこんなに無尽蔵の遊びのアイデアを持っていたなんて。

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息子の通う保育園は比較的自由に過ごせる時間が多い。それぞれが好きな遊びをすることに寛容だ。とは言え、みんなで体操をしたり、散歩に出かけたり。こんな遊びはどうかと保育士さんに提案されてやってみたり。

自分で何も考えなくても楽しいことが次々に起こる日常。それがこれまでの息子のスタンダードな生活だった。

いまそんな日常から解放されて、息子は自分自身で楽しいことを見つけなければいけない日々を送っている。

だれかに指示されることも、誘われることもない。ただ自分がそのときやりたいと思ったことだけをやる。それが延々と続く。

だれかに何かを決められて、それをこなしていく毎日というのは、じつはとても楽なことだ。とくにまだ経験の少ない幼児期は大人が主導してあれこれ用意してやれば、それを喜んで消費してくれる。

大人はついその反応のよさに「子供のためになっている」と確信しがちで、そしてまた新たな「経験」を与えてやろうと躍起になるけれど、果たしてどうだろうかと、いま、目の前の息子を見ていて思う。

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息子は奔放に遊ぶ。
やりたいことをやりたいように、やりたいだけやる。

次から次へと、よくもまあこんなに遊びを思いつくなと感心する。鼻歌を歌いながら、あっちへ行きこっちへ行き、あれを出し、これを並べ、あれを動かし、これを組み立てる。

アイデアが枯渇することはないのだろうか。

息子に「毎日、楽しい?」と聞いてみた。「うん、楽しい!」と屈託なく笑う。「息子は、退屈しないの?」と率直に聞くと、こんなことを言う。

「やらなきゃいけないこといっぱいあって、忙しいんだよね」

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どうしてわたしは、息子の「自由時間」をわたし自身がコントロールしなければいけないと考えていたのだろう?退屈させてはいけない、いつも楽しませてやらなければいけない、そのための刺激を与え続けなければいけない、ずっとそう思っていたけれど、そんなのは杞憂だし、むしろお節介でしかなかった。

息子が息子の時間をどんな風に使うかは、息子の自由。どんな風に楽しんだって、退屈したって、まったくかまわない。

これまでの短い人生でインプットしてきた「面白いこと」を、いま息子は自分だけの力でアウトプットして生きている。時間を好きなだけ使って、だれからも干渉されることなく自分の頭で考えて、日々を彩っている。

頼もしいな、と思う。

息子がこんなにも「遊べる人」に育っていたことに気づいて、とてもうれしい。

もし、この日々が続くうち、息子が「退屈」したとしても、しばらくはあれこれ世話を焼かずに見守ってみようと思う。彼がそれをどんな風に打開していくのか見てみたい。

今こそ息子に退屈という名の自由を与えよう。

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