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なにがしです

「5分だけ落ち込もう」といって落ち込むのが好きです。いま、それです。45分経ったけど。

19時から茶道のお稽古だったから、なだれ起きかけの仕事を放って早く帰ってきたのに、アパートついてシーフードヌードルかっこんだら力つきてしまって、お稽古の開始時間3分前に、無理だ休もうとなって師匠に電話をかけました。出たのは姉弟子で(姉弟子といっても高校時代の茶道部の顧問の先生だ、心の中で勝手に呼んでいる)、「仕事が終わらないのできょうはおやすみさせていただきます」というと「大丈夫よ、仕事がだいいちです」といわれました。
仕事がだいいちなのか。仕事が終わらないという理由でいろんな用事をことわっている罪悪感が少しうすまって救われたけど、私は今の仕事を全てのだいいちにはしたくない。出勤の動機、とくになくて、いつ布団から出なくなるか、瀬戸際だ。(出勤することを「参上」と言っている。平安時代の女房が謹んで女主人のもとにおめみえするみたいで、少しときめくから)

ここで、私のいちばんあこがれる仕事人、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のことを思い出そう。
ヴァイオレット・エヴァガーデンは、アニメの主人公の、戦争の終わったばかりのどこか外国の世界で手紙の代筆をなりわいにする「自動手記人形」として働く、元軍人の女性だ。お客さんに初めて対面するとき、ヴァイオレットは必ずこう名乗るのだが、

「お初にお目にかかります。お客様がお望みなら、どこでも駆けつけます。自動手記人形サービス、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」

淡々と穏やかな声に、これが私の名と仕事である、という誇りを宿している。
それが、いいなあ、私も、そんなふうに名乗りたいとおもうのだ。

私も日々、名乗るが。クレイマー・クレイマー(お怒りになった、電話線の先の声の主のことをそう呼んでいる。YUKIの曲みたいでちょっと元気がでるのだ)に聞かれたりして。
「あなたじゃ話にならない。上の人に変わって。あ、あなたの名前はなに」
「なにがしです」

名乗りといえば、『枕草子』に、平安時代の宮中の夜、宿直の殿上人や武者たちが夜に点呼をとられる儀式「名対面」の記載がある。
夜22時半ごろ、今日みたいにしんしん雪が降っていても行われたのであろうルーティーン。当番の職員が沓音高くやってきて、帝(清少納言のいたころは20歳前後の年若い一条天皇)のいらっしゃるほうに向いて、「高ひざまずき」という座り方をし、宿直の者の名を点呼したそうだ。名前を呼ぶことも、自分から名乗らせることもあったらしい。

当番がたずねて、参集した宿直の殿上人が一人ずつ
「なにがしです」
「なにがしです」
と名乗ったらしい。

宿直は男性陣で、清少納言ら女性たちは部屋の中から点呼のようすを聞いてたのしんでいた。

「いい声ね」
「今の人、名乗り方がいい」
「やな声」
「……(最近便りのない恋人の声だったので、たじろいでいる)」

自分が宿直の殿上人だとして、点呼されるのを部屋から女房たちに聞かれているのを妄想してみる。緊張してうわずってしまいそう。
「なっ、なにがしです」

で、清少納言たちにばかにされたかも。

「細い声ね。だれだれかしら」
「くすくす」

そんな日もあるだろうが、気にしない。また別の日を妄想する。22時半、宿直の夜、雪がふっている。耳がつめたい。袖が長い。袴がサッサと衣ずれ。かたい沓の音をたてて廊下を歩き、既に集まった宿直たちの列の後ろにならんですわる。

「誰そ」
「なにがし」
「なにがし」

誰そってか。知らざあ言って聞かせやしょう、わるいか、ドタキャンのナムナムだ。今は少し落ち込んでいる。5分のつもりが2時間経って平安なら名対面をしていたような夜半が近づく。聞かれてもないのに名乗ってみる。いつか、静かに誰かに我が名と仕事を告げる日に向かってこのひとりごとを捧げ、ひとしれず眠る。

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