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幸田露伴の小説「忽必烈(クビライ)の妻」

忽必烈の妻

 中国の歴史の中で、版図が広大であった時期は、前期では漢、中期では唐、唐の後では元が最も大であった。ことに元の勢いが盛んであった時代は、東の方では高麗を併呑し、日本を襲い、南の方では安南を侵犯し、西は遠くヨーロッパにまで、足跡を印し手指を染めたことでも知ることができる。このようであれば、元の人と云えば皆驍勇剽悍の情け知らずの荒夷(あらえびす)だけのように思われるが、元の人の中にも優しい人の無いことは無く、中にも女性はさすがに何処の国も同じ温柔婉淑を尚ぶ性質があり、思いのほかに慎ましく淑やかにへりくだった、自然で美しい温情を持つ人も少なくない。順聖皇后などは、まことにその一例である。
 皇后は名を察必(チャブイ)、姓は弘吉剌氏、済寧忠武王(さいねいちゅうぶおう)按陳(アルチ)の娘で、大器偉材を以って世に名高き忽必烈(クビライ)の后(きさき)である。中統の初めに皇后となって、一生を幸福(しあわせ)に、殆ど宋が滅亡するまでの世に臨み、元が燕京(えんけい)を陥れて都とし高麗を討って従え日本に侵攻した時代を、興国の雄将智臣にかしづかれ、絶倫の英帝に添い遂げられた人である。忽必烈のような豪傑の后となって、火が燃えるように熾(お)こり立った国の后であれば、身を飾り奢りを極められたと思われるのに、「器大であればただ足らざるを知りて溢れること無し」と言おうか、少しも人に傲り世に高ぶるなどと云う様子はなく、百年後の者をして、心ひきしめ身を省みさせるような物語を遺された。
 それはどのような事かと云うと、何時の事であったか、皇后がかつて大府監(たいふかん)の物は国の用に当てるべきもので、私家の物とすべきものでは無いと知ってからは、自身が女工となって宮人の先に立ち、もろもろの古くて使われなくなった弓の弦を取り寄せ、これを練り戻して薬練(くすね)を取り除いて紡ぎ織り直し、衣を作っておめしになったりした。弓は当時の兵器の主たるものなので、その弦はさぞかし多いことであったろう。弦の原料は極めて良いものなので古くて使われなくなった弦を、これを紡ぎ織り直して世に役立てられたことは、まことに善いことである。また或る時は、羊の皮の腐食したものが多く有ったが、使いようも無いので役人も致し方なく、ただ累々と積み置いていて、自然と腐ったら捨てようとしていたが、皇后はこれを見て天物を無駄にしてはいけないと悉くを召し寄せて、その傷んでないところを合せ縫わせて、足の踏むところに敷くカーペットとして役立てたという。まことに身に付けて使うことは出来ないが、地に敷くカーペットのようなものとして役立てるとは、皇后の思い付き実に宜しいと云おう。
 至元十三年、宋はいよいよ窮迫して幼主は人質として元に入り、江南の地は尽く元の領地となって、人々は皆喜んで大宴会を催したが、皇后だけはひとり楽しまれない風情であった。忽必烈はこれを察知して后に向い、「朕(われ)は今江南を征服して、世は安泰した。これからは戦(いくさ)も無くなると衆人皆喜びあうのに、爾(なんじ)なぜ一人楽しまないのか」、と尋ねられた。皇后が跪(ひざまず)き畏まって申すには、「承(うけたまわ)り及ぶところでは古(いにしえ)より千年も続く国は無いと申します。他国のことを見るにつけ我が国のことが思われます。吾が子孫が宋の子孫のようにならなければ良いのですが」、と云われたという。他を憐れみ己を警(いまし)めるその心は濃(こま)やかであると云うべきか。宋は既に敗れて、宋帝は走り逃れたため、宋の蔵の物は全て元の物となり、宮殿の庭上に集め並べられた。衰えたと云えども宋室の故物の数々には珍玩宝器が大変多く、婦人に喜ばれるものも多数あり、忽必烈が皇后を招いてこれを見せると、皇后は一目見て何の言葉も無く直ちに去った。「けしからん振る舞いである、好いと思う物が無いと云うのか」と帝が官吏を通して后に問うと、「いやそうではございません、よく見れば美しいものもあり、珍しいものもございますが、宋の人が貯え蓄えして子孫に遺したものを、子孫の力が足りず之を守れずに、物は皆我が方に入る。思えば哀れにもいじらしく、どうして一物をも取ることが出来ましょう」。とお答になった。この心また仁慈(なさけ)深く、人の上に在って不足が無い。
 そのほか、北方の人の帽子にはもともとは目庇(まびさし)は無かったが、南下して日の光の強い中で弓を引く時に眩しくて困惑していたのを、帝との語らいで聞いて、目庇を考案して之を帽子に付けて作れば、帝は大いに喜び之を見本として、将校兵士全員に前庇を付けさせたと云う。また軍兵が戦場を駆け回って弓や馬を使うのに便利なように、新しい軍衣の工夫をなされた。前の方には裳ありて衽無く、後ろの方は前に倍して、また襟や袖の無い我が国の陣羽織のようなものを造り、名付けて比甲と云って、人々に用いさせると、身軽で手足の捌きも宜しく、弓にも馬にも便利なので、広く当時に使用されたと云う。
 至元十四年に崩御されるまでの后の一生を思うと、如何にも女性らしく仁慈(なさけ)があり、かつ敏(さと)い知恵があり、身を惜しまず物を惜しむ。忽必烈のような人が、后のような人を后として添い遂げたのは不思議なようであるが、またよく思うと后のような人にして、初めて忽必烈のような人に仕えることが出来て全うされたのだとも云える。婦人の徳(善い点)は従順貞淑を第一とする。昔も今も武勇の国でも文明の国でも何時でも変わりのないことを見る。
(大正二年一月)


注釈

高麗:朝鮮に在った国、元に併合・滅亡される。
安南:昔のベトナムの地名
驍勇剽悍:強く勇ましいこと、動作がすばやく、性質が荒々しく強いこと。
荒夷:気や動作が荒々しいいなか者。
忽必烈:モンゴル帝国の第5代皇帝であり、元王朝の初代皇帝(大ハーン)
中統:クビライの治世で用いられた元号。
燕京:北京の昔の地名
薬練:松脂 (まつやに) を油で煮て練りまぜたもの。粘着力が強いので、弓の弦などに塗って補強するのに用いる。

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