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幸田露伴の讃「俳味」

俳味

 欲望は時に成り立ち時に成り立たないが、俳味の存在しない所は無く、俳味の存在しない時は無い。月の満月や花の満開を願う、これが俗の望むところである。しかし花や月が俗の満足に応えるのは刹那である。俳味は勿論、満月にも存在し満開の花にも存在する。しかしながら、半月や新月や亥中の月や有明の月、ないしは雲間の月や雪前の月や雨後の月、その他一切の月に、その喜ばしいところ賞すべきところを見出して、様々な感情やあらゆる状況の中に在るか無いかの趣きを汲み取るもの、これが俳味である。未だ開かない花や衰え残る花や緑樹の間に咲く花や泥にまみれた花、空中に舞い落ちる花や水上の花や蜘蛛の網の上の花や古仏殿中の花、その他一切の花に、その喜ばしいところ賞すべきところを見出して、様々な感情やあらゆる状況の中に一線の美光を認めるもの、これが俳味である。俗から見れば世は元来恨むべきもの、俳から見れば世は元来楽しむべきもの、俳味どうしていわゆる俳句者達の私有に限られよう、俳味は即ち茶味である。六尺の畳や十三通り或いは十五通りの床などの善美を尽くすもの、此れは俗の佳しとするところである。六尺の畳の四の三を取り去り、その不足を尺の板で補って不如意不完全の中に佳処を現わすもの、此れが茶味である。且つまた茶味すなわち禅味であるならば、俳味はすなわち禅味であるか、イヤそうでは無い。俳味はただの茶味や禅味だけで無い、一俳味は既に天地を蔽い尽くし、有無を消し去って久しく、また遠いのである。
(明治四十三年三月)

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