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幸田露伴・中国ふしぎ譚「支那に於ける霊的現象」

 支那(中国)に於ける霊的現象は、古くから種々の書物に現れているが、元来が表向きは怪力乱神を語ることを喜ばない風土の中で、よくよく好奇心の強い人が説いたものなので、殆んど信用するに足るものがない。殊にそれ等の話の大部分は文学の色彩で被われているので、文学として見るには中々面白いものもあるが、これを事実として受け取るには、すこぶる荒唐無稽な怪しいものばかりである。漢や晋の頃の話の中にも、やや真実に近いと思われる霊的現象はあるが、先ず明の時代辺りからの著述の中には、何といっても歴史が近いので事例が沢山ある。尤も巫女とか口寄せとか云うものは、仏教伝来の以前から既に古くから支那にもあった。これは決して仏教伝来の影響ではない。そしてこれは支那人の間の宗教心であり迷信であったが、後には文人間の一種のアソビとして流行して(特に明の頃から)戯れにもやるが、また中には真面目にやる者もある。それからその口寄せに出て来る者も、時には昔に実在した有名な人間の亡霊が現れることもあれば、また時にはまるで実在しない訳の分からない者が出て来ることもある。
 近い時代でこの方面に割合に最も輝く材料を提供しているのは、彼の高名な詩人の尤西堂(ゆうさいどう)である。尤西堂は名を侗と云い別号を梅菴と云う、清朝初期第一流の詩人で、また第一流の戯曲家でもあった。皇帝の知遇を得たほどの人で当時の文学上の地位も決して低くなかった。詩人として有名な王漁洋の友人或いは先輩であって、王漁洋の詩話の序文なども書いている。けれども彼の才華は詩よりもむしろ戯曲にあり、少なくとも劇作家として彼は当時一流であった。彼の李笠翁などは、日本人の中では非常に偉い者のように思っている人も少なくないが、実は俗受け専門の者で真の文学鑑賞家からは到底尤西堂などと比べられる資格は無い。この有名な詩人で戯曲家の尤西堂が、一種奇態な心理を持っていたと見えて、瑤宮花史と名乗る若い女の霊魂がしばしば彼に現れ出て、彼と様々な問答をやったり、詩を作ったりしたことなどを書いてあって、それが彼の全集の所々に散見される。そうかと云ってこの尤西堂は決して無暗に奇異を喜ぶ人ではなかった。その証拠には、彼は「生命奎旨」と云う一著作の序を書いているが、その序文の中で、「現今、俄かに日本で大流行を極めている岡田式静座法のように、人間がしばらく無念無想になって静座していると、忽ち身体がふるえて四肢が動揺し、或いは泣いたり笑ったりするのを見て、多数の人々は且つ驚き且つ怪しんで、之を神技とし神術などと思うのは、まことに悲しむべきことだ。」と誹(そし)っているのを見ても分かる。しかし尤西堂自身は一種の神秘を愛する人であって、前述のような瑤宮花史などの霊魂としばしば交通していたのは、誠に面白い現象と言わなければならない。
 サテ、その瑤宮花史なる者が尤西堂に現れる有様はどうかと云うと、最初は加持役のような者の手を借りて応答したのだが、後には花史自身が直接彼に現れるようになった。丁度西洋の交霊術で、霊媒のクック嬢にケティ・キングの霊が現われ、パイパー夫人にフィヌイットが現われ、ステーントン・モーゼスにインペラトールが現れた類である。デハ瑤宮花史とは果たして何者であるか、どのような経路で彼に現れるようになったかと云うと、それは尤西堂自身が「瑤宮花史小伝」と云う一長文を書いて、その中で委しく説明している。先ずその文章の劈頭にこう書いてある。

 癸未(きび)の年、予は書を王氏の如武園に読む、偶々(たまたま)扶鸞之戯(ふらんのあそび)を為して、瑤宮花史に遇うを得る。云う、花史は何氏か、小名は月児にして、明初の山陽福家の女(むすめ)なり、年は十六、独り花下に在りて花を摘む、一書生の調する(からかう)所と為る。父母怒って之を責める。遂に水に赴いて死す。王母その幼敏を憐み。(仙人簿に)録して散花仙史と為す。

 扶鸞之戯と云うのは、即ち乩(けい)の術でこれは降神術のようなものである。文人間においても、之をした者もあるようである。西堂の友の芑蕉という者も之をよくしたという事だ。誰が霊媒になったか知らないが、自ら瑤宮花史と名乗る一人の少女が現れて、自身の経歴を前記ように語ったという事だ。王母とは西王母のことで、支那の伝説では西王母は女仙人の総大将と決まっている。即ち瑤宮花史も死して西王母の許に行って、その仙人簿に名を記されたというのである。その瑤宮花史が降壇(現前)するやいなや、一詩を作った。尤西堂は更に筆を進めて云う。

 (花史)初めて降壇の詩を作って云う。「片々たる落花は騎客に飛ぶ。翩々(へんぺん)と独り風前に向って立つ。緩行し徐過する小橋の東。只恐れる春衫(しゅんさん・春着)の汗の香に湿るを」と、その風貌は次のようである。花史は年少(わか)く、放誕で風流、既に情の為に死す。眉黛の間には常に恨色有り。性質は諧謔を好み。既に予(私)と狎れ親しむ。嘲戯(ちょうぎ・からかい合うこと)百出。一座閧堂(さわがしく)。間々(まま・時に)微詞を以て之を挑めば。輒ち(すなわち・容易に)対(こた)えず。或いは乱(みだ)らすに、他語を以てする。久しゅうして、そして憮然(ぶぜん・呆然)とする。情の一たび往いて深きを知らず也。

 眉黛の間常に恨色有り以下は、瑤宮花史が口寄せを通して現わす表情や態度を写したものである。そこで尤西堂も詩人なので早速に花史の詩に和した。

 芙蓉の城主に金釵(きんさい・金のカンザシ)の客。雲中に飛舞し風中に立つ。散花をハラハラとまき散らし、花を折りて帰る。一枝に雨擎(う)ちて衣は香りに湿る。

というのである。中々美しい詩である。この時以来、瑤宮花史はしばしば尤西堂に現れて、ある時は長い連句をしたと云うことも書いてある。ところが連句をやったその夜から忽然とこの瑤宮花史が、媒介を借りずに直接尤西堂に現れるようになった。彼はまたこの時のことを記して、

 この夜ついに花史を夢みる。静々とやって来る。年好し、十八九。頭上に百花の髻(もとどり)。芙蓉の冠を戴き。碧色のしだれ鈿(かんざし)を挿す。金糸銀泥で美しく、ぼかしの入ったうすものを着て、色鮮やかな靴を履く。等々。

と云っている。それから瑤宮花史の霊と交通のあったことが委しく記されている。その後、花史は花史の侍児の楚江というものの事を説き出して、この楚江という端麗明慧の女子は、前世は君と隣であった、二人は相愛であったが遂げられずに病死した。前世の君は一柬(いっかん・手紙)を作ってこれを焚いて楚江の霊に告げた。その柬の語に、「三生(前生・今生・後生)、もし断えなければ、願わくば未来の縁(えにし)を結ばん」とあった。それから前世の君はやがて死んだ。という事を語った。そしてそれから楚江は君との宿縁を終えようとして、甲申二月に趙の地に降生することを王母に許されたということをも告げた。花史は仙界の別れを賦して楚江を送り、楚江も詞を和した。その詞は皆美わしい。西堂はそこで楚江に詩を送った。

 黒い髻(もとどり)青衣の一小蠻(田舎むすめ)、
 个中(内緒)の佳話 已(すで)に相暗(そら)んずる。
 身は花史の司花の女たり、
 手に花枝を撚(ひね)って 半(なか)ば憨(かん・愚)を帯びる。

と云うのである。ところがこのような事から王母のお叱りを受けたというので、瑤宮花史の霊がフツリと現れなくなって、それ以来西堂はついに再び花史に遇うことが出来なくなった。ここにおいてこの多感な詩人に有名な落花の賦なるものが生まれた。落花賦とか枯樹賦とか云うものは昔からあるが、尤西堂はその落花賦に擬(なぞ)らえて、瑤宮花史を弔ったのである。賦は尤西堂全集の第一巻に出ている。

 落花賦(瑤宮花史を弔う也)

 悲しい哉(かな)、試に郊原を望めば、満目荒涼として、蔓草は孤(ひとり)青く、叢條(そうじょう・草むら)は尽く緑、花影を誰が留める。花魅は復(かえ)らず、紅顔の命は薄く、傷心して一哭(こく・大声で泣く)する。

 猶(なお)記す夫(そ)の歳既に晏(おそ)く、臘(ろう・臘の祭り)も残り就く、風は小楥に廻り、霜は余寒に勒(くつわ)す。隋宮の戯(あそび)を剪り、唐苑の催を看る。是れより花は始めて出、乎破瓜之年(十六才の初潮の頃)に似るもの有り、初めての霧は髻(もとどり)に籠め、微かに煙は鬟(みずら)を掠め、温脂は滑らかな玉となり、清粉の香りは集まる。稀な親切心に、粗末な彩色の衣を一対纏い。憨(かん・愚か)にして、笑いを欲する如し。弱く憐れで勝れず。

 夫(そ)れ春光好風は信念に及び、蝶は江南を夢み、燕は寒食を思う。鈴は房櫳を護り、鼓は顔色を催し、是れより花は正に開く。乎定情之日(結婚適齢期)に似るもの有り。夜の帳(とばり)は腰を欹(そばだて)て、暁の奩(くしげ・小箱)に黛を払う。酣睡は紅を夢み、淡粧は碧を浴す。薄く雲欄に酔い、小さく月陌(月道)は垂れて、娬媚(ふび・こび)の情は移り、温柔の魄(たましい)は殢(くるしむ)む。

 孰意(いずれにしても)春が暮れれば将(まさ)に。日は西を欲す。奈何(いずくか)で鶯(ウグイス)は喚き。帰り去る鵑(ホトトギス)も啼く。風は片々と驚き、雨は枝々に泣く。是れより花乃落ちるは、墓地での別れ、南浦の生き別れに似たるもの有り。飄零する翠(みどり)の鈿(かんざし)。砕剪する羅衣(うすいきもの)。脂肌は土に葬り。玉骨は煙と飛ぶ。涙の痕は面(おも)を界(かい)し。秋暈の侵す候に、朱簾を捲かず、青い幙(とばり)は空しく垂れて、花は問い語も無く、花を見て期は無く。今より一去す、地の角、天の涯て。已焉哉(やんぬるかな)、昔日の三眠も、旧時の一念も、含笑も已(すで)に非(あら)ず。合い歓ぶも遂に絶え。開き並らぶ蔕(へた)の枝を分かつ。断って同心の結びを扭(元にもど)す。西の窗(まど)を閉じて環珮(かんはい・帯びた環)も杳とする。東風(こち)去って音塵も濶がって。咽び復(また)咽ぶ隴頭の水。怨み復(また)怨む関山の月。夫人の黼帳、天子の璧台の如く至る。琵琶は雁に寒く、繡襪は馬に嵬(たか)い。緑珠は樓に墜ち。紫玉は塵に埋まり。巫山の雲は散り。洛水の舟は廻ぐる。悲しい別離か。古く自(よ)より孰れか能く我が落花の哀しみを喩(たと)えん。

 尤西堂はまた花史を夢でなくして、或る夕べの月明かりの竹下に見たと記しているが、一少女の霊と別れた位でこんなに悲しむとはイササカ不見識のようだ。が、多情の才子で多恨の詩人のこと、自ずからこのように至ったのであろう。特に尤西堂は元来人情に厚い人であった。それはこの人の集を注意して見ると誰でも感知することが出来るが、彼が自分の集を世に出すに際して、自分の友人で未だ世に知られずに死んだ湯卿謀という者の集(湘中草六巻)をその末尾に付加してやったことなども、確かにその一例とすることが出来るし、卿謀を哀れんだ詩詞は甚だ多い。こういう性格の人で、そして戯曲的想像力も豊かで詩詞的才能も十二分にあったのであるから、瑤宮花史も大層おもしろく後人の目にうつるのである。しかし、一ツには時代の風のせいでもあったので、西堂の友の芒燕なども、自分に現れた美人澹玉の為に別院を造り、神主を置き、香を炷(た)いて供したら、遂に澹玉の姿が現れたということがあって、西堂はその為に「春風舞」の歌を作っている。澹玉も女詩人である。また、高蒼巌に現れた玉娟々という女詩人なども一例であって、西堂は伝を作って論じている。その言に、

 才子は数奇にして、佳人は薄命である。その生の不遇の者は、没して必らず神霊鬼怪と為り、揚って浩蕩たる天地の間に飛ぶ。理(道理)は固(もと)より然(しかる)也、

と云っている。こう云う考えは当時の人々の間に漲っていたのである。ただし、西堂には葉小鸞という実在の人で、美しくて、詞章を善くして、そして西堂と相思相愛で西堂に先だって死んで、西堂に十章の弔詩を作らせた人があったことと、それから多分小鸞の妹だろうと思われる小蘩というものがあったことを想わなくてはならない。西堂が小蘩の詩を読んで贈った詩の一ツに、

 蕚緑伝(がくりょくでん)の書は、青鳥(せいちょう・西王母の使い)を封ず、烏糸欄(うしらん・艷書の紙)の印口(おしぐち)は脂紅(べにあぶら)、浣花(かんか・花を洗う)手灌(しゅかん・手を濯ぐ)する薔薇の露。特辨(特別)に名香を尽日(終日)供す。

と云うものがある。蕚緑は女仙の名を半分にして言ったもので、この美しい女仙人は遠い昔に於いてやはり或る人に現れたことで、世に名が伝わって居るのである。考えどころがある。
(大正六年十月)


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