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幸田露伴・釣りの話「釣魚小話」

釣魚小話

 赤目魚(メダナ)釣りというものは、釣りの中でも類の無いものだ。蚊針で引っ掛けるのであるが、私は自分で工夫して、大きな針を四本寄せてイカリをこしらえて、それにインコの赤い羽根を結わえつけて作った。針を下ろしてから柔らかく上げたり下ろしたりすると、上げる時には赤い羽根がつぼみ、下げた時には開くので、それをメダナが遠くから見つけて来て嘗めるところを、巧く引っ掛けて釣るのである。しかし釣り場へ出て行っても、容易に釣れるものでは無い。私は土用の日に三日も続けて出掛けて、一日中釣って一尾も釣れなかった事もある。朝から晩まで水の上にいるのだから、日に焼けて顔の皮が残らずむけて仕舞った。しかしメナダは夏だけでは無い、寒中にも矢張りこの蚊針で釣るのである。
 団十郎もメナダ釣りは大好きで、今の幸四郎がまだ染五郎と云っていた塾生であった頃、よく連れられて出たものである。その頃幸四郎は舞台では端役ばかり振られていたのだが、幕が下りてから師匠の前へ出て、その日の自分の出来栄えを尋ねると、団十郎がそれを聞いて、「お前がどうやったって俺は一向困らん」といっていたそうである。それがメナダ釣りに出ると小言づくめで幸四郎も閉口したそうである。毎日毎日釣りに出ても釣れないものだから、終いには「お前の座りようが悪いから釣れんのだ」とか何とか云って、やかましく小言を云われるので、これには幸四郎も弱ったそうである。
釣り師気質というものは面白いもので、一ン日出て釣れない、二日出ても釣れない、それが三日四日となると、大抵の者は諦めそうなものだが、そこが釣師気質で、釣り場に他の釣り手が出ていると、お互いにもう一日もう一日と思って、どうしても出掛けたくなるものだ。モシ自分が出ない日に向うの釣り手に釣られては、といった気が起こるのである。
 メナダ釣りに出て一尾も釣れずに十七日続けたという人がある。今でも釣師仲間の一ツ話になっている。始めの三日や四日は船頭との話の種もあるが、五日もたち十日もたつと、どんな人でも話の種も無くなってしまうものだ。それが一尾も釣れないのだとなると、いろいろな事を考える。よく相性ということを云う。博奕を打っている時に、その男が入って来るとキット勝負が狂うというような事がある。鉄砲を打ちに行っても、その男と一緒だと他の者はキット獲り外すといったような事がある。昔から「縁起船乗りばくち打ち」と云われていて、船頭はよく縁起をかつぐものだが、釣師もそうである。弁当のおかずがどうだから釣れないとか、来る道でどうだから釣れなかったとか、いろいろなことを云っている。その十七日続けて出掛けた人が十八日目の日に出た時に、向こうに出ている相手の船へ「こう毎日出て来て一尾もかからないのは船頭と性が合わないのかも知れん。ひとつ船を取っかえて見たらどうでしょう」と口を切ったところ、相手の方でも「それもそうかも知れん」と云って、釣師だけが舟を乗り換えて釣ったところ、全く不思議に釣れ出して、とうとう船足が重くなる程両方で釣ったそうである。何十貫と釣れたというのだ。
 スズキ釣りも面白いものである。私は利根川べりの木下(きおろし・成田線)へ出掛けて「鶴久」という船頭を雇って釣っていた。ある時天気を見越して、今夜から荒れそうだという時に船を出そうと思って行くと「鶴久」で出て呉れない。この天気では船を出したってダメだと云って、どうしても承知して呉れない。こちらも引っ込むわけにもゆかないので、あだ名を「カッパ」といっていた縄釣りをやっている男を頼んだ。この男はあだ名のように、一年中、川に出ている男で、照っても降っても出るのでカッパカッパとあだ名で通っていたのだ。そのカッパが前から私がスズキを釣るのを見ていて、自分でも何とかして釣りたいのだが、私の仕掛けが分からないので、それが知りたくてたまらずにいたのだった。果たしてその日は大荒れになって、船を釣り場に持って行くことが出来ず、やっと風上の堤防の陰に舫(もや)って釣っていた。もう三尺ほど外へ船を出したいのだが、危なくて、それが出せなかった。しかし釣れたことは大したもので、スズキを釣るのでは無くてスズキの方から来てかかるのだ。ところがカッパが私の仕掛けを見て仕舞って、私が帰ってから自分で東京へ出て道具を買い込んで、ともかく似たような仕掛けを作りあげて、エサのイトメも地元には居ないのだから東京まで出て来て、掘る道具を買ってドッサリ採って帰って、それから毎日毎日釣りに出たのだが、一向に釣れない。どうしても釣れない。それで「幸田さんは人が悪い」といって、後々までその事を云っていた。前に私と出た時にスズキが釣れたのは、荒れ模様になろうという間際の釣り時であったためである。何の魚でもだが、とりわけスズキは平日は容易に食わない魚である。そのスズキが天気が怪しくなって来ると、気違いのようになって食い付くのである。カッパは天気のことを知らなかったのである。似た道具を使って、同じエサを使っても、ただそれだけでは釣れないのは当たり前である。
 大正六年十月一日(洲崎の土手が津波で切れた時)の大荒れの時に、私は自分の船で向島から中川を上がって利根に出て取手の上流で釣って、少し釣れてから寧ろそこに居れば好かったのだが、五里も上流へ上がったところで、あの大嵐に遇って命からがら三ツ堀(鬼怒川が本流に流れ込む所の南に岸)寄りの小溝へかけ込んで、やっと船をかけて世を明かした事があった。苫(とま)を張ったって、吹っ切られるばかりで、どうする事も出来ず、とうとうドテラを着たまま船べりの内側へ身体をベッタリ寄せて朝まで凌いだ。ドテラはすっかり中まで濡れて仕舞い、中から暑いので汗が出るし、どうにも弱った。その恐ろしかった事ッたら無かった。土手の上の松の木がひどい音を立てて吹き折られたりして、すさまじい大荒れだった。東京の家の者は、私が生きていようとは思わなかったのだ、そこへ翌日ヒョッコリ帰って来て、みんなに無鉄砲を笑われた。おまけに、「こんな時に魚まで持って帰るなんて、よっぽどバカだ」と云って笑われた。
 向島へ私が初めて家を持ったのは日清戦争の頃で、白鬚から引っ込んだ所で、一軒家のようなものだった。隅田川へよく鯉釣りに出たが、船で釣っていると、鯉だから手早く引き上げる訳にはいかないのを、土手の方では大勢たかってこっちを見ているので、それには閉口した。その時分には地所が六百坪もあったので、家の庭へ鳥が沢山来るから鉄砲で打っていた。二階から打ったりなんかした。昔の絵図に出ているが、名高いケヤキの大木があって、それへ鳥が集まるのを打ったものだった。焼き鳥の一冊くらいは常に台所の棚にあった程だった。
(昭和四年十月)

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