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幸田露伴の随筆「潮待ち草38・39」

三十八 選択
 人はその親を選んで生まれる権利は無い、又その子供を選んで生む権利は無い。ただ僅かにその妻を選んで娶(めと)る権利があるようであるが、これも見たところ、自分の望むような女性を娶ることができている者は十人に二三人である。その七八人までは自分の望むような女性を娶れてはいないようである。人は誰でも、妻を娶るなら花のような妻を娶りたいと思うであろう、しかしながら花のような妻を有する者は甚だ少なくて、芋のような、唐茄子(とうなす)のような、青瓢箪(あおびょうたん)のような女性もまた、必ずしも一生をひとりで暮らして居ないところを見れば、人が妻を選んで娶る権利も名目だけで、実際は無いようなことだ。すでに子は親を選ぶ権利が無いので、自然に弥次郎兵衛や喜多八の子である。又、親は子を選ぶ権利が無いので、自然に三太郎や与太郎の親である。又々、妻を選ぶ権利が無いので、自然にお亀やお多福の夫である。又々々、自分の容貌や才能や性質を好きに選ぶ権利が無いので、自然に出子助(でこすけ)であり、卒八(そっぱち)であり、猿松であり、頭武六(ずぶろく)であり、愚伝次(ぐでんじ)であり、兵太左衛門である。人であっても誇るに足りない。人は自分を万物の霊長と云うが、その形は決められ、その性質は与えられたものである、自分の自由にはできない。杉が自然に真直ぐで、竹が自然に空洞なのと異なるところは無い、どこにその霊長なところが有るというのか。
 ただ、人が竹や木と異なるのは、幸いに身を殺すことによって、造物主が自分に課した使命を破壊する権利と、世に対処するために善悪二ツの業のどちらか一ツを選んで、悦んでこれを取って敢然として之を行う権利を有するからである。自殺は実に人の有する最大権利の一ツである、しかし世の自殺者を見ると、自分の権利として之を楽しんで行う者は絶無である。皆多くは自分に迫ってくる境遇のために、生を捨てて死に就くのである、境遇に追われて死ぬようなことは、自殺とは云うが実は殺されたのである、自殺と云うべきではない。そのためその死は、或いは水に投じ、或いは剣に伏し、或いは毒を飲み、或いは首を吊って、皆あわただしく急(にわか)に死を求めるような状況を現わさないものは無く、歓び楽しむ態度で死ぬような者を見ない。自分の権利として自殺する者が、どうしてあわただしく、子供が苦い薬を飲み下すように急いで、それを行う必要があろう、たとえ毒を飲み剣に伏すと云えども、その杯(さかずき)を取り刃(やいば)を握る時には、急がず慌てず落ち着いた愉悦の態度が有るべきである。商の末に二聖が山で飢えたり、古代ギリシャの哲人が毒を仰いだり、迦葉が定に入ったりしたことなどは、僅かに能く人がその最大権利を用いた例だと云えるが、古今東西、殺されないで真に自殺した者が幾人居るだろう、多くは皆権利としての自殺をすることなく義務としての自殺をし、若しくは追い詰められて仕方なく自殺して、自殺の名を負わされただけの者である。
 自殺は稀(まれ)なことなので深くは論じない。我々はただ正に、選んで義を取り、悦んで善に就き、善悪の取捨における大きな自分の権利を放擲することの無いようにするだけである。天地はすでに造られ萬物はすでに定在する。頑固者を父にしても之をどうすることも出来ない。愚かな者を子に持っても之をどうすることも出来ない。醜女(ひこめ)を妻にしても之をどうすることも出来ない。頑固者は悲しむが善い。愚かな者は憐れむが善い。醜女は恕(ゆる)すが善い。人にはもちろん自由は無い、人の自由はただ善悪のどちらか一ツを選ぶことだけである。この一大権利を決して疎かにしてはけない。選べ選べ、貴方が銭を使わない時は貴方に銭は無い。貴方が銭を使う時に貴方の品性は露(あら)われよう。

注解
・芋:田舎顔。
・唐茄子:カボチャ顔。
・青瓢箪:青く長い顔。
・弥次郎兵衛や喜多八:ありふれた男
・三太郎や与太郎:ありふれた子供
・お亀やお多福:ありふれた女性
・出子助:おでこの男。
・卒八:反っ歯の男。
・猿松:物知り顔の笑われ者、でしゃばり男。
・頭武六:酔いつぶれ者、酔っ払い男。
・愚伝次:愚か者?。
・兵太左衛門:無骨者?。
・商の末に二聖:伯夷と叔齊。(「史記」伯夷列伝)
・古代ギリシャの哲人:ソクラテス。
・迦葉:釈迦の十大弟子の一人。釈迦の後継者。

三十九 権利義務
 軍人が戦うのは軍人の権利であり、また義務でもある。権利として戦えばその戦いは自(おの)ずと勇気あり光あること多く、義務として戦えば勇気なく光ないこと多いと思われる。詩人が歌うのは詩人の権利であり、また義務でもある。権利として歌えばその戦いは自ずと生命(いのち)あり香(かおり)あること多く、義務として歌えば生命なく香ないこと多いと思われる。夫妻の関係と異なるところがないが、妻を愛するのは自分の権利だと感じるのと、妻を愛するのは自分の義務だと感じるのとでは、そこにいささかの違いが生じる。一ツは正しくて温かみがあり、一ツは正しいが乾いている、朝の暗さと晩の暗さのようである、同じ暗さでも違いがある、この機微は筆舌では表わせない、実際に体験して理解するしかない。権利として妻を愛すのは仁である、妻に対して発する溢れる心である、真心である。義務として妻を愛すのは義である、人為である、強いてするところがあるのである。仁はもちろん可である、義もまた悪くはないが、権利として為す方が、義務として為すよりも、楽しいではないだろうか。義務によって作られた年賀の歌に、感嘆できる佳い歌は甚だ少なく、老将や勇士が義務で戦った長篠の戦は、終に武田軍に甚だしい不利を贈った。

注解
・仁:やさしい心。
・義:正しい心。
・長篠の戦:織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍の合戦。


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