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幸田露伴・支那(中国)の話「神仙道の一先人」

神仙道の一先人

 私は今これから精神異常者と云いますか、或いはこれをやや敬う意味で精神超常者と云いますか、或いは世俗的に一口で発狂者と云いますか、何れにしても普通でない心理を持っていた一人の古い記録についてお話をしまして、そしてその間にチョイチョイ短評を挿んで皆さんの研究の入る余地を余り害さない程度にお話をしようと思います。
 一体に精神異常の状態を研究しようと思いますと、自然とそこに四ツの路が見出されるように思います。四ツの路は何かと云うと、その第一はその異常を呈している人の状態を外面から観察することであります。その人の経歴や遭遇した特殊な事故や、現在の環境や遺伝や生活能力の状態や身体の疾患の有無や摂食や排泄の状態や、躁暴若しくは沈鬱等の種々な挙動や様子など、およそこれ等の類を外面から観察するのが一ツであります。この外面からの観察によって、その人の持つ精神状態の或る点と、外面に現われている或る点との間の或る関係の存在が確実に分かれば、研究も一歩進んだ訳であります。例えば高山にしばらく居た人が突然山を下ると、その人が健康であれば何の問題もありませんが、その人に精神的な異常があれば、その異常状態は多くは亢進し、稀に軽快する様相を呈します。大概は先ず増悪しますがこれはどうしてかと云うと、気圧が精神に及ぼす影響ということに仮説を立てたくなります。そこで猶多くのこのような事例を集めて研究すれば、気圧と精神の間に一ツの解釈を得る訳になります。また例えば鼻茸(はなたけ)がその人の精神を鈍くしたり、眼鏡の度が合わないことが精神の不調を増進したり、唐辛子の嗜食家に精神病傾向の人が多かったりする、これ等の些細な例において、若し一ツの疑問や一ツの仮説を持って外面から観察して研究したならば、断片的・部分的ではあっても一条の道・一点の光を招来する訳であります。いわゆる病理学者や療病者等はこの外面的な観察に重点を置いて、我々にとっては不明な精神異常という一世界を攻め立てているのであります。そして徐々に一歩一歩と路を拓き、一点一点と小さいながら灯火の光を挙げて、不明の暗黒を破りつつ進んでいるのであります。
 第二には内面的な観察であります。即ち精神異常者自身の世界、即ち普通人の世界とは或いは同じことも有るが、先ずは異なっている世界の有様を観察して、或る異常者と或る異常者が持っている世界との関係について、これを知り、これを評価し、そして仮説を立てて研究するのであります。精神分析と言ってもよいでしょう、心理的と言ってもよいでしょう。外面的な観察は医学的な傾向があり、内面的な観察は心理学的な傾向にあります。医学的知識の少ない人の研究は自然と此の方になり勝ちですが、こちらの方の研究も無暗に粗技大乗的になって大雑把になる弊害に陥らなければ、甚だ価値の低くない研究で、何時かは此のような研究が科学的精度を高めるにつれて、効果を挙げることが増えて来ることだろうと思います。何故かと云いますと多くの精神異常が外面に現れる事象の原因は、内面的な観察の範囲に在るものによって現れることは自明な理であるからです。例えば精神病の素因の有る人が精神異常を呈するには、内面的に何事も無いということは考え難いのでありまして、内面的な何事かが有って起って来ると考えた方が妥当なのであります。先天的な欠陥を持っている人などは、その欠陥が内面的観察の範囲に在るとは云えませんが、多くの場合、種々の精神異常の状態は内面的観察の範囲に在るものによって惹起されるのであります。極端な例を云えば、仏舎利感得と云うようなことは、信念ということ以外ではまるで解釈の出来ないことであります。シャリーラという語は骨ということです。物質です。それが支那(中国)で仏舎利感得の事があってから、後には高僧や有徳の居士も自身から自身の舎利が出るというようなことになりました。たいてい実際は石か又は瑪瑙(めのう)の類の小粒なもののようです。が、アコヤ貝でもハマグリでも中から舎利のようなものが出ますから、中には本当に人身から出たものが有りますかどうか。最近では守田宝丹氏なども舎利を感得したと云うことを聞いています。サテこの舎利感得は、信仰と云う内面的事情を除いては論じられない奇瑞です。また古いキリスト教の方ではスチグマタという事があります。キリストが十字架へ釘付けにされた、丁度その釘のあったところへ信者の身体に釘の跡があらわれる。これをスチグマタと云いまして、高僧のアッシジのフランシスはじめ沢山の男女にその奇験が現れました。まことに有難いことで、物質論者の側からはヒシテロ・エピレプチックの状態の賜物とされましょうが、これ等も信念とか信仰とかいう内面的観察の範囲に在るべきことを除いては、研究の第一歩が脱落していることになります。狐憑きの有る国、犬神の有る国、無い所には無いものが有る所には有る。精神異常の内部からいろいろなものが出て来るのですから、内面的観察が大きな領分を持つことは明らかです。
 第三には試験的観察です。存在しているものを観察するのが、前に挙げた第一第二の観察ですが、ここでは医学的・心理学的に或る施設と行為を試験的に行って観察するのです。即ち医薬を用いたり治療を施したり、或いは種々の方法で精神の異常な反応を試験して見たり、実験的・心理学的のやり方や精神分析法や催眠術等で種々の試験を行ったりして、精神が通常状態の人の変化を見たり、異常状態の人の反応を観察したりするのですが、これは仮定の正誤や仮説の真否を検査するのに最も有効なもので、この一ツの関門を通過すること無しには、どんなに巧妙な説でも学問的に有力なものとしては成立し難いだけでなく、意外の発見がこの一ツの関門の近くで研究する人々の足下から世に示されるかもしれない。特に人の精神の病的即ち通常以下に落ちる場合と超常即ち通常以上に高まる場合と、換言すれば精神能力に欠陥を生じる場合と精神能力が高まる場合との、二ツの中の後者の研究にはこの試験的観察がより多く価値を持つように思われます。
 サテ第四は究極の観察で、別を合わせて通を立てると云いますか、別々個々の事象や理由を総合して、これを貫通穿串するところのものを観察するのです。また偏を集めて円を成すと云いますか、偏った欠片(かけら)のようなものを東から西 から右から左から集めて、そして完全なものを得ようと努力する観察です。この究極の観察に到るために各人が努力しているのは勿論なのですが、これは決して強いて急にこれを成就しようと仕たり、若しくはこれに取り掛かろうとしてはなりません。自然に東西南北を歩き廻って、それで初めてその地の形勢が分かるように、春夏秋冬を経た後に初めて一年の運移が分かるように、一方一時の事だけを知っただけでは、どんなにその知識や理解が正確であっても、それは別であって通で無く、偏であって円でありませんから、通解円知の生じよう道理は無く、究極の観察を下せるものではありません。時に学者が誤謬に陥るのは、つまり究極の観察を下す段階に至っていないのに、早くも究極の観察を下すことから起こることであります。究極の観察は最も大切なものですが、我々は究極の観察を急いで下してはいけません。それは妄断と誤謬を得るだけです。究極の観察を下す前に、前に上げた三ツの観察による博く深く正確な観察結果をピラミッドのように堆積して、その三角錐の中から天の川の星を測定するような慎重な態度で行わなければならないのであります。
 この四ツの路は、精神異常もしくは超常、ハッキリ言えば精神そのものを研究しようとする者の前に自然に存在するものでありまして、何人(なにびと)の研究も既に研究である以上は必ずこの四ツの中のいずれかの範囲内にあるのであります。
 サテ前置きの話が長くなりましたが、今私が提供しようというのは、第二に挙げた内面的観察の一材料に過ぎません。が、このような研究の材料としては、一寸おもしろいと思われます。それは歴史的に甚だ古くて、そして類の少ない明細詳密な記事が遺(のこ)されているという事が先ず興味を惹くだけでなく、宗教というものの星雲時代、即ち次第に成立しようとして尚成立しない時代か、若しくは混沌の時代、即ち成立しているが尚形式や儀礼や粉飾が調わない時代の事を語るような面白味が、大層我々の興味を惹きます。私は究極の観察を下し得たような顔をして、宗教と云うものはどういうところから成立するものだ、などとエラそうなことを云うのはイヤですが、今お話しようとする一ツの古い記録は一面に於いて宗教の成立について暗示しているようなところがありますので、その点に於いて私は若干の時間を費やして調べたのですが、この会ではその点についてお話することは不要ですから、ただ精神異常者の内面的消息を伝えた記録として、皆さんの内面的観察の材料としてのみお話を致します。
 只今歴史的に甚だ古いと云いましたが、およそ精神異常若しくは超常の断片的記録などは、歴史が始まると殆んど同時に存在し始まるものでして、多くの国の歴史を見てもその初めに必ず霊異の事を含まないものは無い位です。しかし、その多くは神話的または伝説的に現れているので、確実な記録の形をとって現れているものは少ないのであります。後世のものでも霊異奇怪な事象を記したものは沢山有りましたが、多くはそれが詩歌や伝奇的色彩を帯びたりしまして、どこまでが事実で、どこからが文飾や詩趣であるかが不明です。唐の人は沢山、霊異の事を書いております。しかし唐の人は文才を示すために、少しのキッカケを根にして美しく立派に飾った文章で短編小説のようなものを書くことが多かったのです。これは今後唐の文芸を論じる場合に、同時代の風習としてそういう事が成立していたことを証拠立てるつもりですが、例えば日本の古いところでは馬養(うまかい)が作ったのか誰が作ったのか分からない漢文の浦島子の伝記、ああいう文体や段取りのものが唐には沢山ありまして、あの浦島子の伝記などは確かに唐の短編小説の一種の形式と風采を備えたもので、一歩進んで論じれば唐代の流行の模倣であります。唐には実にああいうものが沢山ありまして、その中には自然と神怪霊異の話が沢山有ります。しかも時代が古いので、後の「聊斎志異」や「剪燈新話」のように小説のように書いてはいないで、いかにも事実談のように書いてありますが、また実際に幾分かは型が有って人が薄々知っているようなことを種にして書いたものもあるので、人には一寸本当の事のように思わせます。しかし唐以後の人のものは文才を示そうと面白半分に書かれたものが多いので余り当てにはなりません。日本の平安朝の人は大変に神怪霊異の事が好きですが、平安朝から鎌倉時代あたりの人は迷信が深くて、そして無学で偽説の製造や訛伝の受け売りが大好物でありましたから、割り引いて受け取らなくてはなりません。怪しい会社や怪しい奴から出された手形は、用心して受け取らなければならないのは何時の世でも当然のことですから。今お話しする古い記録も人々それぞれの鑑定次第に用心して受け取らなければなりませんが、唐の時代のような、風習もまだ出て来ない時代の事でありますし、またその記録が詳細である事が幾らかの取柄であると思います。
唐よりズット前の梁の武帝の頃、即ち今から千四百余年前の、日本で云うと武烈天皇さまから継体天皇さまの頃に、周子良(しゅうしりょう)という人がありました。この周子良、字(あざな)は元和という人は、年わずか二十歳で亡くなりましたが、亡くなる前に子良自身がいろいろの事を記したものがありました。それを子良の師が見出しました。尤も子良が死ぬ前に自分で二束の書百余紙を焚(や)いたのを文幸という者が見たのですが、何処かに何か遺(のこ)っているだろうというので、師が捜したところ燕口山洞に一箱があって、それを整理したのが今日に残り伝わっていまして、種々様々な事を書いたものが四巻あります。勿論一篇の書を成す積りで書いたものではありません。師の手によって月日のあるのがヤット取り揃えて配列されたと云うのですから、一読して見て直ぐに要領を得るわけには行きません。まして精神異常の人が書いたものでありますから大変読み難いものですが、とにかく年代の古さから云っても記述の豊富さから云っても、そしてまた無茶苦茶な精神異常者というのでは無くて、世を去るまで真(まこと)に落ち着いて居て、一種の修道者の態度を具えて居て、またその記したところも、その信奉する道に関するものだけである点から云っても、稀有の材料であります。ましてそれを熟読しますと、晋から大いに起こって来たところの楊氏や許氏や魏氏の一ト流れの思想と密接な関係をもって居まして、決して偶発的や孤立的に生じたことでは無いことが明らかなのですから。また一面には当時の一部男女の間に存在した思想や感情を窺い知る好材料でありますから、稀有な古い記録が幸いに残っているという好奇心的鑑賞からだけでなく、一応は読んで見て善いものであります。
 子良の師は誰かと云うと名高い陶宏景(とうこうけい)であります。この陶宏景という人はまさに精神状態が凡人と違っている。しかし異常者と云うよりも超常者と云うような人で、一種違った人であります。文才が優れている、筆蹟が見事である、琴も出来れば碁も強い、弓も引ければ馬にも乗れる。孔孟の学、老荘の道、仏陀の教え、分からない事の無い人で、当時の仏者が褒めているほど気品の高い行儀のよい人でした。それだけでなく、五行風角の道、太一遁甲の術、数学や天文学にも長じて、渾天儀(こんてんぎ)を造ったこともあれば、谷川の水力によって永久運転の時計を造ろうしたが、水垢の付着が不正確をもたらすと云ってやめた話も残っています。歴史にも地理学にも詳しければ、医学や本草学にも精しく、後の人に名医として覚えている者もある位です。その著述目録を見ると中々多方面に渉っています。エンサイクロペディアというようなものは、支那では唐の「芸文類聚」や宋の「太平御覧」等と段々とありますが、この陶宏景は一ツの事を調べるのに群籍(ぐんせき・多くの書籍)を捜索する愚を悦ばず、「学苑」というものを編集して、百五十の部門に分けて群籍を整頓し、自分が多忙で暇が無くなると甥の翊(よく)という者に、「お前が継いで之を成せ」、と云いつけたそうであります。一体に人も違った人ですが学も違った学です。晋の郭璞(かくぼく)やこの陶宏景などは、普通の儒者とは違って、さぞかし現在には伝わっていないような種々の書を読んでいる大博学の人ですから、「学苑」が存在して居たら面白いでしょうが今は無いようです。
 サテこの人はこれだけの能力者で品行の良い人であっただけでなく、中年に官職を辞してからは山中に居りまして、松風の音を聴くのが大好きだというので松林の間に居ました。妻は無いし、俗人に接するのも面倒くさいというので、三階の上にばかり居ったといいます。それでも学あり才ありですから、梁の武帝にシバシバ事を問われましたので、山中宰相の号を得た位です。八十五まで生きて終わりましたが、もとより正史にもその伝が載っている人で、今私がお話したのは、謝瀹(しゃよう)の伝や甥の翊の作った伝や、唐の李渤(りぼつ)の撰(えら)んだ伝によったのであります。陶氏はこういう人でして、そして幼時に「神仙伝」を読んでから世間の欲が薄くなり、八十五で終ったのですが、思うに妻帯もしないで一生を過ごしたようで、その性質はといえば、戯謔を為すことが無かったと云うので厳格な事は推測できますが、しかし和平な、陰徳と施し事が好きな、勉強家で、立派な一個の士人で、夜行夜宿も畏れるところ無く、一生魔を識らずと云われた人です。身長は七尺二寸なのに腰回りは二尺六寸だったと云われるヒョロリと痩せた人で、理智が甚だ確かだと見えて、自ら「心中明鏡の如く、形に触れ者に遇うも滞礙(たいげ)あるを覚えず」と云っていたという事です。
 この人が茅山に居たのは、云うまでも無く一ツの信仰に本づいていたのです。それらは無論孔孟の教えではありません。孔孟に反対するのでは決して無く、やはり孔孟を尊崇していることは、「孝経」や「論語」や「書経」や「礼」などに就いて著述しているのでも明らかですが、孔孟一点張りならば山居などはしないで世に立って、済世安民の事を念とする筈です。仏教者でもありません。「老子」の註なども撰んでいますが、単に老子崇拝者でもありません。何であるかと云うと仙道(仙人の道)が好きなので茅山に居ったのです。こういうと不審に思う方もあって、老子の道は則ち仙道では無いかと云われるかも知れません。なるほど老子は神仙家の張本人のようでありまして、唐宋以後は明らかに老子は仙道の祖師と認められております。しかし「老子道徳経」の何処に金丹の道が説かれていますか。神仙道の中に老子は包容されていますが、老子の中に神仙道は包容され尽くされていません。老子の神仙道における地位は、パウロやヨハネのユダヤ教におけるようなものであります。私がこう云うのを変なことを云うと思う方も有りましょうが、神仙道の方の大立者で、陶宏景より前の晋の葛稚川(かつちせん)という人の著述などを御読みになった方は、稚川が老子をどういう風に扱っていたかという事が御分かりになると思います。この稚川の著述の註を宏景は二十巻著わしているのですが、今は伝わって居りません。で、陶氏は老荘家ではありません。神仙家の一人で、漢以前はしばらく措きまして、漢・三国・晋と段々と発達してきた神仙道、・・・丁度インドから伝来した仏教の勢いに雁行して支那の中に起った神仙道の一支持者でありました。梁の武帝なども、初めはこの神仙道の帰依者でしたが、後に仏教好きになって、それから後に失敗を招いたのです。「言わず朝陽殿、化して作る単于の宮」と陶氏の詩に予言をやられて、侯景の乱になやんだのは、名高い話です。
 宏景という人はザッとこのような人でして、この宏景と神仙道との関係は、無論弟子の子良に大いに関係しています。と云うよりもむしろ絶対的な影響を与えて居ます。子良の異常状態はそれに起因すると云ってもよいのであります。そこで子良の事を精しくお話ししようとするとなれば、宏景や宏景以前の神仙道の人々の事を語って、神仙道が漢や晋から段々と燃え立って来た有様をお話しなければならないのでありますが、今はそこまでお話しする時間もありませんから、ただ宏景はどういう人であったかをお話しするだけで止めておきます。
 周子良という人はどういう人かと云いますと、予州の汝南県の都郷吉遷里の人で、丹陽の建康の西郷清化里に住んでいた者です。家柄も宜しく、いわゆる名族でありますが、父の耀宗という人は三十四才で天監二年に亡くなりました。母は永嘉の徐浄光という人で、建武四年正月に子良は生まれました。即ち子良は七才の時に父を失ったのです。叔母の宝光の手で養われて、十才の時にその叔母と共に永嘉に還りました。宏景の弟子になったのは、宏景が天監七年に永嘉に旅行しまして、永嘉の令の陸襄の案内で天師の治堂で憩いました。天師治堂というのは精しく分かりませんが、神仙道には天師というものがあります。漢の頃から起こりまして、仏教で云う法王とかにあたります。張というのが天師で、漢からズット唐・宋・元・明を経て、清朝まで伝わっております。その天師治堂というものは、さぞかし処々の名山に在ったものと思われます。その天師治堂に宏景が滞在した時に、子良はその前からそこに居りましたので、そこで子良は宏景に会いました。子良は至っておとなしい、折り目正しい、家人が悪い顔つきをしたところを見たことが無いというような少年で、時に年は十二でした。そこで子良の願いによって宏景はこれを弟子にしました。子良は香を焚いたり灯をかかげたり、いわば仏家の沙弥のようなものになって恭しく勤めました。天監十二年になりまして子良の親族等も宏景の居る茅山に移りましたので、西阿の別廨、即ち別に一軒の家をあてがわれて、そこに一族と共に居りました。
 サテお話はこれからです。そうこうしている中に天監十四年、子良は十九才となりました。その年の五月二十三日が記録の始まりで、異常状態の始まりであります。自分の住居に居て正午少し前に睡眠をしました。眼が一度覚めましたが、なお善生という者に簾を下ろさせてまた眠りました。この善生という者は従弟ですが、永嘉に居た時に病気で死にかかったのを宏景に救われた者で、これもやがては道士になるために一家から宏景に託されていたものです。子良は再び眠りかけましたが、眠りが未だ熟さないうちに、朱衣を着けた四十ばかりの立派な人が、従者十二人を従えて来たのを見ました。その人の容貌衣服から、冠や舃(くつ)の事、従者の髪のさま、衣のさま、持ち物のそれぞれまで、精細に記してあります。入って来た人は、この山すなわち茅山の丞であると云うのです。茅山は神仙の多く居るところとされているので、その人が自ら丞と言ったのは、無論この世間の丞では無くて、茅山仙府の丞なのであります。それでその丞が云うには、「お前の愆(あやまち)無きを褒めに来た、」という訳です。ところが、子良が起って衫(さん・衣)を整えて未だ答えないうちに風が起って、従者が簷(ひさし)に寄せかけて置いた奇麗な繖(さん)・・繖というのは柄の大いに長いコウモリ傘のようなものです。その繖が倒れそうになりました。左右の人がその傍に行った時に、赤豆(せきとう)と云う子供が夏なので裸で庭で遊んで居ましたが、その繖の傍に近寄って来ましたので、左右の人が手でこれを制しました。この赤豆は兪僧夏という人の子で、災難除けの為に暫くこの山に来て居た者で、五才なのですからこれは実在の人なのです。それからまた郎善という者が来かかって左右の人に触れたところ、忽ち地に倒れようとしました。左右の人は手で以て之に接しました。郎善という者は十六七の少年で、これも宏景に従っている徐という姓の実在の人です。自分と化現の人だけで無く実在の人々が奇異な境界中に入って来るのは面白いと思います。
 それから府丞は子良に、その父の墓の事や、父が明年の春に王という姓の家に生まれることを語りまして、それは前の過ちが未だ尽きない故の為に再び世に出るのであるという事を告げて、「お前は前世に福があるので正法に値するので、今生もまた良き心を失わないが、お前の命数を調べると猶四十六年を余(あま)している。生きて人となっていれば世に依々とし、死して神となれば幽冥に在る、実に是を比べれば幽冥の方が勝っている。そこで今、府中では一名の欠員があるから、お前をその補充にしようと思う。もうこれは殆んど定まっているから他言するな、来年十月に召しに来るから予めその準備をするが善い、若しこの命に従わなければ三官の符がやって来るぞ」と言ったのです。この三官というのは、天官・地官・水官でして、三官は宇宙を分掌している神仙道の神であります。そこで子良は懼れましたが、府丞は「世に住んで罪を種(う)えるよりは、洞中の職に着いて天真に対して、聖府に遊行した方が善い」と諭して、それから修道者の心得などを説いて、「吾が言を世の中の人に知らす勿かれ、山中の同気の者が之を知るのは構わない。」と言って戸を出ようとしましたが、丁度門の所に令春・・これは叔母の下女で、それから劉白、これ等も実在の人です。それ等の人が居たのを見て、「つまらない者を仙壇に近づけてはならない」と言いまして、無知の輩(やから)が神聖を汚すと家主が罪を得ることを云いました。壇と云うのは実際に存在していたのです。家主と云うのは即ち子良の叔母です。そこで因みに叔母の持病の事などを語りまして、令春等が去った後に堦を下って消え去りました。
 これが最初の記事の概略ですが、この子良に現れたのは趙威伯という者であります。子良の叔母は子良を質(ただ)しました。子良はあらましを告げました。叔母は四十七才でありましたが、これは祅神(ようしん・災いの神)の為すところと思ったらしいのであります。祅教の事は、別に詳しくお話しなければお解り頂き難いのですが、一種の宗教で、周家はもと之を奉じていたのです。帛家道というのがこれで仏教でも仙道でもありません。子良の祖母の杜氏がこれを奉じていたのです。そこで叔母は、俗神に誑(たぶら)かされたのであろうと懼れ戒めました。子良も来年十月は、その道から云えば結構な事にせよこの世から外へ出されようとするというのですから疑念も無い訳にはいきますまい。幾らか心配な点があったに相違ありません。そうするとその夜の真夜中の事です。これからは記事の第二項に移るのですが、戸を叩いて、「范帥(はんすい)が来給うた。」と云うかと思えば、もう形貌端厳で大冠を著け緋服を被た堂々とした人で、黒色の衣を着けた三人の従者を随えた者が入って来ました。そして、「子良が一旦は丞の言葉に応じながら後に祅俗と疑ったりしたので、その日その日の事を知る日司によって丞に知られて、丞は大いに悦ばず、無信の罪に問うことになったが、どうだ、迷わずに従うが善かろうでは無いか、丞は呉越の地界を総領する大任を帯びている者である。それが自ら来て宣諭されたのであるから」と告げました。そこで子良はただハイハイと云うだけでしたが、それでも「数年延ばすことはできますか」と問いましたところ、范は、「声を低くせよ傍の人に聞こえる、」と云いました。これは別床に眠っているものが有ったからです。そして子良がこの世を去った後の身体の安置所、即ち葬地やそれから棺の事や身に随うべき符や道の履歴などの事を教えました。別床に眠っていた弟の子平という者が覚めた時に范は消え去りました。范帥というのは、保命・・保命というのは、霊界における命を管理している者で、その保命の四鬼帥の主な者で、范彊五という者です。
 それから二十七日になって、年二十ばかりの愛すべき容貌をした人があらわれました。それは洪子涓という人で、北斗七星以外の二星の事を語りました。この人は先ず友達付き合いの格の人でしたが、この人もまた范と同様に身に光があって、夜の暗さにも衣服容貌まで明らかに知れるのでありました。
 六月一日の夜には、前の丞が華陽の童鳳・霊芝という二仙童と、七人の白衣の従者等を連れて趙丞がまた現れました。そして景玉童は、華陽真君の教えを伝えたりなどしました。子良はこれを記しましたが、その言詞は立派なものであります。
 六月四日の夜には、華陽童だけが現われまして、人に罵詈された時はどうすべきかなどという事を授けました。それは、「耳に聞いても心に受けるな、罵詈に対して返答するな、畜生禽獣などと罵られたなら、大穢れを受けるから沐浴して穢れを除くが善い、むかし劉文長という者が李少連を師としたが、少連は酷い者で、文長を打罵した、文長はこれに対(こた)えたために山神の罰するところとなって、病を得て今は保命の丞の散使となっている。忠朴の心が有った為に悪くはならないが余り感心出来ないことだ。少連は今は河間に在って・・河間とは地獄のようなもので、そこで辛苦している」というのである。これには師の宏景が面白いことを記しています。それはその前年に、子良の叔母が符を書かせたところ子良が心を込めて書かなかった、それで叔母にひどく罵られた、犬を譬えにして罵られたことがある。叔母は常に厳しく子良に対した。それは子良のためを思ってであるが、犬を譬えにした時は子良も気色が極めて好く無かったということである。子良と師長との間は未だ嘗て加えるに言色を以ってしたことは無かった、とある。文長と少連の事は実際の事かどうか知らないが、子良にかかることがあったので、このような教えが有ったのであろう。この教えのあった頃から、子良は罵られる事があっても逆らわずにニコヤカにしていて、そしていつも沐浴を取るので、山中の大小の人々が奇怪に思った、とある。私は今ここに意見を出しませんが面白い事であると思います。
 それから一々本文をお話しする訳にはいきませんが、記録の中に女子が現れるのは、六月十一日の夜に李飛華という二十三四の美女が出て、十九日に易遷中の四女人と訪問すると言いました。そして十九日には、果たして趙夫人、王夫人、劉夫人、陶夫人と李飛華とが現われまして、八人の侍女は各々種々のものを持っています。そして劉夫人は子良の前身を説示し、他の諸仙女は人間の楽しむに足らないことや、仙界の楽しいこと、修道の心得などを説示します。その言詞はかなり麗しく立派であります。
 詩賦の類は、六月十二日に馮真人や張仙卿・洪先生・華陽童などが現れまして、各々詩を賦しましたのが記されてあります。詩は何れも一種の風骨がありまして、いかにも仙人然とした、また勧戒の意を含んだものでして、これは陶弘景の整理した他の仙書の中にある詩と、調子が似ているようです。
一体がこういう調子でありますが、この記録中に出て来る霊界の人々は多くは子良より以前の楊義や許真人に現れた人々と共通しております。
それで子良はどうしたかと云いますと、徐々に準備をしまして、天監十五年の十月二十七日に、誰も何だかよく知らない薬酒を自ら飲んで、自ら焚いた香煙のなお息(や)まない中に二十歳を一期として終わったのであります。机の上には四箱の告別の書がありました。この身体をソッとそのままに置いて去るのを尸解(しかい)といいます。尸解にはまたいろいろありまして、たとえば剣を用いて斬られたり斬ったりして死すことを剣解というように、種々の尸解のすがたがありますが、子良はまさに薬酒を仰いだのであります。何にせよ普通に云えば自殺で、喜んで死んだには疑いありませんが自殺の形式を取っておわったのであります。
 このように古い、このように詳しい精神異常の記録は稀有でありますからお話をしましたが、この記録の批評穿鑿を下そうとするには、支那に起った一宗教の仙道というものに関係しまして、かなり小さくない問題になりますので、今は乏しい材料によって妄りな憶測や断定を下すことは避けて置きます。云わば「冥通記」四巻の解題のようなことに止まりましたが、これで話を一トまず結びます。
(大正八年二月)

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