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幸田露伴の随筆「雲の影」

雲の影

 誰でも一度遭遇した事の有る人は良く知っている事である。小高い山から広い野を見て居たり、又は小高い断崖の上から海面を見て居たりすると、よくはっきりと分かるが、大きな雲の影が、丁度青い空をその雲が行くのと同じように、その野の中や海の面を這い歩いて行くことがある。天気がそれ程までに悪くない時でもそういう時は日が当たったり陰ったりするので、余り多くは使われない言葉ではあるが、俗にその事を「日がえりがする」という。
 その日がえりがするのは、何でも無い、ただ雲の影が為せるわざに過ぎないのであるから、大きな雲にしろ細長い雲にしろ、その雲さえ過ぎて仕舞えば日は相変わらず照るのである。イヤ、此処は雲の影の中に入って居て陰っていても一寸でもその雲の影を外れて居るところでは、鮮やかに日が当たって居るのである。だからその暗い影の中に入って居るところは、野や海の全体から云えば真(ほん)の一小部分に過ぎないのである。しかし遮る物の無い野や海を見ている場合ではなくて、家ごみの街中・・・空が窓から四角に見えたり、道路の上に細長く見えたりするようなところに居ると、日がえりして自分が居るところが曇った時には、それを一小部分と考えることは出来難いもので、全体が曇って来たのだと信じて仕舞う。隣家の人も向かいの家の人も同じ陰に入って仕舞うので、皆一緒にその雲が与える同じ感じに支配されて仕舞って、甲・乙・丙・丁、六兵衛も七兵衛も同じ薄暗い暗さを味あうのである。それなので、三十分か四十分の後にはどういう様になるかという事などはまるで想像しないで、ただ目前頭上だけの暗さを全体の天気がこうであるかのように思って仕舞い勝ちなものである。こういう影の、一部分では間違いないが全体としては間違っていることを、古くから「同分妄見」と云っている。
 「丙午の年は災危が多い」という迷信が支那(昔の中国)や日本にはある。この迷信は一ツの暗雲である。遠方からこの迷信の雲が歩いて行くところを見て、そしてその雲の当たって居る所の人民が、その雲の与える薄暗さを味わって、種々のことを思ったり為たりして居るところを見れば、実に滑稽に見えるだろう。しかし甲・乙・丙・丁または六兵衛・七兵衛は、誰もがその雲の影を被らずには居ない。支那・日本では智者も愚者もことごとく、多少の危惧の念を抱いていない者は無い。それで、相応に知識の有る者でも、またこのような俗説に動かされない者でも「丙午の年に女の子が生まれては」などと思ったことは、日本の昨年の事実ではないか。ところが、この迷信の雲の下に当たって居ない西洋諸国の人民は、火山噴火や大地の激震などという恐怖すべき事件が実際に起こったにもかかわらず、ビクビクして丙午の年を恐れている日本人のような無益な心配をしてはいなかったようである。理屈を云えば丙午の年はどこの国でも丙午の年であろう。恐れることが当然ならどこの国でも恐れるべきであって、恐れないのが当然ならどこの国でも恐れない訳であるから、どちらかが間違っていなければならないので、勿論それは世界の中に僅か二か国ばかりの人民の感じが間違いで、その他の諸国の人民が丙午など恐れないのは間違いでない事は明らかである。けれども日本だけで多数決を取れば丙午恐るべしという考えのほうが正しいとされるかもしれない。同分妄見は正見に似ていて侮ることの出来ない威力あるものである。しかし、妄見はどこまでも妄見である。
 宗教の歴史を見ても、政治の歴史を見ても、経済の歴史を見ても、何の歴史を見ても、同分の妄見が正見らしく威張っている事が稀では無い。狐が尊ばれている地方がある、犬神が恐れられている地方がある、偶像が信じられていた時代がある、経典は批評すべきものでないとされていた時代がある。何れも皆その時代はその場において事実らしく道理らしく一般の人から認められていた同分の妄見である。政治上にも経済上にも種々の同様の跡は認められる。文学上にもやはり同一の事実が有るようである。イヤ確かにそういう事実があった事がある。時代が違ったり場所が違ったりする所の者から見れば、苦笑するにも価しない下らない事でも、その時代の者その境界の者においては、泣いたり笑ったりして大騒ぎをやっていた事がある。即ちいわゆる「時代の塵埃(ほこり)」を挙げて騒いでいた事実がある。例えば和歌で云えば、定家以後徳川時代に至っても猶その力を残していた、永い間の、形式だけが有って精神の無い「形式主義」の行われたいた間のような、俳諧で云えば「談林風」の行われた一時などがそれある。足利時代の和歌を違う時代の今から見れば、何が面白くて彼(あ)のようなものを作っていたのだろうとは、誰の胸にも浮かばずにはいないけれども、その時代はその時代でいろいろと骨も折ったり賞賛もしたりして互に励み合い面白がっていたのであろう。立派にその時代の人同士では頷き合っていたのであろう。しかし時代が離れて隔たって見ると、我々はその時代を蔽っていた雲の下には居ないから、一向にその雲の薄暗い影が与えるところのものを味わうことはない。従って感心もしないし、頷きもしない。そして直ちにその時代の人が形式主義の「同分妄見」に陥っていたのを批判して、「嗚呼、あの時代だって才能のある人が有ったであろうが、惜しい事に時代を蔽っていた偏狭な形式主義の氷の為に真の若草は萌えずに終わったか」と思わずにはいられない。それと丁度反対にこれは非形式的でこそあれ、蕉風が未だ起こらなくて貞門の威力は既に地に墜ちていた時代に、野火が枯草を焼くような勢いで行われた談林風の俳諧なども、やはり歳月の隔たった今日から見れば実にヘンテコなもので、真面目には何とも評すことも出来ない位である。しかし当時の人は皆同じ「通り雲」の下に居て、皆同じその影を浴びていたので、その連中では自ら面白がって興じただけで無く、各自で惨憺と苦心したり、互に賞讃し合ったりして居たのである。漢詩も明の末に「険仄自ら奇なり」としていた頃などは、どうも確かにヘンテコな雲の影が一時を蔽って居たのであろう。
 和歌・漢詩はしばらく措いて、手近な例を俳句に取って試みに説明してみよう。芭蕉以前、イヤ芭蕉がまだ正見の眼を見開かなかった前の頃の状態というものは、この当時の暗雲の下に居た人同士に言わせたら理屈も有ったであろうが、時代が隔たって居る今日の我々から見れば、実に変なものであった。たとえば、

  千代を経る天のてんつる霰酒
  霰やは芥子は牛蒡は埋れ木の
  麩というものあり性水を好んで氷に遊ぶ
  山吹の露菜の花の喞ち顔なるや
  氷筋の如しかんてんのかんは寒いとよむ

というような句は、今の者が突然これに臨めば句としては受け取れない程度のものである。その意味が第一に何であるか不明である。その趣味がまた何処にあるのだか不可解である。その技巧がまた何処にあるのか合点が行かない。つまり食べ物でないものを口に入れても、どう味わって何と云って評価したらよいか分からないのと同じで、ただアッと云わせられたに過ぎないような感じがするであろう。しかし、その当時の人、即ちそのような句を作った人や、そのような句を成程これは面白い可笑しいなどと受け取った人にして見れば、まるっきり意味も分からない、趣味も感じられない、技巧も認められないというのではなくて、必ず欺かない感じや、少なからぬ興趣があって、そして作る人は作り、聞く人は聞いて居たに違いない。即ちそれが同水異観の道理で、今日の我々には寝言のように聞えるにもかかわらず、当時の人にはまさか寝言には聞えなかったのであろう。イヤ寝言に聞こえなかったどころでは無い、苦心して額に青筋を張らせたり、眉頭に八の字を刻んだりして、そして、寒天の寒は寒いと読む、アア面白く出来た、などと悦んで居たのであろう。でも、これが一人か二人でこのような句を唸って居たのならば、如何に昔とはいえ狂人扱いにされるであろうが、そこが彼の「通り雲」の影を浴びた一同は同じ感じを持つ道理で、時代の風潮でそんな事が流行れば、誰も彼もがやはり、天のてんつると云った風な事を悦んで真似ても、狂人のように思われず却って面白がられて居たに違いない。向栄庵(西山宗因の庵)から談林の風が吹き出してから幾年という間というものは、古臭い貞門の流れを汲んで死水に漱ぐような愚を守っていた一部の人を除いては、皆滔々(とうとう)としてこのような変な句を作って居たので、そして互いに「俳句は正にこのように作るべし」位に思って居たらしい。それが一時の妄見であったか永久の正見であったかは措いて、兎に角世を蔽って居た流行だった事は争えない事実で、宗因門下の松意や高政や西鶴や常矩などは申すに及ばず、芭蕉であれ白石であれ素堂であれ杉風であれ、皆一時は同じ通り雲の下に立ったので、一緒になって変な真似をしていた。その中で頑固に抵抗したのはカビ臭い保守党の随流ぐらいの者で、これまた古臭い形式主義の見識より他に何も無い化石的頭脳の者であるから論にも及ばないのであった。そこで、談林風は天下を席巻して、その奇異放縦によって貞徳以来の釜の底にこびり付いて居た残滓を傾け覆して捨てて仕舞った功績は有ったが、兎にも角にも一時の作者や世俗にヘンテコな真似をさせて、そして後世の者に「何でこんな寝言のようなものが数年の間行われたのであろう」と訝り疑わせるような跡を残した。
 しかし、談林風だからと云って全然意味も趣味も分からない句ばかり作ったのではない。才能は才能、傾向は傾向であるから、そんな変な傾向の中でも、才人の句はやはり面白い響きや香りをさせて残って居るのである。ただしそれも唯一人宗因ぐらいの事で、その他は松意にしても西鶴にしても当時・・即ちその通り雲の影が世の中を蔽って居た時ほどには、他の時代・・即ちその雲の影が無くなった時代には尊重渇仰されない。イヤ尊重渇仰されないどころでは無い、却って詰らない事でもしていたかのように酷評される傾向にある。まして名も無い末派の作に至っては、今ここに挙げるやいなや哄笑悪罵の中に葬り去られてもやむを得ない運命である。談林風の起こったのは、余りに貞門の俳諧が千篇一律で、ただ腐気有って活気無く、面白くも無いところから、それと離れようという希望の火が吹き出したのだと云ってもよいと思われる。そこで、貞門はおとなしい、談林は荒れる、貞門は句の姿を優しく調える、談林は異様に気取って作る、貞門は和歌にもとづきたがる。談林は漢詩を踏まえたがる、貞門は古く上品ぶる、談林は新しみを尚んで下卑ても嫌らわない、貞門はやや道学的で人倫を重んじる敦厚主義、談林は写実的で斟酌のない芸術主義、という調子で万事が反対を行っている。だから上手な人の句はよいが、下手な人の句になると、当時は容易に分かったであろうが、今では余程考えないと分からないような悪い気取り方をしたものが多い。無理やりに何でも彼でもと、形式及び思想の上に新しみを出したがった弊害として、形の上からは謎のようになったり、片言のようになったり、散文的になったり、想の上からは非詩的になったりするような傾向を生じるに至ったので、それらが後の俳人の軽蔑嘲笑の原因となった事は明白である。けれどもこの談林の大胆な破壊が、後の蕉風俳諧の播種発芽の為の鋤鍬(すきくわ)となった事もまた明白な事実である。即ち宗因以下の談林の徒は貞徳以来の俳諧の破壊作用を為し遂げたので、その破壊が有ったればこそ、芭蕉が徳川時代を飾る俳句の一道を成し得たのである。「宗因出でずんば、我々は猶古(いにしえ)のままであったろう」と、芭蕉が言ったのは実に公正な論である。
 談林調の行われたのはそんな状況での一時の現象で、ほんの暫くの雲影が地を蔽ったに過ぎなかったのである。それなので、同じ談林畑の中でも眼の明いたものは、これは一時の流行であろうか長引くものであろうか位は、やがて明らかに分かったものと見える。狐にたぶらかされたような事をそうそう何時までも言って居て面白い理屈の無いのは、考えて見れば誰にも分かることで、数年の後にはどうも談林派の人達自身がやがて振るわなくなったようである。西鶴は好色本の方に力を入れ出して、そしてそのために西鶴の名を伝えたが、もし西鶴が俳諧だけを守って居たならば、さぞかし松意や常矩とそう違わない位置を俳諧史上に得るに止まったことであろう。さてまた芭蕉は一度は自分も談林調を試みて、やはり雲の下に居たが、忽ちにして談林の異調のヘンテコなものが一時の流行で、通り雲の瞬時の陰影に過ぎないことを悟って、そして貞門の古調でなく談林の異調でもない、人為では無く自然に基づく詩歌の真の源泉を得て、終(つい)に蕉風の俳諧を起こし、宗鑑・守武以来諧謔の言葉であった俳諧というものを、詩歌の中に並べても恥かしくない一体の短詩として、徳川時代の文学史上に建立する大功を成したのである。奇巧を形態に求めて、苦しんで異様難解なものを作っていた談林派の行為が誤謬であり徒労であることを悟って、敢えて俗談平話を嫌わずに詩美を求めることに向って、貞門の陋(形式主義)、談林の痴(バカバカしさ)を一時に捨て去ったところは実に芭蕉である。芭蕉門の門人もまたその年齢が芭蕉と余り違わない者は、何れも大抵一度は談林調を試みた者であるが、芭蕉の行為に倣って談林の悪気を取り捨て、すらりとした蟠り気の無い句の姿を取って、ひたすら真の詩美を句中に取り入れようと心掛けたことは、実に敬服に余り有る事で、それ等の諸氏が不朽の名を成したところでもある。そうでなければ、談林の末輩同様にやはり「時代の塵埃」として、後世からは鼻の先であしらわれるに過ぎなかったであろう。
 こう云えば談林連中は皆下らない事ばかりを敢てして居たようであるが、どうしてどうして中々そうでは無い。皆一生懸命に真面目に励んで居たもので、ただ惜しい事に眼が低く才能が不足であった為に、ヘンテコなところへ首を突っ込んで無駄なあがきをしたに過ぎないのだから、嘲笑すべきでは無い。むしろ同情すべきものなのである。松意が「幕づくし」に、「かなはぬ力をはげみ、岩を起こし枯木をたたき」といっているのは実に本音で、嘘でも何でもないであろう。そうしてまた松意あたりになると、流石に末輩のようにただ無暗に珍奇な事を云い散らしていれば良いとは考えてはいないので、その十百韵の序に、「およそ市中に多年よしと思える古くさきものと今また新しすぎて一句の立たない二つの悪を見れば水火の二河たり、中に四寸の白道あり。この白道のあかりをはしろうとするところ談林の法なり」と云っているのは、明らかにその狙うところが必ずしも不当なものでない事を表している。またその跋に、「新し過ぎたるはその過ぎたる所を削り捨てれば可なり、古朽ちて苔の蒸したるは削るに便(たより)なし」と云ったり、また「およそ世上の俳諧を悪くするは古巧者のわざなり」と霜刀一揮の勇を奮ったりしているところは、皆云い得て過たずである。その狙ったところが必ずしも悪くないどころでは無い、いかにも正鵠を得ていて、そして凛然と意気の張った様子は可愛らしいくらいである。しかし鉄砲の狙いが良くついていても、間違いなく鳥が獲れるものでは無い。要は引き金の引き具合にあるので、談林一派の者達は宗因一人を除いてはどうも余り立派な鳥を数多くは獲らずに終わった。それなので、後世からは、「何を当てずっぽうに無駄弾を放っていたのだろう、ドッチを向いてどんな鳥を撃とうと思って、あんなヘンテコな眼つきをしたり手つきをしたりしていたのだろう」と云われるような訳に立ち至ったので、実際は憐れむべき悼むべきなのである。
 良い方の方面で云えばリバイバル、悪い方の方面で云えば魔が差すというような事で、「鴨の共立ち」同様に、人間の心理作用にも妙に「連れる」という事がある。酒客連中の大一座に、一人がフト狐に憑かれた真似をして戯れると、他の者もまた洒落て狐に憑かれた真似をする。末には誰も彼もが狐に憑かれた真似をして、競って馬鹿な事を仕合って互いに面白がって笑い興じている。するとその仲間では、甲がお盆を冠ったり、乙が床の間に上がって地蔵の真似をしたり、丙が魚を供えて拝んだり、丁が肌脱ぎになって泳ぐ真似をして隣りの人に縋り付いたり、戊が立ち膝をして馬に跨っている真似をしたりしているそれ等の意味が全て分かって打ち興じて居る、そこへ遅れ馳せに一人が参会して、この有り様に合点がいかず呆れ果てて「これは何だ」と詰って云うと、多勢が大いに怒って、こんな分からない奴は無いと云って袋叩きにしたと云う喩えがある。時代の雲の影、即ち同因同縁同境の者の同じ妄見を有している同志では、人が分かる筈もない事もよく分かって、そしてその面白味もよく分かるのは、例えばその喩え話の酒客同士のようなものである。そこで、談林仲間では、「椎と書かれたり代々柑子しだゆづり葉」「玉子の国すかすに清し日の始」「大根生れ逆なるがをかしいとや」「夜竊(ひそか)に虫は月下の栗を穿つ」「世にあえり潮干のけふの土竜(もぐらもち)」「轆轤首(ろくろくび)幕に影なし花に咲く」などという、分るような分からないような、無理な、非常識な、木くらげや霊芝(れいし)を天婦羅にしたり、焼け木杭(ぼっくい)の豆粉を掛けて出したというような、味わうことも飲み込むことも出か兼ねるものを、互に面白がって作り合い受け取り合って居たものと見える。その雲が過ぎ、その時代が過ぎた後から云えば、実に妙なものではあるが、全てはその時々のものなので、不思議でも何でも無い。
 松意が「新し過ぎて一句の立たざる」と云っているのは実に問わず語りの真実で、鬼貫が独り言に、「聞えぬという句に幽玄と不首尾の差別あり、まことを弁えない人の、様々に句を作りて、これにてもまだ聞こえ兼ねて面白からじ、とひたぬきに詞をぬきて、後には何の事とも聞えぬ句に成り侍(はべ)れど、作者は初一念の趣向を心に忘れ侍らねば我のみ独り聞こえるに任せて云い広めるも片腹痛し」と云っているのも、よくその先人の失敗を見て道破しているのである。詞を抜くだけでは無い、「ただでは面白く無いと捻る」ところからも訳が分からなくなるので、作者一人は種を知っている、他人は知らない。そこで「一人者のごっくり飲み」という格で、なるほど自分には酒の味も分かろうが、その話をされた人には分からない訳になるのである。
 長雨がようやく晴れようとする時や、暗天が次第に雨になろうとする時には、得てして「日がえり」のするものである。時代の長流が次第に変わる時にはともすれば、後世から見ては解釈の出来ないような変なものが行われる事がある。詩でも歌でも他の美術でもそうである。しかし雲はやがて去るものである。片雲の与える影の下が世界の全体では無い。雲来って万山動き、雲去って山一色である。
(明治四十年四月)

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