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幸田露伴の史伝「頼朝②鬼武者」

  鬼武者

 頼朝時代の賢人が仁は愛の理なり心の徳なりと説いたが、この愛の理や心の徳よりも貴いものが人の世にあるだろうか。春の日の光のような和(やわら)かみと暖かみ、それが即ち仁愛の姿であって、それに照らされそれに焙られれば、千草万木は皆悦びの芽を張り笑いの花を捧げて、そして各自各々の持っている美しさと勢いを現して、各々の作用(はたらき)と生長とを充分に遂げるものである。人の仁愛の下では悍馬も駿馬となり、悪犬も良犬となり、牡丹は一尺の玉を展(の)べ、松は巨大な天蓋(てんがさ)を張るのである。これに引き換えて仁愛の光の疎い中で育てば、駿馬も人食い馬となり、良犬も狂犬となり、牡丹は悴(かじ)けた花しか咲かず、松は半枯れの醜い姿を現わすようになる。この道理で人の仁愛は一切のものを善くし、仁愛の無い人は一切のものを悪くする。まして牙や角や毛皮などの頼もしいものも無く、爪や蹄や嘴や筋骨などの強いものも無くて、そして鳥や獣と違って物思いをする弱々しい人間と云うものは、他人の眼遣い一ツにも悦んだり恨んだりするものであるから、仁愛を受けて育つのと仁愛無く育てられるのとでは大きな差が生じる。真の父や母に幼い時から離れて無慈悲の人の下で人となった者は、どうしても優しみや和(やわら)かみや伸び伸びしたところが足りない。丁度土や水の少ない岩山の北陰に育った樹が、幹も固く枝振りも面白く、抜群に趣きある姿を見せて居てもスラリとした安らかなところが無いようなもので、親の仁愛を受け足りなく育った人は、却ってその為に千万人をも抜くような優れた人に成ることも有るが、どうもムックリした温和な丸みが無い、酷い、どぎつい、いがらっぽい、恐ろしい、人を殺して眼を剝くような人になるのが多い。それで、抜群の趣きある姿を見せる樹に、水や土や日の光の足らない岩山に苦しんで育ったものが多いように、昔から偉い人には人の仁愛を受け足りないで育った人が中々多い。また人の仁愛の足りない岩山の北陰のようなところで育った人には、柔らかみの無い酷い人が有り勝ちである。頼朝は弟の義経を殺した。義経は後にこそ頼朝追討の宣旨を強いて頂いたりしたが、何も最初から兄に敵対する気持ちは無かったらしいのである。頼朝はまた弟の範頼を殺した。範頼は義経に比べ才は鈍かったようであるが、性質は優しかったようで、文治二年に頼朝に疑われた時には、百日に百枚の起請文を書いて、「決して兄上に対して勿体ない儀など存じ申すまい」と、梵天や帝釈天や諸神諸仏に掛けて誓ったくらいの人である。その疑われた理由も範頼の優しい人柄を示す。と云うのは、義経が頼朝の方から討っ手として来た土佐坊昌俊を切って仕舞って、いよいよ敵対する気色を現した時に、頼朝が範頼に対して、「お前が討っ手の大将となって都に上って義経を討って来い」と命じたのを、「お言葉を返すのは恐れ入りますが、同じ兄弟の中でも九郎義経とは、木曽の征伐、平家の追討、西国の諸々の合戦で、心を合わせ助け合い、力になりつなられつ仲良くした上に、特に智謀勇略に立ち優る彼が居たればこそ何事も首尾よく仕遂げることが出来ましたものを、その義経を我が手に掛けて討つとは、余りに情無く不憫に存じますれば、どうか此の儀ばかりは御免下さいますように」と断ったところが、それが恐ろしく頼朝の気に障って、「さては己(おのれ)も九郎の二の舞をする気か」と云って、頼朝は奥へ入って仕舞ったと云うのだが、天下を握っている頼朝であるから一言半句でも云い返されては悦ばないのは無理も無いが、この場合は範頼の云うことが道理で、まことにその人柄も思い遣られるのである。その範頼をどう云う訳で殺したかと云うと、頼朝が富士の裾野の狩に出た時に、曽我の十郎五郎兄弟が親の仇の工藤佑経を殺して、それから立会った武士共を切りまくって、五郎はついに頼朝の坐所近くまで切り込んだ。その大騒動が鎌倉まで伝わって、頼朝も討たれたなどと云う噂さえチラチラあったので、残っていた妻の政子が大変に騒いで歎いた。それを留守を守って居た範頼が慰めて、「範頼がこうして居ります以上は、御世は何事もありません、ご安心なされまして」と云ったと云うのが根で、「さては、世に心を掛けて居るか」と疑われたのである。これも何も底意があってそう云う言葉が出たのでは無い、ただ余りに嫂(あによめ)の政子が取り乱して騒ぐので安心させようと、そう云っただけのことではないか。しかし、とにかく口は災いの門で、その言葉から疑いが掛ったので、範頼は仕方なく家来の太夫職重能と云う者に、「決して不忠は存じない」由の起請文を持たせて鎌倉へ遣った。すると間の悪い時は仕方ないもので、建久四年八月三河守源範頼と書いたのが、「源の氏を載せたのは一族の積りか過分千万、怪しからん事である」と、またも頼朝の気に障ったのであるが、どうもこれは、理屈を云えば成程遠慮しなかったのは悪いようなものではあるが、丁寧に姓名を書いたまでの事であるから、咎め立てするのは少し行き過ぎている。そこで大江広元が頼朝の仰せを取り次ぐと、重能だって主人に見込まれて使者に出て来た一ト器量ある男だから黙っては居ない。「お咎めで御座るがそれはどう云う訳で御座るか、主人三河守は故左馬頭(源義朝)殿の御子息で御座れば上様の御舎弟であることは勿論のことで御座る。随って去る元暦元年の秋に平家征伐のため上洛させ給える時、「舎弟範頼を以って西海追討使に遣わす」由を御文に載せられて御奏聞あらせられてあれば、その趣も官符に載せられてあるところ、全く以って我儘勝手なことでは御座らぬ」と云い返した。それは宜いが、起請文を差し出して云い訳をした件について頼朝は何とも返答しなかった。仕方が無いので重能は帰って詳しく事情を伝えると、範頼は只々もう次第次第に運が衰えるのを感じた。それが八月二日の事で、六日には宇佐美三郎祐茂が伊豆の国から参上した。仰せつけられる事が有って召されたので、三郎は頼朝のお気に入りなのだから範頼にしてみれば不気味千万な話だ。サアこうなって来るとどうしても魔がさすもので、範頼にとってはまた一ツ好くない事が出来た。それは範頼の頼みにしている勇士に当麻の太郎と云う男が居た。これが主人の身の上がどうなることかと心配して、「何としてもソッと頼朝に近づいて言葉の端々を聞き取って、それ次第では料簡を決める覚悟をしなければ、悪くすると主人も義経同様に夜討ちを仕掛けられるかも知れない」と、主人思いの一心から大胆にも御所に忍び込んで、頼朝の寝所の床下へ潜んで隠れて居た。これが範頼に取っては甚だ拙いことになった。早くも頼朝がこれを悟って、宇佐美三郎祐茂・梶原源太景季・結城七郎朝光等に命令して取り押さえると、範頼の秘蔵の勇士であったから、サア怪しからん奴と厳しく糾明したが、当麻太郎は、「無実の御疑いを蒙った主人の身の上を気遣い、この事に就いて仰せられること有れば洩れ承(うけたまわ)ろうと忍び入ったので、決して陰謀の企てでは御座らぬ」と言葉を尽くしたが受け取って呉れない。しかも当麻は武芸で名の有る勇士なので、行動は尋常でないし、心中は中々以て不審である。と云うので、「仲間が有ろう、陰謀であろう、白状しろ」と厳しい糾問である。太郎の胸中実に憐れむべしである。歯を咬み口を閉じて一言も発しないで絶体絶命の涙を呑んだのであるが、そこでイヨイヨ疑いは範頼に掛かって来た。全く太郎の事は存じ申さぬと云ったけれども、もう追付かない。これが八月十日の事だ。それからまた範頼の家来の寺田太郎(当麻と同人か?不明)や志賀摩五郎などと云う者が何か拙いことをした。ソレやコレやで終に同月の十七日に宇佐美三郎祐茂・狩野介家茂等に預けられて、「範頼は伊豆の国へ下向させ、帰参してはならない」と云うので、修善寺で生涯を終えたのである。又、頼朝は叔父の源行家を殺した。行家は源為義の十男で、為義の男の子二十三人の中では、総領の義朝と八男の為朝とこの行家とがマズマズ仕事をしている。行家は全体に運の悪い人で、頼朝や義仲や義経のように育った場所が良く無かった為かどうか分からないが、義仲には木曽の四天王、義経には十九臣、頼朝には二十五功臣と云ったような者が居たが、行家には義仲の今井や樋口、義経の佐藤兄弟、頼朝の義経や岡崎四郎や土肥次郎のような忠実な家来が無く、随って平家追討の戦いにも目立った功績を上げられないで仕舞ったので、人が余り評判にしない大将だが、そんなに弱い人でも無いようで、西塔の常陸坊昌命と云う者が討ちかかって来た時に、宮本武蔵二刀流の先祖と云ってもよい二刀で、烈しく防戦したりなどした人である。強いか弱いかはしばらく措いといて、この人の手柄を挙げればかなりの手柄がある。ナルホド平家を滅ぼしたのは義仲や義経や範頼や頼朝の力に違いない。しかし諸国の源氏を蜂起させて平家を苦しませたその初めは、この人が源頼政に推挙されて、以仁王(もちひとおう)の令旨を受けて諸国の源氏に触れ回り歩いたからで、諸国への使いとなって「平家を討て」と云う以仁王の令旨を懐中に治承四年四月十日の夜に、自分が熊野の新宮に住んで居たため見覚えた山伏装束の、兜巾(ときん)鈴懸・柿の衣・八ツ目の草鞋・藤の笈(おい)と云う姿で、野にも山にも敵ばかりの平家全盛の中を、近江の国では山本・柏木・錦織、美濃尾張では山田・河辺・泉・津野・葦敷・関田・八島、信濃では岡田・平賀・木曽、甲斐では武田・小笠原・逸見・一條・板垣・安田・伊沢、伊豆では源氏の総本家である頼朝に知らせ、それから常陸に出て信太や佐竹の面々に触れ回った。このため平家の下に踏みつけられていた諸国の源氏が慈雨を得た草のように、上げたくて、上げたくて、堪らなかった頭を上げて、大きいところでは頼朝も義仲も旗を挙げるし、小さいところでは武田信義なども火の手を挙げたのである。頼朝は石橋山の一戦で脆くも負かされたが、それでもやがて盛り返した時には非常な勢いになった。それと云うのも行家が諸国に火を付けて廻ったからである。行家の此の仕事は後から見ると何でもないようであるが、その時にして見れば中々の大役で、誰もが勤まる事ではない。マズ諸国の源氏にとって信用出来る、威圧(おし)の利く、重みの有る、そして人物も相応の者でなくては、平家が天下の世の中では誰も賛同しそうにも無いのである。そこで頼政が見立てた行家は、保元の戦いで勇名を轟かせた鎮西八郎為朝の次の次の弟で、頼朝や義仲や義経や範頼に取っても叔父なのであるから、まして諸国の源氏の末流などにとっては十二分に貫禄のある人なのである。流石に頼政は老巧で善く見立てたもので、行家より他にこの様な役を遣れるものは無いのである。行家が火を付けて廻ったので天下が燃え出して平家は灰になって仕舞ったのである。であれば、実際の戦で行家が手柄を現さないとしても、治承四年四月九日の以仁王の令旨を懐いて諸国への使いを勤めた功績だけでも、半国や一国を与えて安穏に置いても当然なのだが、それを頼朝に対して謀叛を謀ったと云う曖昧な理屈で、佐々木定綱に「討て」と云ったのが始まりで、終(つい)に義経が行家を庇ったところから義経も併せて之を失ったのである。義経が行家を庇ったのは人情の当然で、先に行家が背いたから頼朝が殺そうとしたのでなく、頼朝が殺そうとしたから、何の罪で無実の叔父を殺そうとするのかと云って、頼朝に対して敵意を持つようになったのであるから、どうも行家を苛めた頼朝よりも行家を庇った義経の方に道理が有るように思える。そこで行家は、最初は義経と共に都を落ちたのであるが、後に別れ別れになって和泉の小木の郷に隠れていたところを、文治二年五月十二日に延暦寺の悪僧の昌命と云う者が討ッ手となって、後で調べたら昌命の刀には四十二個所の刃こぼれが有ったと云うほど戦った挙句、太刀と太刀が咬み合ったので昌命が組みに掛かって、組み合っているところを、大源次宗安と云う奴が出て来て大石で行家の額を打ち破って置いて、それから足を縛ったから流石の行家も捕らえられて、終に淀の赤井河原で斬られて仕舞ったのである。頭が砕けたので脳を出して塩を詰めた首を鎌倉へ送ったなどは、聞いても余り好い気持ちがしない話だが、後に建久九年に頼朝が相模川の橋供養を終えた帰り道に、八的ケ原と云う所で此の行家や義経などの亡霊が現れて頼朝と眼を合わせた、それから頼朝が患い付いて次の年の正治元年正月十三日に死んだのであると云う話さえあるのである。頼朝はまた叔父の源義賢の子の木曽義仲を殺した。義仲は後にこそ乱暴を働いて大分悪いことをしたから免れない罪は有るには有るが、倶利伽羅峠の一戦で平家の度肝を抜いて、京都から追い出して仕舞ったのは義仲の大功である。それを最初は自分の娘の大姫の婿に義仲の子の清水冠者義高を取って縁を結んで油断させて置いて、散々平家を傷めつけさせた挙句に義経や範頼に云い付けて討ち取らせて仕舞ったのである。だから清水冠者義高の亡くなった後、建久五年八月八日には頼朝自身が相模の霊山寺に参詣して、義高を失って精神疾患に陥った大姫の病気平癒を願って祈ったりするほどの強い憂欝病に患われて、「私を再縁させようと御思いなら淵川の水の深みが私を待って居るでございましょう」などと捻くられて、流石の政子も御経を供養して義高の菩提を弔ったり、七日の仏事をしたり、頼朝も三島神社に神馬を献上して大姫の健康回復を祈ったり、散々弱らせ抜いている。義仲が朝廷に対して乱暴狼藉をしたのだから自業自得だと云えばそれまでだが、元来の義仲はそれ程悪い人では無かったらしい。けれども頼朝は之を殺しただけでなく、一旦は婿にした義高まで殺して仕舞ったのである。このように弟の義経を殺し、範頼を殺し、叔父の行家を殺し、従弟の義仲を殺し、婿の義高を殺し、まだその他にも親戚や手柄を立てた家来などを随分殺している。三河守範頼が殺されたのが八月十七日で、その日から七日目の二十四日に、功臣の大庭平太景義と岡崎四郎義貞の二人が揃いも揃って出家しているなどは、年老いて老衰したのでお暇を頂いたと云えば如何にもそのようだが、義仲・義経・行家・範頼と手柄の有る者が順々に殺(や)られて行くのを見て、御鉢が廻って来ない中に、一寸失礼と席を外したようにも見える。大庭平太は太いところが有って賢い、岡崎四郎は腹が清潔(きれい)で賢いように見える人だから、兎が獲れれば犬は要らなくなり、鳥が獲れて仕舞えば弓も邪魔になる道理を考えたのかも知れない。これでは頼朝は実に千万人に優れた偉い人に違いないが、どうも温かみの無い酷いどぎつい恐ろしい人に見える。定めし親の愛薄く余り可愛がられないで、捻くれて育ったのだろうか。ところがどうもそうでは無い。ごく幼少の頃はコレと云った話は残って無いが、母は尾張の熱田神宮大宮司の娘で、父は云うまでも無い源義朝で、義朝は頼朝の幼い時は「鬼武者、鬼武者」と呼んで、多くの子供の中でも特に愛していたのである。勿論当時の風習で、母の家が立派な子は特に大切にされたものであるが、十歳までは膝の上に抱きかかえられていたと云う事である。頼朝は叔父の鎮西八郎為朝のような大男では無くて、後年征夷大将軍になった時の様子を記したものに、「顔大にして丈(たけ)低く、容貌華美にして形態優美なり、言語分明にして・・・」とあるところを見ると、小さい時と云っても男の子の十才と云えば大柄でなくとも中々大きいものである。それを膝の上にしたと云えばその寵愛振りが思いやられる。それも頼朝より下に子が無いのであればそう云う事も有ろうが、頼朝の弟は沢山有ったのだから、全く虫が好くと云うもので強く好いたに違いない。もちろん万人に帰服されて、征夷大将軍総追補使とまでなったくらい人徳の有った人であるから、幼い頃から何処か違って、情けない、果敢ない終わりを遂げた不運な兄の朝長などよりは、何処となく父に好かれたのであろう。そればかりで無く、父に好かれ愛されて、仁愛(なさけ)の光を十二分に浴びて育った証拠がある。父の義朝がこの世の思い出に藤原信頼の勧めに応じて大望の旗を挙げた平治の戦いで、頼朝はどういう戦支度であったか、兄の義平や朝長はどういう戦支度であったかと云うと、義朝の総領の悪源太義平はその時わずかに十九才、練色の魚綾の直垂(ひたたれ)に、胸板に八ツの龍を打ち付けた八龍と云う名の鎧を着て、高角(たかつの)の兜の緒をしめ、石切丸と云う太刀を帯び、石打の矢を負い、重藤(しげとう)の弓を持って、逸り立つ鹿毛馬に鞍を置かせて騎(の)ったのである。次男の中宮太夫朝長は十六才、朽葉の滴れに、沢潟縅(おもだかおどし)にした沢潟と云う名の鎧に白星の兜を着て、薄緑と云う太刀を帯び、白箆(しらの)に白鳥の羽を矧(は)いた矢を負い、二所籐(ふたどころとう)の弓を持って、葦毛の馬に鞍を置いて騎ったと云うが、サテ頼朝はと云うと、想像しても可愛くて涙が出るではないか。数え歳十三才の若武者だ、もちろん今日の子供よりは筋骨も肝魂(きもだましい)も逞しかったであろうが、何にせよ十三才の可愛らしい凛々しい少年が、紺の直垂に、源太が産衣(うぶぎ)と云う鎧を着て、白星の兜の緒をしめ、髭切丸と云う太刀を帯び、染羽の矢を十二本差したのを負い、重藤の弓を持ち、栗毛の馬に柏ミミズクを摺った鞍を置いて騎ったと云う。この源太産衣の鎧は、源氏に重代の名のある鎧の中でも一番珍重された鎧で、源太と云うのは八幡太郎(源義家)の事であるが、八幡太郎が二才の時に、小一條院様から、どんな子であるか御覧になりたいとの事だったので、そこで新しく善美を尽した鎧を拵えて、二才であるから着ることは出来ないが、武士で有るのでその鎧の袖に据えて見参させたと云う言い伝えが有って、それで源太が産衣と云うので、浄瑠璃などにも使っているから名は誰もが知っている鎧だ。胸板に天照大神正八幡大菩薩が縫い付けて有って、左右の袖には藤の花の咲きかかった模様を縅(おど)してあると云う。髭切丸は八幡太郎が奥州合戦の時に生け捕りの首を切るのに、何時も髭が共に切れたと云うので髭切丸の名が付いたもので、奥州の文寿の作だと云う事である。源氏には重代の尊い鎧が八ツ有るし尊い刀も幾つか有るが、その中でもこの産衣と髭切丸は大切なもので、代々総領が受けるものと決まっていた。それなので悪源太義平が馬鹿でも有ればだが、義平は立派な烈しい気性の親父譲りのしたたかな男であるから、義平が之を帯びるべきなのに、それを義朝が頼朝に授けたのは母の家柄が高かっただけで無く、ヨクヨク頼朝が可愛かったのであろうと思われる。まだそのほかにも、朝長の意気地の無さを叱って頼朝ならばコウではあるまい。と云ったと云う事がある(後述ある)。ソレコレを考え合わせて見ると、頼朝は決して人の仁愛を受け足りないで育った訳では無い。岩山の北陰の樹のようでは無かったのである。親からは特別に仁愛の光を受けて育ったのである。ひねくれたり、ねじくれたりするどころでは無い、日当たりの良い肥えた地に育った樹が、スラリと、伸び伸びと、美しく幹も伸び枝も差して育つように、ムックリと温和な美わしい人で有るべきでは無いか、それなのに頼朝の行為を見ると実に酷い、一体これはどう云う訳であろう、と考えずにはいられないのである。しかし、頼朝が最初から弟でも叔父でも殺して仕舞えというような人であったかどうか、それとも、最初は父に可愛がられて育ったことから想像されるように、優しい心持を持っていた人だったのでは無いか、イヤ全く、最初は優しい人で有ったのである。③に続く



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