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幸田露伴の釣りの話「漁父詞の作者」

漁父詞の作者

西塞山(せいさいざん)前 白鷺飛
桃花流水 鱖魚(けつぎょ)肥
青篛(せいじゃく)の笠  緑蓑の衣
斜風細雨 不須帰(帰るを用せず)

これは中国の唐の張志和が作る漁父詞である。辞美わしく調べ清らかなので、昔から人々はこれを喜び、画のような詩なので画題とし、歌うような調べなので歌曲にもする。漁父詞の一体は、およそ七言絶句に似ているが、その第三句は七字を用いないで必ず六字を用いる。またその六字は必ず三字ずつで相対し、かつまた一字に必ず韻を押すことを約束する。転句がこのようなので結句に七字句を用いるが、その平仄の方法は時には七言絶句と同じで、また時には絶句のとは同じでない。七絶の結句は絶句と同じなのが常態だが、西塞山の詞は却って承句と同じにする。自然とこのようになるものがあって、この自由がある。志和の作る漁父詞はなお数章ある。また志和の兄の鶴齢にも一章がある。漁父詞の一体は次第に行われ出して唐人で之を作るものが少なくない。我が国においても平安初期から詞客が真似て作ったものがある。現在でも文才の士で時にこの逸調を為す者がいないことは無い。(因みに、古来の伝承では西塞山を読んで西渋山とする。)
張志和は唐の中葉の人で、年十六にして明経に抜擢されて粛宗に賞重されたと云えば、またこれ一個の霊漢であると云える。左金吾衛録事参軍を授けられ、名を賜った事で初めの名の亀齢を改めたほどであるが、変事に連座して貶められて以後は仕えず、自ら煙波釣徒と称して悠々自適に、一生を江湖の水雲渺茫の間に送る。父は荘子と列子の学を好み撰述したものがあるが、志和もまた恬淡自足して、「玄真子」「太易」等を著わす。その「鸑鷟」と「涛の霊」の二文は、「全唐文」巻四百三十三に載っている。屈原と宋玉の賦に学び、蒼濶閎麗(そうかつこうれい)で読みやすくない。思うに自身の好むままに人に配慮しないためである。伝には善く山水を画くとあるが、その画は惜しい事に伝わっていない。想像するにその優れた気質は人を欣ばせるものがあるだろう。酒が酣(たけなわ)になれば或いは鼓を打ち笛を吹き、興が起れば或いは筆を執って詩を作る。まことに天才は独自に楽しむ。兄の鶴齢は志和の飄然出遊して還らなくなるのを恐れて、室を越州の東郭に築き、屋根を葺くに生草を用い、椽(たるき)や棟は削らずに、すべて志和の善いようにさせて、嫂(あによめ)も志和のために自ら機織(はたおり)して大布を作り裘(ころも)を製すれば、志和もその志を感じ遠遊しないで、暑熱の時も布裘を脱がなかったという。心が広く精神が豊かで拘(こだわ)ることがなく、かつて無理解な県令がいて志和に溝を浚わせようとしたが、悠然として逆らうことなく畚(もっこ)を執って仕事に服した。その人となりがこのようであれば、その高才清徳を慕う者は少なくなく、観察使の陳少遊は、その住居(すまい)を玄真坊と名付け、門が狭いので土地を買いこれを広げ、囘軒巷と号し、門前の流水に橋が無いので橋を架け通りやすくする、人はこれを太夫橋と呼ぶ。怪奇なる詩人で茶を愛した陸羽や品行方正の大官で書を善くした顔真卿等の人たちは皆志和の話し相手であった。かつて天子が志和のために下男と下女を各一人賜って仕えさせたが、志和はこれを夫婦にして漁童・樵青と呼んだと云う。その風流洒脱は人を破顔させる。
志和の伝は「唐書」巻百九十六に見える。その大概は前記のようである。中に記す。釣りを垂れるに常に餌をつけない。志(こころざし)魚に在らざれば也と。高士韻人が釣りを垂れるのは、もとより魚を得ようとするのでは無いが、しかし志和が餌無しに釣りを垂れるのは、陶淵明が弦無しの琴を撫したと同様に、その興趣を得る事を目的とするものか。弦の無い琴は必ず響きを発しないであろう。しかし、餌無しの釣は魚が得られないこともなく、思うに志和が釣りに餌を付けなかったのは本当の事だが、志(こころざし)魚に在らざればなりの一句は後人の忖度(そんたく)した言辞であろう。釣りを垂れるに餌をつけないと聞けば、釣りを知らない者には理解ができない。このため、志(こころざし)魚に在らざればなりの一句を注記して自ら理解できるようにしただけで、これは子供が物事を理解するような仕方でなくて何であろう。
志和の漁父詞の一ツに云わく、

青草湖中 月正に円(まどか)なり、
巴陵の漁父 櫂歌連なる。
釣車子 橛頭船、
楽は風波に在り 仙たるを用いず。

釣車は釣り竿につけて綸(釣糸)を収めたり出したりする道具で、その造りは異なるが欧米で云うリールである。陶淵明が弦無しの琴を撫したようなことならば何で釣車を必要としよう。同じ唐の徐正字が釣車を詠じた詩の句に、

軸は騂角を磨きて 氷光滑らかに、
輪は春糸を巻きて 水面平らかなり。

とあり。騂角は色の赤い牛の角である。釣車の体裁を推察するが善い。また同じ唐の一大詩人の陸亀蒙に人に寄せて釣車を乞う詩がある。釣車の用途を推知するが善い。このような釣車を用いた志和が、釣りに餌をつけないと云うが、魚を釣ることを全く考えなかったということではない。
また志和の漁父詞の一ツに云わく、

釣台の漁父 褐(かつ・ボロ)を裘(ころも)と為す、
両々三々 舴艋船(さくもうせん・小舟)。
能く櫂を縦(はな)ち 慣れて流れに乗る、
長江の白浪 曽て憂えず。

これは魚父を詠んだ辞(ことば)で、自己の状態を述べたものではないが、他を借りて自らを云う。志和もまた長江の白波を曽(かつ)て憂えることなく櫂を使って流れに浮かんだことを知るべきである。であればこそ兄の鶴齢(あるいは、松齢に作る)も、

楽は是風波 釣は是閑、
草堂の松径 己に攀ずるに勝えたり。
太湖の水 洞庭の山、
狂風 浪起らば 且つ須らく帰るべし。

と諷したのである。志和は橛頭の舟に櫂を縦(ほしいまま)に使って長江の白浪を怖れない。兄に狂風が起きたら必ず帰って来るようにと云わせ、綸(釣糸)を放つと絡緯(らくい・コオロギ)が鳴くような声を出す釣車を使う。志は魚には無いが全く意を用いないことではない。その人品から云えば漢の厳光は志和の下に居る者ではないが、厳光が釣をした七里灘というところは、唐の方干の「暮に七里灘を発して夜厳光台下に泊す」という詩に、

一瞬 即ち七里、
箭馳 猶是難し。

とある句に照らしても知ることが出来るように、流れの大変急なところで、厳光はその急流の下のやや澱んだところへ釣糸を垂れたことが推察できる。李白の詩の句に、

何ぞ慙(は)じむ 七里瀬の
我をして竿を垂れんことを欲せしむるを。

とある七里瀬も即ち七里灘のことで、厳光の故事があることで垂竿を欲せしむると作ったのである。このようなこともあって陸亀蒙の釣友で晩唐の大家である皮日休も、

七里灘の波は 喧しきこと一舎、
五雲谿の月は 静かなり三更。

という爽涼とした一聯の佳句を発している。波は喧しいこと一舎とある川瀬の轟きの下(もと)で厳光は釣ったのであるが、厳光はもとより魚に執着はないが餌を付けないということはなく、またその地を選んだ状況を考えると、全く魚の来ないところへ竿を垂れた訳では無くて、魚の来るような急灘の下の緩み澱むととろに釣糸を垂れたのであろう。「夜厳光台下に泊す」とある方干の詩の題から厳光台下の急流で無いことが分かる。なぜならば水流衝撃のところでは夜泊など出来ないことは、繋留の常識、情理の必然であるからである。およそ急流の前後の流れがやや緩むところは魚を釣るに好く、滞水の上下の水がやや動くところもまた魚を釣るのに好い。厳光の釣台が七里灘の下であることは方干の詩題で明らかなので、その釣台の好漁地であることも明らかに知ることができる。魚に志が無くても竿を持つ楽しみを取る以上は、厳光といえども好漁地を選んで座るのである。李徳裕は志和を称して厳光に比べた。志和が釣に餌を用いないのは、何でただ志が魚にない為だけであろうか。
或いは私の冗舌を笑う。私は今「唐書」の烟波釣徒志不在魚也の末五字を削って、改めて自適耳の三字としたい。
漁父詞中の西塞山前は、「全唐詩」の注に「西呉記」を引用して湖州磁湖鎮の道士磯がこれであると云う。鱖魚は我が国の何魚であるか明らかではないが、貝原益軒は訓(よ)んで「さけ」としたが、思うにこれはそうではない。すべて水族に属すものの文字は和漢古今甚だ混乱訛誤して、字を物に当てはめることも物を字でたとえることも共に難しい。中村敬宇が清の儒者と会って、大きな鯛を見せてその字を質問したところ、皆が答えたが明解な答えは得られなかった。また和名抄に載っている「鯛」の字を挙げて質問したが、皆は口ごもって確答する者がなかったと云う。まことに鯛字は漢書には稀にしか見えない。日中両国の碩学にしてこうである。正字の訛用や俗字の妄用は紛々として、語ることも出来ない。鱖をサケというがサケは北の魚である鱖は南の魚である。我が国では俗に鮭をサケというが鮭は支那(中国)ではフグの類である。鮎はアユとするが鮎は支那では鯰の正字である。鰉は京都辺りではヒガイと云うが支那のゾウザメであろう。蜆はシジミと云うが支那では小エビのことである。鮃はヒラメと俗字妄用するが我が国の昔はフナといったことが「新撰字鏡」に載っている。鱖魚は漁父詞の画題となって画上でこれを見ることが多いが、描かれてなお明らかでない。支那に往来する人でこれを味わったことがあると云う者がいるが、精ししい説明はなく、その名も知らず、ましてその性質は少しも分からない。ただ我ひそかに鱖魚もまた餌無しで釣るような魚の一ツだと想うだけである。
およそ釣魚の道で備えるべき道具は、竿・綸(釣糸)・鉤(釣針)・沈(錘)・泛(浮き)・玉網・魚籠等で、用いる物は、釣餌・撒底餌(グランドベイト)・撒流餌(コマセ)で、これ等を欠く事は出来ない。浮きは魚が釣針に来たことを知る道具である。ただし、浮きが無くとも釣ることは出来る。ブッコミ釣り・コズキ釣り・曳き釣り・中天釣り・ポカン釣り・ズイコ釣り・手釣り等は浮きを用いない、浮きはその必要の少ないものである。錘(おもり)は釣針を沈める道具である。ただし、錘が無くても釣ることは出来る。ハタキ釣り・蚊鉤釣り・角釣り等、錘を用いない釣りもまた多い。
竿無くとも魚を釣るべきか。云わく。釣るが善い、釣るが善い。竿は釣りの要具である。佳い竿を用いる者は拙漁でも巧獲し、微綸でも大魚を獲る。これゆえに釣客が佳い竿を得ようとすることは、勇士が利剣を思い、美人が明鏡を重んじるようなことで、なので、半井卜養の狂歌集に、三十六節の釣り竿を観て「ふしはろくろくのびず縮まず」の歌がある。唐の詩人で才思は抜群だが放縦で品行の宜しくないことで有名な温庭筠の詩集には、竹林に釣竿を求める珍しい題目の一長篇さえ遺されている。しかし、竿が無くとも釣るが善い。手釣りは手を竿に代え、櫂釣りは櫂を竿に代える。手釣りの面白味が竿釣りに勝るのは肉声が糸声に勝るようなもので、櫂釣りの釣果が竿釣りに勝るのは半月刀が小太刀に勝つようなことだ。
鉤無くとも魚を釣るべきか。云わく。釣るが善い、釣るが善い。鉤は釣りでは扇に於ける蟹眼のように重要な物で、身体に於ける心のようなものである。なので丹吉鉤は土佐で誇り、ベンネル鉤は英国で輝き、ノンストライクは屬鏤(しょくる)の剣や骨喰いの太刀に比べても尊い。しかし、奥州松島のハゼは鉤無しで釣るのを定法とする。藻が多くて鉤には不便で、魚は愚かで餌を放さないので、何れの土地も鉤無しを便利とする。ウナギは鉤を用いないが針を用いて釣るが善い。太公望が直針で釣る理由は分からない。「節用集」の鼇頭(ごうとう)などに見えると云うが、太公望が直針を用いたとすれば、不老長寿の薬剤としてウナギを獲ようしたものか。なかなか人を笑わせる。ズズゴ釣り・櫂釣り等は鉤を用いないことで魚を獲るのに便利敏捷、一夜に数キロを得る。およそ魚を釣るのに釣り損なわないためには、その鉤を深く曲げ、その鐖(あげ・先)を凸起させる。鐖は鉤距(こうきょ・鉤のひっかけ部分)である。「あご」「もどり」「かかり」などと称する。しかしながら魚を鉤から外す場合は鐖が高いと素早く外すことが出来ないので、時間ばかりかかってしかも魚を傷める。このため多く釣りたい場合は鐖を小さくするか無くしてしまう。カツオ釣りやその他海魚の釣に鉤の無いものが多い。鐖を削ってまだ足りずに終に鉤を外すことになる。櫂釣りなどは綸もまた殆んど無い。ただ麻糸が横に魚の歯に掛かるだけである。それでいて能く魚を獲ることができる。漁者の知恵も極まると云える。
餌無くして魚を釣るべきか。云わく。釣るが善い、釣るが善い。撒底餌は紳士の釣りである。餌無くとも勿論釣るが善い。撒流餌は老人の釣りである。餌無くとも勿論釣るが善い。昔の兵家が云わく、

香餌の下 大魚あり、
重賞の下 勇士あり。

この言葉、真(まこと)に人情世態を言い尽くす。しかし、香餌無くてもまた以って釣るが善い。
餌無くして釣る道は三ツあり。云わく疑似餌釣り、云わく友釣り、云わく真の無餌釣り。疑似餌釣りの道は甚だ多岐である。蚊鉤釣りは鉤を装うのにオーム・クジャク・キジなどの奇麗な羽を使い、金葉・銀葉・泥粉を用いて、蚊や蠅や小虫の類に似せて渓流魚を釣る。これは世に広く知られるところである。羽毛や魚皮を用いて蚊鉤のようにやや大きなものを作り、それで海魚を釣る。これをバカシ釣りと云う。これもまた世の周知するところである。初めは真餌を用いて釣り、魚が多く釣れ出すと獣角骨等に似せた鉤で釣る。これを角釣りと云う。これもまた人の知るところである。桐材の切れ端を焦してエビの形に作ってイカを釣る。これを烏賊木釣りと云う。これもまた人の知るところで、百余年前すでに薩摩に烏賊木評隲(いかきひょうしつ)の書があると云う。その昔から発達していたことを知るべきである。
欧米諸国もまたこれ等の疑似餌鉤を作ること甚だ多い。ミンノー(ハヤの類)に似せてゴムで作るもの、銀色・黄色・黒色・雑彩色等その類は甚だ多く、またゴムでミミズその他諸虫の形を真似るものも少なくない。これは我が国に無いものである。
別にスプーンというものもある。ある釣客が舟の中から誤って銀の匙を落として、水中を旋転しながら落ちて行くのを見ていると、魚が寄って来て之を咥えようとする。ここにおいて創案してこのスプーン鉤を作る。これからスプーン鉤は次第に使われて、今はその種類幾百種あるか知らない。これは疑似餌釣りではないが、一種のバカシ釣りと云える。
友釣りは魚の雌雄相愛し、或いは雄と雄が相争い、雌と雌とが相憎む性質を利用し、活魚に鉤をつけて水中に放し攻撃衝突するものあれば直ちに鉤をあげこれを捕らえる。渓流の魚はこれによって釣ると善い。外見は詩的・画的であるが、いわゆるオトリの魚の疲労困憊を見ると興味は半減する。これは無餌鉤ではあるが自然と一別科に属する。
張志和の無餌の釣は、蚊鉤釣りでもバカシ釣りでもスプーン釣りでない。友釣りでもない。真の無餌釣りである。真に餌を付けず、羽毛角骨金銀ゴム等を用いて装うことなく、オトリを用いることなく、魚を釣るべきか。云わく、釣るが善い、釣るが善い。
かつて、磐城の浜に一漁夫あり。延縄漁(はえなわぎょ)を生計とする。ある日乱酔して鉤に未だ餌を付けないものを誤って海に敷く。翌日、自ら悔いて憮然とこれを引き収める。しかるに空餌の鉤に魚のかかるものがある。一魚また一魚、数えると少なくない。ここにおいて素鉤でも魚を得られると思い、また試しにやってみる。翌日もまた魚を得る。それからは日々このようにして魚を得て常習化する。また他の漁夫が次第にこれを学んで労少なく功多きを得る。これが今のいわゆる「じらいか釣り」の起源である。「じらいか」は「自来家」か「地雷火」か分からないが、陶淵明の詩句に、

君まさに酔人をゆるすべし。

というのがある。造物主もまた酔漁翁をゆるして、これを憐れまれたものか、否か。「じらいか釣り」は今なお行われている。素鉤で魚を得られること、この通り。延縄は無人で漁をしてしかも魚を得る。であれば、人が竿を使って漁をするにおいてや。
張志和の無餌の釣りもまた魚を獲る時がある。素鉤で魚を得れるのなら、彼が必ず魚を得ることを望んで、美しくない小虫などを鉤先に装うのも余計なことではないか。陸亀蒙が、

枯蚌(こぼう・貝殻)に魚餌を盛る、

というようなことは実際の描写であっても、これまた美しくない。私もまた前年から餌を用いない釣りに親しむ。魚を獲ること未だ多くは無いが、興を得ることまた少なくない。ひそかに思う、釣りは餌を用いないことで妙趣極まると。

玄真子歌って云う、

元化(げんか・伝説的な名医)は 霊なる哉。
碧虚(へききょ・青空)は 清き哉。
紅霞(こうか・夕焼空)は 朗らかなる哉。
冥(めい)たる哉 茫(ぼう)たる哉。
惟(ただ) 化之(の)工や。
惟 無き哉。(末句三字句)

またその作るところの空洞の歌に云う、

無自にして然り、
自然の元なり。
無造にして化す、
造化之端なり。
廓然(かくぜん)たり 愨然(かくぜん)たり、
その形や 団欒(だんらん)なり。
爾(なんじ)の視(し)を反(かえ)し、
爾の思いを絶やさば、
以て 観る可し。

(大正十三年八月)


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