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幸田露伴の随筆「桃花と河豚」

桃花と河豚

 今は桃の花や菜の花の時になった。河豚(フグ)の話をするには時期が遅れている。みぞれが窓を打って北風に戸が鳴るような頃でなくては、ふぐ鍋に熱燗というやつもピタリと来ない。が、そうばかりでもない。タマタマ東坡集を読んで巻の七十八に及ぶと、

  恵崇春江暁景

 竹外 桃花 両三枝、
 春江 水暖みて 鴨先ず知る。
 蔞蒿(ろうすう)は地に満ち 蘆芽(ろが)短し、
 正に是れ 河豚の 上らんと欲する時。

という好詩があった。桃の花と河豚の読み合わせだ。第一句はただ景色だけだが、流石に詩仙のわざである。竹外の二字で、水辺のやわらかな春の様子が目に見えるようだ。第二句の春江水暖かくして鴨先(ま)ず知るの、鴨がおもしろい。鴨は実際そこに居た写実であろうが、何となくユッタリとした春の鴨のそのさまに引っかけて、水が暖かくなって来たのをその鳥が知ったか知らないかは分からないが、水暖みて鴨先ず知ると云い取って、河の様子と鳥の状態を共に、それを見た人の感じまで一斉に描き出してしまうところは、褒めるのも野暮なことだがサテうまいものだ。蔞蒿はヨモギの類の春の雑草の食用になるもので、詩経や楚辞以来、また山中でも水辺でもお馴染みのもので、ことに蔞は魚を煮るに良いとされている。蘆芽は字の通りで蘆の芽であるが、これも河豚の毒を消すと云われているもので、それが裏面に含まれていて、蘆芽の生ずる時節と河豚の遡上する時節とは、我が国でソラマメとキスが同じ旬であるとされているように、支那では周知の事でもあるので、それで陸上水際の蔞蒿蘆芽を、満地と短の語で適切に浮かび上がらせて、正に河豚の上らんとする時期と、いかにも春らしい景観を表わした気持ちの好い作である。桃花の時節に偶然この詩に出会って河豚に思い至ったので、河豚を旬外れに語り出すためにこの詩を捜し出したのではない。が、春に河豚の話をしても先ず不自然ではないということである。
 蘆芽が河豚の毒を消すというのは、蘆芽と河豚とを煮合わせると良いというのか、河豚にあたった場合に蘆芽を食うと良いというのか、茅根は漢方薬だが食べたい気もしないが、蘆芽は食べ物でないまでも食べてみたいような感じのするものだ。ホウセンカの花弁とすい葉を捏ね交ぜて爪を染める事は支那(中国)の女子も我が国の女子もすることで、恐らくマニキュアのはじまりだろうが、ホウセンカの実で以て魚を煮ると魚が柔らかくなるということは、支那の書に見えていても、我が国では割烹家もしないことらしい。このように、支那の人は実際的で細かい知識の所有者なので、蘆芽に毒消しの作用が有るかも知れないが、作用が無くとも、蘆芽と何かの魚との取り合わせは面白味を覚える。蔞蒿は元の人の詩句に「蔞蒿鮮滑にして鶏蘇に勝る、尺に満つる河豚(ふぐ)玉を膚と作(な)す」と云うのがあるところなどを見ると、鱸(スズキ)に蒪菜(ジュンサイ)という格で、河豚には格好なものとされているらしい。東坡は東坡肉の名を今に遺しているが、何も口腹の徒では無い。またこのような毒消しや取り合わせのことを探り求めて句を作ったのでは無い。目の前の景色をそのまま拾い取って作った迄だが、自在な名手であるところから、自然湊合、天衣無縫の妙趣を苦も無く表現している。河豚喰いであったか、無かったかなどと云うことなどは問題にすべきではない。
 しかし、東坡はまだ他にも河豚のことを云っている。それは雑煮の中に二魚説というものがあって、柳子厚の「三戒」という文に続いた訳では無いが、怒りっぽいことと、誤魔化したがることの愚を悼(いた)んだものである。河の魚と題して河豚のことを云っている。

 「河の魚にその名を豚とする者あり、橋間に淤(およ)いでその柱に触る。通り去ることを知らず、その柱が自分に触れたのを怒り、忽ち頬を張って鬛(たてがみ)を立て、腹を怒らせて水に浮かぶ。これを久しゅうして動く無し、飛鳶廻(めぐ)りて之を掴み、その腹を破いて之を食う。遊びを好みて止まるを知らず、遊びに因って物に触れ、己を罪するを知らず、すなわち妄(みだ)りにその怒りを縦(ほしいまま)にして、腹を破られ死するに至る。悲しむべきことかな。」

というので、淡々一筆、水墨画の小品のようなものであるが、簡単平明、しかも情景具備・評論爽利で、可悲也夫(かなしむべし)の四字で終っているところは情理兼ね備わっていて、その味は至って深い。イソップが宋の世に出たのを見るような気がする。但し我が邦人は河豚といえば海のものと覚えている。なので、河の魚にその名を豚とする者有りという冒頭の一句には、違和感を覚える。また河豚が橋柱に触れるということも有りそうにないと思う。それでこれは寓言であって創意である疑いを免れない。河豚が怒って腹を膨らませて水に浮いていて、鳶に捉われるというのも見たことも無く、北国の「かくふつ」ではあるまいしと云いたくなる。「かくふつ」ならば、「かくふつや腹をならべてふるあられ」という芭蕉七部集の句もあるから理解できるが、かくふつは杜父魚(かじか)の類と聞いている。河豚と杜父魚は叔父と甥だか知らないが、これではいかに蘇東坡の文でもどうもこれは眉唾物だと思う。しかし、翻って思うと、河豚という名前からしてが、河の字を使っているのだから、フグがもし河豚ならば、支那ではフグが河に居る時に付けられた名前で、従って橋柱に触れることがあっても不思議ではないことになる。海豚では「イルカ」になってしまう。前の竹外桃花両三枝も春江暁景の詩篇であって、一篇の景趣は明らかに海辺ではなく河辺である。してみれば海に居る時のフグの名前は知らないが、河に遡上して河豚の名が生じるので、河面に浮いて居れば鳶に捉まることも有りそうなことである。蘇東坡は蜀の人であるが、この文は呉に遊んだ時に作られたものであり、その見聞にもとづくことは疑いなく、他の一篇の題が烏賊(イカ)であるのでも窺い知ることができる。海に面して河の無い呉の地で作られたこの文が、地方の事実や伝説にもとづかないものであったなら、当時の人に許される筈は無く、必ずや笑殺罵殺されたことであろうから、我が国の見聞と異なっても別に不思議はない。フグという字は、魚偏に候の字、魚偏に台の字、魚偏に従い臣に従う字、魚偏に従い規に従う字、魚偏に従い屯に従う字、魚偏に従い圭に従う字、皆フグである。湖夷魚というのも候臣魚の近音である。鰒は音を借りた漢字和用で本義はフグではない、アワビである。「かくふつ」は思うに魚に従い朋に従う字でこれもフグに類したもので水に浮かぶものであろう。それで彼の句があるのだろう。イカが墨を噴いて烏に食われ、フグが腹を膨らませて鳶に食われるというのは、本当のことかどうか知らないが、そういうことが云われていたのだろう。フグが怒って水に浮かぶことは他の書にもしばしば見えていることである。フグばかりではない、鯛なども或る時節の或る場合の或る地方では、沢山が打ち揃って水に浮かぶことがあって、「浮鯛」という言葉さえあることは人の知っていることである。鮒なども水面にこそ浮かばないが、水面下四五寸(十数センチ)のところに酔ったような状態で浮かんでいることがあるのは、釣り客の知っている事で、これ等は必ずしも怒ってそうなるのでは無い。フグも必ずしも橋柱に触れて怒って浮かぶというのではないと思うが、これは水族学者の研究範囲の事である。蘇東坡は当時の人の解釈の範囲で文を作ったのであろうから、一々厳しく追及するにも当らない。面白い小品として玩賞すればよいのである。
 河豚につけて思い出されるのは朱竹坨(しゅちくだ)の詩である。河豚は俳諧では季題になっているが、和歌では取り扱うにしても、それは特別な好みがあってである。詩で扱われる食物では蟹・鯉・鱸などが主なものであるが、河豚などは余り筆墨にのぼらない。ところが朱竹坨の河豚の歌は長篇でしかも面白かったと覚えていたので、久しぶりに引っ張り出して見ると、やはり面白い。「九青の一韵到底」の篇であるところも、清初期において王漁洋と並立して一世を二分した詩豪の自在を偲ばさせる。

 天津の水 北溟に連なる、
 七十二沽 汀(みぎわ)に旋回す。

 冒頭の一句のこの天津は洛陽の天津ではない。北海の天津である。七十二沽の沽の字は能く分からないが、ここでは洲の少し凹んだ水際にある水を云うらしい。

 漁師 春に乗じて 極浦に漾(ただよ)い、
 䑰䑠(ほりょう) 葉々 萍(うきくさ)よりも軽るし。


 極浦に漾うは、やや不明だが漁のことだから、水の詰まり詰まりに魚を漁ることだろう。䑰は短くて深い舟、䑠は細長い小舟、こんな句は文字の国の詩である。言葉の国の歌では長たらしく間延びになる。

 河豚 この時 網を挙げれば得、
 活東 小大 賦形を同じうす。

 活東はお玉杓子で蛙の子がまだ蛙にならない奴である。ナルホド河豚とお玉杓子では大小の違いだけで形は殆んど似ている。

 売るにも銭に直(あた)らず 棄つるも惜しむべし、
 堆(つ)み置けば 更に凡魚に比して腥(なまぐさ)い。

 確かに普通の魚より河豚は腥い。

 南人、之を見て 莞爾として笑う、
 是物 勝るに足る 通候鯖に。

 この句によって支那の呉やその他南方の人は、河豚を食いなれていて、北方の天津辺りの人はただ厄介なものと見做していることが想われる。候鯖は五候鯖の故事でうまいものの譬えで、五候が競って珍膳を食し、婁護が合わせて鯖としたと云う、鯖はここではサバではない。魚を煮たり、肉を煮るのを鯖というのである。五候鯖より勝ると云うのだから、支那の南方においては随分と河豚をうまがるものと見える。

 葦浦 束ね取る 十百輩、
 馬駄し 車載し 兼ねて手拎す。

 輩は等類であり、斑である、手拎の拎は堤と同義で、二句は河豚が盛んに他の地方へ引き取られて行くことを云っているまでだ。

 晨(あさ)に興きて 主人 食指動く、
 忽ち観る 両縛 吾庭に陳するを。

 食指動くという字面は「左伝」にでていて、誰でも使うのであるが、ここでは特に好く利いて使われている。「左伝」「鄭子公の食指動く、子家に謂っていわく、必ず異味を嘗めん。」の、異味を嘗めんの三字が後にあるのだから、ここではいかにもピンと響く。両縛は河豚の二繫ぎ(ふたつなぎ)だ。

 客来たり 疾呼す 莫(ばく)、莫、莫、
 丞(すみやか)に当に投畀(なげあた)うべし、 丁寧を煩わす。
 熊を食う者は肥え 蛙を食えば痩す、
 豆は人をして重からしめ 楡は則ち瞑(くら)からしむ。
 彼は猶傷つく無し これは独り甚だし、
 之を犯さば異ならじ 鈴釘に衝(あた)るに。

 莫莫莫の連呼は好い。イカン、イカン、イカンと云ったのだ。そんなものは棄ててしまえ、熊を食うえば肥え、蛙を食えば痩せるとは唐の鬼才詩人の李長吉が云っている。赤豆を常に食えば身が重くなり、また名高い嵆康の養生論に、楡を食えば眠くなるとある。そがんなのはまだよいが、河豚なんか食えば、鈴釘は矛である。矛に衝かれて死んで仕舞うような目に遭うと云う言葉なのだ。この言葉の中の楡は山住まいの時に、その花を瓶に挿したほかには、自分はそれについて知るところが無いが、嵆康は刀鍛冶を道楽にしたほどの格物趣味のあった人だから、この言葉も抛り捨てないで一寸実際に研究してみたい。河豚は我が国ではアタルということから鉄砲に比定しているが、ここでは矛に比定しているのがおかしい。

 主人 客に語る 且(しばら)く安座せよ、
 吾 物理を言わん 君試みに聴け。
 人生 一死 各々候有り、
 韮英(ニラの花) 棗華(ナツメの花) 木葉零(お)つ。
 則ち飲啄の如きも 亦 分 定まる、
 鼎腹豈(あに)必ずしも 関扃を堅くせん。
 甘脆(かんぜ)は腐腸の薬と云うと雖も、
 聞かず藿(かく)を茹って 長しえに齢を延ぶるを。
 この魚 信(まこと)に毒あるは 種乃ち別なり、
 膢昫(ろうく)に法有り 食に経有り。
 或いは燕子(えんし)の如く 尾涎々、
 或いは束帯の如く 腰黄鞓。
 今の饋せんとする者は 皆爾(しか)らず、
 安(な)んぞ用いん 鍤(すき)を荷って丘冥(きゅうめい)に埋むるを。

 主人は落ち着いて訳を話す。そんなにビクビクすることはない、人生一死各々侯有り時節がある。この一句は河豚食いらしい口ぶりで好い。韮は八月に花が咲き、棗は五月に花が咲き、木の葉はそれぞれの時に零(お)ちる。飲むのも啄くのも、飲むだけ飲んで、食うだけ食って、おしまいになれば、おしまいになったという訳で、多くも少なくも延びも縮みもしようもない訳じゃアないか。関扃は木で鼎(かなえ)を貫いて鼎を閉じるものだが、何も鍋蓋をしっかり閉じて、食うのをよそうとするのも野暮な話だ。ウマイものは毒だなどと云うけれど、マズイ豆の葉を食って長生きしたということも聞かない。この魚は毒のあるものもあるが、ホントに毒の強いのは種類が別だ、潮さいフグは正齋フグとも云ってその鍋を齋鍋(さいなべ)などというが、肝と子を除けば先ず毒は無い、虎フグも恐ろしい時があるからの名前かマダラ模様からの名前か知らないが、マア食える。赤目フグから上の奴は危ないがね、膢昫に法有り食に経有りで、膢は飲食の祭りで、昫は干し肉の屈曲したものであって、礼式上ではその置き場が曲礼や祭礼に示されている、つまり食事は食に先だってその扱いや取りなしに定跡がある。また食に経有りでどんなものをどのようにして料理して食うと善いと云うことも古来研究されて定跡が出来ているから、無暗に毒の有るものを食ってアタルなどと云うことは無い。或いは燕子のように尾が裂けてヌラヌラの多過ぎるものや、或いは束帯のように黄色の帯を着けているような河豚は危ないが、今のは皆そうでない、何で劉伶の故事のように鍤を荷わせて、この美味を丘に埋めさせる必要が有ろうと云うのである。以上の河豚食いの主張の中で、即ち飲琢の如きもまた分定まるの一句は、一寸記憶して置いてほしい、後に作者竹坨の身の上に響くところがあるのである。

 精を抉(けっ)し膜を刮(かっ)し 漉(ろく)として血を出す、
 龞(スッポン)に醜を去るが如く 魚に乙丁。

 二句は料理に取り掛かったところで、内臓を除き河を矧ぎ血を洗い出す。醜というのは龞に竅(あな)のあるところで、スッポン料理では是非そこを取り除かなければならないことは、礼記にも見えている。乙は魚の腸とも云うし、目の旁(かたわら)の骨とも云う、丁は魚の枕骨、丁字型をしたもので、乙を除くべきことなどは矢張り礼記に見えている。後の一句は除くべきものを除き去ることを云ったので、語を下すのに来歴が有ってしかも自在なところ、役にも立ちそうにない丁字を用いた巧さなどは恐れ入ったものだ。

 磨刀 霍々(かくかく) 切って片と作(な)し、
 井華水 沃(そそ)ぐ 双銅缾。

 霍々は電光の形、ピカリピカリと速く動く包丁の下に河豚を切って、片と作すは肉片にしたところ、汲み立て水の清いのを二タつるべほどザッザとぶっかけた、いさぎよい板前の景色。

 薑芽(きょうが) 辛を調え 橄欖(かんらん)の醡(さ)、
 荻筍(てきじゅん) 白を抽(ひ)き 蔞蒿青し。

 薑芽は生薑(生ショウガ)だが、芽の字がなおざりには使っていない、実際でもあるが、好い感じをそそる。醡はしぼり汁で、橄欖の汁は河豚の毒を消すといわれているものである。これも実際であろうが、何だか囘甘の橄欖の醡ときては、好い感じをそそる。荻筍は薑芽というようなもので、筍は竹の子に限らない。白を抽きも、たった二字であるが、外がわを取り去って中の白く鮮やかなところを抽き出して添えた美しさが見え、蔞蒿の青いのが添えられて愈々美しい。

 日長く 風和らぎて 竈觚(そうこ)浄(きよ)く、
 繊塵(せんじん) 到らず 牕檽(そうじゅ) 晴れる。

 ユックリと、セッカチでなく煮るところ、竃(へっつい)の角の浄いという三字に「日長く風和らぎて」の様子が映える具合が、流石に好い句で俳諧の上々だ。そして繊塵到らず(塵の無い)、連子窓の明るい様子、こういう台所からの河豚なら安心して食える気がする。煤塵を河豚が大いに嫌うことは、もちろん裏面にあるのである。

 重羅の麪(めん) 生醤和す、
 凝視すれば 滓汁 なお清冷。

 二重の羅で濾した精麪、即ち極上のうどん粉だが、この字面も昔人の麪賦で、古い文学から引き出されている。滓汁なお清冷というところに、いかにも精美に出来上がった様子が見える。

 吾が生 年命 卯に在るに匪(あら)ず、
 奚(なん)ぞ為さん 舌縮みて箸蠲停するを。

 辰の子卯に在る之を疾日という、というので「左伝」にみえているが、自分はそうでないから、怖がることは無い、ヤッツケロ、食べてみよう、というところ。もう箸をあげたのである。

 西施乳滑らかにして 恣(ほしいまま)に齧ま敎(し)む、
 索郎 酒釅(げん)にして 未だ醒むるを願わず。

 河豚の膏を西施乳というのだ。西施は人も知る呉国を亡ぼした恐ろしい美人なのだ。恣敎齧の三字が、何だか妙に人をエグルようだ。索郎は反語で、小うるさい講釈がある字面であるが、ここでは西施乳に対して索郎酒と云ったまでであるとして、美味い酒というほどに解釈して善い。けれども郎に索めるという字面のアヤがあって、ネダリ酒の気味が匂うところはある。

 唇に入る美味 快意を縦(ほしいまま)にし、
 客に累する 坐久しくして 心方(まさ)に寧(やす)し。

 これで総括に近づいている。

 起って看れば 墻東 杏花放(ひら)き、
 横参 七星 昏中星。

 参は参星で、墻東に杏花が咲き、星は天に横たわり、春の夕べのなごやかにトロリとした景色で、河豚と酒とにあたたかくなって、窓を開いて酔いを吹いてボーッとした心持ちになって、詩は終るのである。蘇東坡の詩は桃花で始まり、朱竹坨の詩は杏花で終る。
 雑談もこれで終るのだが、妙なことは東坡詩の中に、「鴨先ず知る」の三字があって、それが同じ河豚の詩の作者の竹坨、何百年も後の竹坨に奇異な因縁を為しているようで、一寸枝話(えだばなし)となっている。竹坨は詩人として大きな人だが、経義考三百巻を著わした真面目な学者で偉い人だ。前掲の詩の他に河豚の詩はなお二篇あるが、先生は悪食趣味の人でも何でもない。河豚よりは鴨が好きだった。ところで若い時の夢に、郊外を歩いたところ大きな池に鴨が何千となく溜まっていて、子供が居て番をしている。聞いてみると子供の云うには、「これは旦那様の一生に召しあがる料理の鳥でございます」という答えだ。ハハアというだけで夢はそれで済んで終った。サテその後八十過ぎて病気になった時に、再び同じところを夢に見た。が、広い池の中に鴨は二羽しか居なかった。そこで、一生に食う筈の鴨はもう二羽になってしまったのかナと思い、竹坨は家のものに命じて、これからは鴨を苛めるなと云いつけた。ところが嫁にやってあった娘が、父が老いて病気なので見舞いに来た。かねがね父の好物なのを知って居るので、ねんごろに煮た鴨二匹を持って来て勧めた。竹坨はそれを見て気アタリがして、アア自分の一生の食物は尽きたかと嘆いた。もちろん八十二の高齢だったのだから当然だが、やがて幾らも経たずして竹坨は長逝してしまった。竹坨の前の詩の句に、即ち飲啄の如きもまた分定まる、というのがあるが、如実に自分の分の定まっていたことを表わしたようで一寸異様な気がして、そして春江水暖にして鴨先ず知るという蘇東坡の詩の句が、何も関係ある句ではないが、また奇異に引きからんで思い出される。
 竹坨に先だつこと数百年の唐の李徳裕にも竹坨の鴨のような話がある。竹坨の夢は思うに李徳裕の夢から系譜を引いたものであろう。
(昭和八年四月)

注釈
・九青の一韵到底:一韵到底(始めから終わりまで同じ韻を踏む詩の形式)の一種類
・北溟:はるか北方にひろがる海
・劉伶の故事:竹林の七賢の一人である劉伶は、手押し車に乗って、自分が死んだらそこに埋めてもらうために鍤を携えた下僕を連れていたという。
・井華水: 汲み立ての井戸水
・双銅缾:銅の甕(かめ)二ツ


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