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幸田露伴の小説「望樹記② 東京の地下水位」

 春が既に闌(たけなわ)になった頃の或る日であった。机のほとりに倦んだ身を横たえたら直(じき)に眠りそうな気持がしたので、立ち出でて庭へと縁から下りた。地面は天運の和に乗じて、しっとりと潤いを帯びて踏み心地もよく、小草の緑も時知り顔でかわいらしい。夏には憎らしいものであるが、思わず莠(はぐさ)や鷹の爪草にも目をとめて、やわらかな風の中に優しい心になって立つと、背中がほっかりと暖かく、仰いで空を見ると透明度の低い薄青い色の空一面に、真綿をのして吹き飛ばしたような雲が動くか動かない位に動いている。庭には何の花もないが、少しばかりある常緑樹のそれぞれが、どことなく生気を含んで、中には芽をふいているものもある。やがて和語で浅緑、漢語で嫩緑(どんりょく)というよりは、俗に黄金(こがね)のようなと一口にいった方がよい色の、その金のささへりを飾って旧の卯月(うづき)の日の光に匂おう準備を微笑まし気にしている。梅などの落葉樹の芽の早いものは、もう明るい緑になっていて、将来の暗い涼しい陰をつくろうとしている。狭い庭を往き還りして、ぶらりぶらりと歩いていると、太陽が慈悲の手で母が吾が児の頭をなでさすりでもするように、その何とも云えない懐かしい温かみを、額や頬や項(うなじ)から伝えてくれる。春の神だの、夏の神だの、そんなものはハッキリ意識には上らないが、きれいな柔和なあるものと、活発で勢いの好いあるものと、二つの立派なものが注いでくれる無私で広大な愛情が、ヒシヒシと身に迫って来るのを覚えて、なんとも言えない悦びがそれに応じ誘われて、胸の奥だか腹の底だか分からないが吾が身の中心からにじみ出し溢れ出して、そして手足の先まで行き渡る気がする。何となくひとりでに、アレコレ思う煩悩も脱け、こうでなくてはならない、そうでなくてはいけないという自縛も解けて、我知らず自然な境地に立って、何故か知らないが微笑が催され、天地と一枚になったと自認する訳ではないが、後から顧みればともかく、なんの何某(なにがし)で候(そうろう)なんぞというコビリついた料簡が取り去られて、好い気持ちになってややしばらく逍遥徘徊していた。
 自分の家の北側は小溝一つを隔てて隣家の庭に続いている。隣家の庭は自分のより遥かに大きい。池あり築山あり花園ありで、最初この庭を造らせた人の十年目頃はさぞかし朝夕の花月の眺めは佳いものであったろうと思われる。今は再三の洪水や暴風に荒れて、持ち主もそこに住んで居ないためにひどくなっているが、それでも老いた椎の樹の陰の囲いや、離れ座敷の前の巨松や古い梅や丈高い公孫樹(イチョウ)などは昔を偲ばせるものがあって、人に五十の坂にかかった美女に対するような感を懐かせる。観るには足りないが、偲ぶべきものが無いではない。いわんやまたこの庭があるために、ウグイスの一声、モズの叫びを聞くことがあって、自分に村居(むらずまい)もまた好いと思わせることが少なくないのである。で、日頃その庭に対して甚だ好い感じをもっているのであるが、今しも好い心地で我が小庭を徘徊しているついでに、フト眼をすべらせて隣の庭を望み見ると、やわらかな空に目の覚めるような美しい緑の葉を展開させて、いかにも爽やかな姿をしている可なりの丈高い樹があった。ハテナ、芽出しの早い樹である。一寸おもしろい樹であるが、何の樹であろう。あそこにあんな樹が有ったかしら、と少時(しばらく)考えたが、忽ち思い出した。その樹は成程前からあった樹であった。それは去年の雨の無い嵐の時に一度は自分の注意を惹いた樹であった。
 去年の嵐は例年とは異なったものがあった。嵐という言葉は暴(あら)い風ということであるから、雨の無い嵐と特にいうには当らないのであるが、我が国では大抵東南風に強暴なのが多くて、そして東南風は大抵雨を伴うものであるから、嵐と云えば単に暴風を意味しないで暴風雨を意味するようになっているほど、嵐が雨を付けて来ることが多いのである。ところがどうしたことか、去年は碌に雨を付けない暴風が吹いた事があった。しかもその風はかなり強い風で、もし雨を伴っていたら都の大部分に大損害を与えたであろうが、幸いに雨という重量のある随伴者を従えていなかったので、風自体の圧力だけの働きで雨の打撃力を欠いていたので、土地に湿潤による抵抗力の弱化を生じさせることもなく、被害の程度も大いに減少されたのであった。しかし庭園や畑のものは建築物等に比べて多くの痛手を負った。というのも東南風は南海千里を渡って来るために風の中に非常に濃厚な塩気を含んでいる。その塩気が雨に伴って風の吹く場合には、雨のために洗われて、少なくも樹木や菜蔬の葉面(はづら)から除かれるのであるが、雨が無いとなるとその濃厚な塩分は葉の表裏に付着したままになって、人目にこそ顕著ではないが、乾し固まる気味になる。青菜に塩という形容詞がある位で、塩は草木には大毒大敵である。その葉に無理やりその毒物を塗られては堪るわけのものでは無い。そこで海気塩気に堪える性質が強い黒松を除いては、檜でも赤松でも大抵の強い樹でも皆弱りかえって、人間なら肺病患者のようになって、死亡したり、或いはかろうじて生き永らえているという姿になってしまう。東京の東南部の海風が直(じか)につく方面では、今でもその痕跡を残していて、生存している檜などもその樹頂は枯れ、その樹枝の南面部には明らかな傷跡をのこしている。実にその当時いかに風中の塩分が濃厚なものであるかを、試しに樹葉を嘗めてみて悟ったことがある。しかもまた、当時の嵐が我が印象を深めたのは、雨を伴わない割には我が庭や隣家の庭の多くの樹木をその根から抜き倒したことであった。
 これは風力が強かったためだけではない。原因を言えば市政のためである。一体この十余年以来、一つは市外地の戸数が激増したためでもあるが、また一つは工場の増設により生じる煤煙が多量になっためでもあるが、須崎・寺島・隅田・亀戸・吾嬬・押上・請地等の土地は、甚だしく樹木の生存が迫害されている。亀戸の臥竜梅園、小村井の江東梅園、向島の百花園、これ等の梅園は皆見る影もなくなった。百花園だけは人間の努力によって辛くも旧名を保つことが出来ているが、それでも梅は昔日の面影を失っている。江東梅園は特に園も廃止されて跡形も無くなっている。臥竜梅園も最早余命幾許もない。天神祠内の梅も昔日の面影を失っている。梅は濶葉樹ではあり、特に煤煙には弱いものなので致し方もないが、梅だけではなくその他の種々の樹木も、皆衰残の状態を余儀なくされている。江東に名のあった大木の松などは大抵枯死して終っている。吾妻橋の上に立って二十余町を隔てながら、北の方に望見することが出来た番場の槻(ケヤキ)の樹なども、今は有るか無いか分からなくなってしまった。田の境の榛の木でさえ、みな末枯(うらが)れを見せるようになって、庭園用松樹の仕立てを以って村の特産とするかの観があった請地・押上の村々にも、高く茂った美しい姿は見ることが少なくなった。
 このように樹木の生育が迫害されるようになった原因は一つや二つでは無いが、前に挙げた原因のほかに、一大原因は地下水位が高くなったことである。地面を掘って水を得る、それは何処でも普通のことであるが、二尺掘り下げると水が出る所もある。三尺掘り下げると水が出る所もある。一丈または一丈五尺掘り下げると水が出る所もある。樹によってはその水の中へ根を下ろすものが無いではないが、多くの樹は水の中へは立根を下ろさないものであるから、地表から水までが遠ければ遠いほど樹は根を下ろすことが出来て、随って直根や横根の垂下と派出とによって自己の地盤を安定させ固着させ、そうして樹幹と樹枝との直立と繁生が得られるのであり、栄養を地下と空中とから得てその生を営むわけである。しかるに従来は地表から水までが二尺であった土地が、もし水位が高くなって地表より一尺で、もう水に達するというようになれば、樹木は自然と一尺だけ根を縮めなければならなくなる。即ち言わず語らずの間に水は樹木の脚を半分だけ切り詰めてしまう訳である。樹木の安定固着を甚だしく損害し、その樹木が丈高ければ丈高いだけ、その樹の生存を危険状態に置くのである。
 東京市が隅田川下流に埋め立て地を造ったり、河口の面積を狭くしたりして顧みない結果は、海をしてその干潮の時に当って、河水を収容する働きを十分にさせない結果になるので、隅田川の水面は二十余年前に比べて幾分か高くなっている。そうでなくても東京湾のような南に面している湾の海岸は、自然の勢いでその南に面している浜は年々土砂が堆積して行く傾向にある。この傾向を利用して東京湾の湾部に新田を造ることが容易なことは、既に佐藤信淵が早くから唱道しているくらいで、そしてまた信淵の技術を得た者であろう、某という男が海岸に新田をこしらえては、これを売って利を得ていたことがあり、かの二宮尊徳がこれを視察したということを何かの書物で読み知った。遠州や相州のように海岸が直ちに大洋に面しているのでは無く、巾着のようになった内海(うちうみ)であるのに、南風の衝撃や年に幾度かの東南風や南風等の猛襲で生じる大暴風雨による海水面の上昇を繰り返すのであるから、どうして湾内の土砂が外洋に搬去されることが出来よう、またどうして東京の地先を土砂の堆積無しにできよう。まして水源地の山林の愛護を欠き、堤防はいいかげんな人間的技能・・換言すれば反自然的な技能で、無理に河流を圧迫して直線的にしたために、日々夜々を土砂は逆落しの勢いで推し出す。新利根川や隅田川の吐き出す夥しい土砂が、湾の形状や位置や風浪の作用によって東京の地先に堆積されるのであるから、どうにもこうにも出来ない。これを市政・府政を執る者の短見無考慮と結論するのはもちろん苛論である。大古の姿を考えるまでもなく、東京の水沿いや川辺の地名を考えれば直ぐに分かることであるが、隅田川近くの須崎は洲崎であったに相違無く、隅田は洲田であろうし、寺島は一寺早く建った島形の処であろうし、汐入村は村の名が昔を語り、水神祠の所在地を浮島と云い伝えているのも昔を教えている。入谷だの何谷どのというのは、もとは谷地即ち水捌けの悪いじめじめした地であったのだろうし、根岸は横浜の根岸のように陸の裾であったろうし、三河島も洲であったろう。押上は風濤(ふうとう)の作用で押し上げられて出来た地で諸国に類名がある。柳島も洲である。請地は浮地(うきじ)であり、宇喜多が浮田であると同じである。新利根川近くの大島(おおじま)は云うまでもなく、中川裾の砂村も、市接続地の洲崎も、皆その名はその土地を表わしている。これ等を観ればこれ等の地はどうして出来たか分かることで、またその土質を見れば永い永い間に砂流れ泥澱(よど)んで肥沃の土地を造ったとも想われる。即ち自然の摂理だけが行われていた永い永い間は、河口は今よりも遥かに北に在って、そしてその幅は驚くほど広くて、小さな三角州(デルタ)は勝手次第に沢山存在し、春や秋の大干潮には底を見せ、大満潮には呑み込まれてしまう蘆や蓼の間を本流以外の細い流れが網のように流れていたことであろう。それがまた永い永い間に次第に南方に移って、北方または高い土地から次第に田にされ住地にされるようになり、鎌倉時代・足利時代から大いに開け、江戸時代からいよいよ開けたのであろう。この自然の趨勢や傾向を見て佐藤信淵は湾内の新田開発経営の計画を立てたのであるから、東京地先の南進は、有るべき生じるべき為すべき成るべきことなのである。
であるから、東京地先の南進を図ることを非とすることは出来ない。しかし河口に至るまでの距離を計算に取り入れないで、河水を収容する直接場所の淵の広さを考えなかったりして、河流の放散を不容易の状態に置くことは大失計である。両岸の堤防を高くすれば水は圧迫されて、厭でもその間を流れるけれども、水の流れ下るには時間というものが必要である。その時間が放散不容易で長くされれば、やがてその水は放散されるにしても、ある時間は高い水面を維持することは自明な理屈である。この理由で渇水の時に大利根川のような河の中へ、岸から中流に向って脆弱稀疎な竹籬のようなものを植えると、その見るかげもない竹柵が、汪々として流れる水の速力を殺いで、流下して行くに要する時間をくすね溜める働きをする。その働きは忽ちのうちに水面にあらわれて、その為に水面は幾分か高くなる。その水面が高くなって増加した水深の恵みを利用して、やや大きな船が通行できるようにするのである。少しばかりの竹柵でさえこのような働きをするのであるから、河流が放散不容易な状態に置かれるということは、案外とその水面を高くするものである。日本橋区地先に中洲の出来たことは、どれほど隅田川の放流を阻害していることか。橋一つ架けられてさえその上流の水面は幾分か高くなるのに、まして中洲が水の多い時は隠れ洲になるような洲で無く、何時でも水面上に現れていては、どれほど水流を阻害し、その上流水面を高くするか分からない。中洲は徳川時代にも一度出来たが、その不利が明らかになったので取り除かれた事がある。それが今では高価な土地として確立されている。河底の藻でさえ刈流しをしなければ甚だ水流を阻害すると云われているのに、中洲が出来たばかりで無く、月島という大きなものも出来、相生橋も架けられている。新地の端は次第次第に埋め立てられて、事実に於いて隅田川は余程その長さを増し、河水放散は昔日に比べ大いに容易でない状態に置かれている。この結果上流の水面は平時に於いても余程高くならざるを得ない。平時の水面が高ければ、ひとたび豪雨が降ったり、沖合から南風や東南風が強く吹いて海潮を高めた場合には、洪水氾濫だの、津波の襲来だのが起こり易いのは明らかである。東京市中の従来出水しない土地で頻々と近年出水するようになったのは、堤防設備が不完全になった為でも何でもない。三河島や三ノ輪や入谷や浅草や浜町や蠣殻町や築地がともすれば出水する原因は何か、考えて見れば分かることである。また津波の惨禍は大昔にもあったに相違ないが、隅田川などの水面が平時に於いて高くなければ、同じ津波の場合でも高潮の奥入りを深くして自然の調節をするから、砂村や洲崎でも幾分かその禍(わざわい)を緩和することができる。またそれほど激甚でない場合には何らの被害をも受けずに済む訳である。こういう勘定で、隅田川の水面が平時から高いということは、東京市の暴風雨および津波についての危険度を高くしているのである。まして東京湾の春秋の大潮は潮の干満だけでも七尺の差があるのであって、地盤の低い市にとっては七尺水が膨れるということは軽いことではない。それにまた東京の暴風雨は大抵東南風または南風であるから、その風は大洋の水を湾内に引き入れるだけでなく、西方より流れて来る隅田川の水を上へ上へと押し上げてその流下を滞らせるから、河水の放流は二重にも三重にも不容易になるのである。これでは東京市が水害に悩まされることは有るべき道理で、不思議でも何でもない。
そこで河川放流のために、莫大な費用と労力とを捨てて、新しい川を造るために地味の肥えた土地を掘削し、いわゆる新中川を完成させようとしている。まことにご苦労千万なことであるが、その東京地先を埋め立てて新中川を掘る有様は、何のことは無い、本来の尿道を閊(つか)えさせておいて別に手術をして腹部に小孔をあけて、そこから膀胱へゴムのカテーテルを挿し込むようなものである。実に医術は巧妙になった世の中であり、施政も巧妙になった世の中である。ホニホロというものは巧みに馬に乗っているが、その馬は造り物で自分の脚であるいている見世物である。私等の子供の時はホニホロの巧妙なのに感歎して楽しんで観たが、今も世間が「何とやらの何とやら実はホニホロ」の芸当を感歎して観る楽しさを失わないことは、まことに太平の民としての余栄である。しかし芸術は進歩しても死というものを無くすことは出来ない。土木が進歩しても施政が進歩しても水害が起こっては是非も無い。政治をする者や土木の技術者を責めても酷なことは、人が死んだからと医者を責めるのが不道理なのと同じである。時々水害が起きるのは地面の洗濯だとでも思って、「あきらめる心の底はむごい也」で、一寸いやな気がするが、まあ皺くちゃ面(つら)にならない道ではあろう。そうとでも片付けて置かなければ、常習性不平狂という病名でも頂戴して、脳病院で生き埋めにされてしまうことだろう。
河はいうまでも無く、その近傍地の雨水下水等の流れ注ぐ処で、そしてこれ等の水を海へ運び去るのがその自然な摂理である。しかるにその平常時の水面が高いと、洪水や津波等の異常時はさて措き、平常時に於いても近傍地の雨水下水等を運び去る働きが鈍らざるを得ない。即ち水面が一尺高くなれば、一尺だけの雨水や下水を運び去ることが出来ない訳である。この理屈で河水面が一尺高くなれば、近傍地は乾風や日照以外では水がひかないから、雨水下水は停滞を免れない。まして人家が多くなって稲田も蓮田も少なくなり、不完全な下水道に何時も悪水が溜まっているようになれば、乾風日照の働きも及ばなくなって、地面を掘れば忽ち水を見るようになる。そこで一帯の土地の地下水位が高くなってしまう。隅田川上流近傍各地の地下水位が高くなったのは、この理由によるので、我が庭でも隣家の園でも、何処(どこ)でも彼処(かしこ)でも、一様に十余年前よりは地下水位が高くなり、そしてその結果として前に言ったように一切の樹木が、根を下ろす土地を薄められ、終には地表の僅かばかりのところの上根で生きているような情けないことになる。それでも寺島や隅田はまだしも可(よ)いが、亀戸などは戸数の激増によって起こされる多量の下水及びその排出不能のために、土壌に変性をきたして、土地が甚だしく悪化し、空気の不浄と相俟って、植物の悶死を余儀なくされるようになった。菅公廟苑の梅でも臥竜梅園の梅でも皆このために悩み、菜でも何でも碌に生育しなくなったのはこの為である。我が庭は幸いにまだ酸性土壌になるほどでは無いが、隣家の庭と共に既に地下水位が高くなった結果、樹木は僅かに上根で生きているようになって、水を嫌わない或る種のものの他は、地面に対する固着安定が甚だしく阻害されていて、そこへ雨こそ伴わないが、かなりの強い風に見舞われたのである。

そこで檜(ヒノキ)類などは、平常から相互にマセ竹などでその傾倒を防ぐ手当を十分にしておいたにも関わらず、哀しいかな根入りが浅いので二本揺らぎ三本揺らぎ出して、あたかも宗教心の無い人が少しの悲境にも忽ちぐらつき出すように、暴風の中で惨苦の状態を呈し始めたはかない抵抗は永くは続かなかった。或るものは倒れ掛かって半ばその白根を露出し、或るものは歪められ捻られてその頭を地に着けた。孤立していた赤松は自分が倒れただけでなく、他の榧(カヤ)や小さな檜にまで累を及ぼし死んだ大蛇のようにその屈曲した幹を大地に蜿蜒とさせた。その他の樹木も各々痛手を負って、濶葉樹は葉をむしられ坊主になって降伏した姿になるのもあれば、椎(シイ)などの丈夫な樹は小枝と小枝とを併せてあたかも拝むような状態をして憐れを乞うかと見えた。これらの有様を見て、或いは支柱を与え、或いは控え綱を与えて、なるべく惨害を少なくしようとして自分は、かなりの間小さな庭の中でまごまごしていたが、後にはどうにも出来なくなって、ただ自然が権威を振るう有様を打ち眺めていた。(望樹記③につづく)

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