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幸田露伴の随筆「読書楽」

読書楽

 春の雪が思いがけず降り出して、いつもは見所も無い小庭の樹も石も、いささか人の心を惹く趣きを現すときなど、戸外に遊び興じて、きれいなものを泥まみれにするのも気が進まず、そうかと云って酒も茶も飲みたくなく、ただこの身の中に空虚なようでしかも自ずから柔らかな喜びが有り、動きがないようでしかも自ずから湧きあがる力が有って微かに働く、このような心地は誰もが覚えることであろう。このような時に詩歌の本などを読んで、たとえ幼くとも誠を称え、難しくとも思いの美しいものに接した悦び、ソモソモこれを何にたとえよう。
 鬱陶しい梅雨の頃は、万物は皆潮を含みカビを帯びて為(す)ること成すこと快く無く、吾が身さえ腐って行くように感じる時がある。飲むならば火のような酒、語るならば仏を殺し祖を殺すような友、と思うがそれもバカなことと、ただ有りふれた書を取り出して、漫然と眼を移して行く中にふと世を忘れる悦び、また云うべき言葉も無い。有りふれた書とは正しい書である。奇書珍本や有りふれない書は宜しくない。馳騁田猟(乗馬や狩猟といった娯楽は)は面白いが日常の事では無い、人の心を狂わせると老子も云っている。書もまたそうである。 有りふれた書こそ、面白くないようで結局は、大抵が面白いのである。
 寂しい秋の夜に、ただ灯火の明るく、風の音だけが窓外に響く時、総ての事を忘れて読もうとする書に対して、知ろうとすることを学んで、全心其書となり全書吾心となって、澄み切った境地に灯光も風声も無く、他の瓶の水を吾が瓶の中へ一滴も零(こぼ)さずに移し入れることが出来たような満足を感じる。その書の可否は結果は後日の事である。ただ書と吾とが相対して一体となり得た、その境地が楽しいのである。
 寒い冬には何事も怠り勝ちになって、ただ埋火のもとに書を繙く、それは老いた読書人のする何時もの状態(さま)である。それとは異なって、年の瀬が迫ってくると、何もかもが慌ただしく、心忙しく、思いも切実になる中に、少しの暇を得て、眼も速く心も敏く、三行・四行を一時(いっとき)に看るように貪り読んで、寒さもひもじさも忘れ夢中になった時の楽しさ、読書に依って得る利徳はしばらく措いて云わないが、夢中三昧に入ったその時の状(さま)は極めて楽しい。
(昭和十三年十月)


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