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戦国時代の長崎とダイバーシティ

こんにちは!前回は長崎史とジェンダー問題について考えましたが、これもまた、今話題のダイバーシティ(多様性)と長崎という町の繋がりについて考えてみようと思います。

というわけで例にもよって長崎検定の勉強をして思ったことなのですが、

「最近ダイバーシティとか移民問題とかよく話題になるけど長崎、ずっと前からもう達成してない?」

はい、このようなことを感じました。なんなら日本における元祖多様性の町といっても過言じゃないと思います。どの辺が多様性ヤバいなと感じたところなのか、ザックリ2つあります。

まず1つ目は集まってくる人たちの身分、職業、理由など本当にバラバラだというところです。

普通の町だと先祖代々住んでいる人たちがいて、そこから人口が増えて街が発展、みたいな流れだと思います。つまり皆さん、文化、言葉、職業あらゆるものが似通ってきます。博多・大阪なら商人、その他の地方だと農民、といった感じです。

一方でもともと田舎or人が住んでなかったところに流入して街が発展というパターンもあります。これは江戸、鎌倉、長崎なんかが当てはまります。

と、ここまでだと「じゃあ江戸も鎌倉も多様性の町じゃん」と思われると思います。ただ、この2つの町と長崎には大きな違いがあります。それこそが集まってくる人の身分だったり職業だったりです

江戸、鎌倉は政治の中心として集まってきたのはだいたい武士or商人。一方の長崎はというと挙げると本当にバラバラなのですが

各地で迫害されたキリシタン、
戦乱で村を追われた農民、
野武士、
南蛮貿易の利益を求めた商人など…

本当に理由も身分も職業もバラバラなのです。そしてこの中で実力をつけた人が頭人というリーダーとなってその人を中心に長崎は発展していきます。

なので長崎は身分、家柄は関係なく才能を重視した実力主義がスタンダードになっていきます。

↑これも何気に今日本で言われていることを450年も前に達成しています。

そしてこれも前回書いた長崎で女性が活躍できた理由の1つなのかなと思います。

そんな長崎の特性を代表するような人で村山等安という人がいるのですがなんとこの人、出身地も元の職業も不明な浪人で、得意の喋りで商才を開花させ長崎のトップである初代長崎代官にまで登りつめます

こんなところも長崎の街が特異な存在だったということを感じます。

2つ目ですが人種、出身地がめちゃくちゃ多様だということです。まず、長崎は南蛮貿易港だったので当たり前ですが、🇪🇸スペイン人・🇵🇹ポルトガル人がやってきます。そしてさらにその利益を求めて🇯🇵日本中から人がやってきます。

すでにこの時点でかなり多様なんですが、国際貿易港として有名になると🇨🇳中国人、🇰🇷韓国人、🇻🇳ベトナム人、などアジア諸国からも人が訪れるようになります。さらに、南蛮船の船乗りとして🌍アフリカ人、🇮🇳インド人などもいたという記録もあり、長崎には世界中の人たちが集まってきていたということがわかります。

そして少し時代は下りますが、江戸時代には🇳🇱オランダ人、幕末にはこれに加えて🇺🇸アメリカ、🇫🇷フランス、🇬🇧イギリス、🇷🇺ロシアからも人がやってきます。

と、このように長崎という町が450年前に作られて以来、ずっと多様性に満ちた場所だったということはお分かりいただけたでしょうか?

このようにここまで多様性豊かだった土地というのは日本でも長崎だけだと思います。

現在でもその精神は残っており、長崎はよそ者に寛容で来るもの拒まずの町だなんて言われます。

というか、ここまで多様性に満ちた歴史ならむしろ当然です笑

田舎は排他的だなんて言われますが、なんなら長崎は歴史的に見れば日本のどの町よりもずっと昔から多様性を受け入れ、違いを認めて多くの人が共存してきた町です!

そして今、地方移住や外国人技能実習生なんかが話題になっていますが、そんな今だからこそ!長崎の来るもの拒まずの精神を思いっきり発揮して世界中から人を呼び込むのもいいんじゃないかと思います!

最後までお読みいただきありがとうございました!

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