考えの整理整頓セッションのあと。

先日、寺尾一則さんの『考えの整理整頓セッション』を
対面で受けました。

わたしの思い付きで
普段はオンラインでのセッションなのに
『リアルでお願いしたい!』と。
また、てらちゃんの奥様・寺尾瞳さんにも同席してもらいたい
とお願いし
3者セッションが実現しました。

てらちゃん×ひーちゃんのステキなブログはこちら♡
文章はてらちゃんが、画像や見やすい配置編集などはひーちゃんが。


ここには
セッションを受けての経過を
記録します。



セッションを受けた直後は
『やっと引っかかりがとれた!!』
『絡まっていた糸がほどけた!!!』
『すっきりした~~』
と嬉しくなった。

絡まった部分がほどけたことが嬉しくて
そして
一緒にほどいてもらえ、ほどける様に立ち会ってもらえ
最高に幸せだと感じていたし
とてもテンションが上がった。

帰りの新幹線で
35年の人生の最大の課題がクリアになったことを
SNSで報告した。

投稿を作成している間も涙が止まらなくて
一人大粒の涙を流しながら
でも、『報告しない』という選択肢はなくて
とにかく、自分の中から発信したい、吐き出したい
そんな想いで投稿したし
この日お会いした皆さんに感謝した。
もちろん、家族にも感謝したし
この日までのご縁にも、感謝の氣もちが止まらなかった。
何より、自分自身に対して
『今まで、ほんっとーによく頑張ってきたなぁ!!!』
『ここまで向き合ってきたなんてすごい!!!』
と労いの言葉を心の底から向けることができた。

そんな感動や感謝、労いを感じ切ったあとから
なんだかぽっかりと穴が開いた感覚を味わうことになった。

『これから、わたしはどうなるんだろう?』

ふと、そんな不安?怖さ?
先が見えないような感覚。

35年の人生で
しがみつき、重きを置いてきた思い込み。
わたしの行動の基準だった思い込み。
『ルールに従わなければ愛されない』
が、すっと消えたことで
わたしは、これから何を基準に行動すればよいのか
何を指針に自分を動かしていけばいいのか
分からなくなってしまったんだなぁぁ

日付が変わって帰宅したが
たまたま夫が目を覚まして
残っていた洗濯物を一緒に干してくれていた。
わたしの話を聞くのではなく、
夫がぺらぺらとその日の出来事をしゃべっていた。

でも、わたしはそれがここちいいと思った。

その日、わたしに起こった出来事は
まだ、自分の中で整理整頓ができず
そのときは
すっきりした感覚とぼんやりとした不安感
があり、なんと説明すればよいのかが分からなかったから。

ただ話をしてくれて
夜の静かな時間をともに過ごしてもらえたことに感謝であった。

一夜明けて日常が戻る。
思い込みが明らかになったからと言って
いきなり現実が大きく変わるわけではないんだな
ということを痛感する。

この文章をつづりながら氣づいたことは
『ルールに従わなければ愛されない』
という思い込みは
潜在意識の奥深くに眠っていたもの。
セッションでは
潜在意識の奥深くにあった思い込みを
顕在意識で認識できるようにしてもらったのだ、ということ。

しかし、セッション翌日には
まだまだそんなことには氣づいておらず
なんだか地に足のつかない感覚に戸惑っていた。

目に映る日常さえも
なんだか軽い、起こっている現実・事象にリアル感が感じられず
ふわふわとしたものに感じていた。

たまたま午前に
コラボ企画のセッションを入れていた。

クライアントさんは
昨日の『すっきりして感動!』の投稿を見てくれていたし
企画の相棒も、関わりが深く、安心の関係だったこともあって
セッション当初に正直に
『ふわふわしているから、変だったら突っ込んでね』
なんて伝えることができ
2人とも、快く受け入れてくれたので
肩の荷が下りて、とても安心した。

セッション後
クライアントさんとの話に花が咲き
様々なご相談も受けた。
そうするうちに、少し氣分も落ち着いて
現状の自分を残しておきたい
と思いインスタライブ。

そんな中で
ふと『瞑想をした方がよさそう』と感じる。

今週に入って
パール瞑想が代名詞のパールちゃんのインスタ配信がとても氣に入っていた。
共感しまくりのお話を配信してくださっていて
ファンになっていた。

パールちゃんは瞑想の大切さや意義をお話してくれていたのだ。
それまでは、粛々と瞑想の配信だったのに
このタイミングで
なぜ、粛々と瞑想なのか
ということを力強くわかりやすく語ってくれていた。

瞑想をした方がいいのは分かっているのに
なぜか重い腰が上がらない感覚。

『その前に、あれを』
ばかりでなかなか瞑想に着手しようとしない自分がいた。

そして、やっと瞑想に着手すると
なんとすぐに寝入ってしまい
瞑想が入ってこない。

これは、疲れている。寝不足なんだ。

瞑想中に寝てしまう自分を否定せずに
冷静に自分の状況を察知できるようになったことに成長を感じる。

とはいえ
すぐに行動できるかというと・・・。

その日は子どもたちの習い事で
夕方にバタバタとして。
そんな中でもパールちゃんの配信を聞いていた。

結局早めには寝ず
普段よりも早めに帰宅した
ごきげんな酔っ払いの夫に
セッションのこと・そのあとになにを感じているかなどを
ぽつ、ぽつ、と話す。

そして、わたしはある事柄を
認めたくない、知られたくない、と思っていることに氣づく。

『幼少期、叩かれたことがある』
『思春期には叩き返した経験がある』

いろんなことを話してきた夫にさえも
このことを話すのにとても躊躇した。

やっとのことで
『夫は、子どものころ、親に叩かれたことがあるか?』
と問いかけるまではできた。

『俺は、叩かれたことはない。
親の言うことは基本的に聞いていたし、今も息子が言うことを聞かないのには、理解できない』
『親の言うことを聞かないならば、叩く、という選択をとっても、仕方がないと思う』

そんな返答が返ってきて、いろいろとショックだった。

また
なぜ口に出すのを憚っていたのかも自覚したので、そのことも伝えてみた。

『叩かれていた子=かわいそうな子、だと思っていた。叩かれていた自分は、かわいそうな子になってしまう。
それを認めたくないし、知られたくないから、なかなか言い出せなかった。でも、言いたかった』

『叩かれていたからかわいそう、という感覚はないなぁ。
躾として、必要だったのなら、それも仕方ない、と思う』

叩かれていたからかわいそう

ではない。

この解釈はほっとした。

また、躾で必要だ、という言葉だったり
育ちの中で叩かれていたことが、わたしが思うほど特別・異質なことではないということも、
意外な感じがした。

ここまで書いて感じたこと。

『叩かれていた子=かわいそうな子=特別な子=手をかけてもらっている・愛されている・関心を向けてもらっている』

そんなゆがんだ愛を求めている??
注目を浴びたくて
あえて親の言うことを聞かず
叩かれた、関心をもってもらえた、とわたしには喜びもあったのでは?

翌日は
何もしたくないし
誰ともしゃべりたくなかった。

しかし、この日に限って朝から夕方まで予定が入っている。

しかも、母とタイプの似ている方としゃべる1日。

正直、氣が重かった。

リスケのリスケでその日だったので
さすがに更なるリスケは言いだせなかった。

講座を受ける中で感じたのは
母は器質的に手を出しやすいということ。
また
わたしはルールを破りたい、自由氣ままがすき
なのに対して
母はある程度の枠の中での自由氣ままは楽しめるが
ルールや規律・ルーティーン・世間体などを重視するタイプ。
ルールを守らない人に対する批判の想いが強い、ということが分かった。

ここでも
叩かれていたことは、わたしが思うほど特別過ぎるようなことでもないのかもしれない
と思えた。

わたしにとっては苦痛だったが
母にとっては愛情表現の一部でもあったのかもしれない。

この日も朝から
瞑想をしたい
と思いながらタイミングを逃し続けていた。

午後の予定を終えたのに
そのあとも、何かと瞑想に着手せずにいる自分がいる。

お迎えにギリギリ間に合うタイミングで
なんとか瞑想をした。

とてもすっきりしたし
これまで、わたしは上半身や頭にばかり重きを置いてきていて
下半身に意識が向いていなかったことを感じた。
下半身がぐらぐらしているから、なかなか軸が定まらず、
ちょっとしたことに揺さぶられ、自分に戻るまでに時間がかかっているということも
なんとなくわかった。

いろんなことが分かっても
やはり現実はなかなかついてこない。

自分自身の感覚も
まだまだしみついたものに戻ってしまう。

そんな自分に嫌気がさし、自分の無力も感じる。

そしてまた、それを何とかしようとする自分がいた。

夫が帰宅したが
今日は一段と疲れていたしイライラしていた。

息子のちょっとしたうっかり行動に
殴りかかりそうな勢いを感じて
肝が冷えた。

わたしたちが寝室に行ってからも
何かモヤモヤを
『くそー!』
だったり
モノにあたったりで発散しようとしていることが分かる。

わたしはその状況がとてもいや。

ここ1か月ほどは
特にこの現象に敏感であり、『イヤだ、イヤだ・・・』と思い続けてきた。

この日、布団に入りながら分かったのは
この状況に、わたしはトラウマを抱えているということ。

実家でも、同じ現象が起きていた。
夜遅くに洗濯物を干す母。
朝早くに朝食や弁当を作る母。
起きているのに手伝おうとしない父。
うっかり余計な事を言ってしまう父。
そんな父に、母が怒りをぶつける。
大きな声で怒鳴り、モノにあたる。

わたしは、いつも、怖かった。
夜は眠ってしまえばいい。
しかし、朝にそんな声や音が聞こえると
この後、自分はそんなイヤな空氣の中に入っていかないといけない。
また一段とルールが厳しくなり
感情を押し殺す度合いが高くなる。

とても憂鬱だった。

起きたくなかった。
でも
起きなかったら、怒りながら起こされて
更に氣分が悪くなる。

夜も安心して眠りたかった。

びくびくして怖い想いをしながら眠りにつくのは、とても苦痛だった。

そんな子どものころの記憶が蘇った。

以前は、
わたしが大げさに捉えているだけ
と自己否定をしていたが
今回は違った。

『わたしが、トラウマだと感じているならば
誰がなんと言おうと、トラウマだ』
『他人にとっては些細なことでも、わたしにとってはとても重要な事』

これを思えたことも
自分にとってはとても大きな成長に感じる。

夜が明けても
また夫の機嫌が悪かった。

誰よりも遅く寝たはずなのに
誰よりも早く起きて
家計簿をつけて、
大きなため息をついていた。
『金がない・・・!!』
そう、寝起きのわたしに、直接的ではないけれど
言い放った。

わたしは罪悪感でいっぱいになった。

起業して稼げていない自分にダメ出しをされている氣分。
稼げてもいないのに
『氣分をよくするため』と言ってお金を使っていることに
ダメ出しをされた氣分だし、自分でもダメ出しをした。

今日一日、夫とは波長が合わない。
ずっと互いの地雷を踏みつけている。

お金がない、時間がない。

夫の口癖。

内側が外側だから、わたしが思っていることなのだ。

子どものころ、
あれほしい、これほしい
と言えなかった。
買ってあげるよ
と言われたときにだけ
伝えられた。
それでも数が分かる年齢では
かなり遠慮して選んでいた。

お金も愛もエネルギー。

お金をかけてもらえない
お金がかかることを願ってはいけない・願えない


愛をかけてもらえない。
愛をもらえることを願ってはいけない。
願っても愛はもらえない。

そんな言葉に変換できるなぁ
と感じた。

今日も
瞑想したい
と思いながらなかなか着手できなかった。
それでも、着手した。

そうしたら
何やら自分がフタしてきた
『イヤだ!!!』
と感じるところのフタが取れてしまったようで
とにかく地雷を踏まれる現実がやってきて
『くそー!!!』
な一日を過ごしている。

ふと
オラクルカードを引きたくなった。
どのカードも引いてほしい、伝えたいことがある
と言ってくれた。

流れに乗ろう。
何にでもなれる存在なのだから。
周りの評価は氣にせずに、好奇心を大切に。
インナーチャイルドを癒そう。
誰かに偉いと言われることに価値はなく
まずは行動してみたその姿がすばらしいのだ。
凝り固まった想いにとらわれず
自分のここちよさ・行ってみたいところを求めていい。

みんな味方してくれるカードだった。

そろそろお風呂や夕飯の支度をする時間だったけれど
カードちゃんたちが味方をしてくれたから。

この文章を綴る選択をした。

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