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勇気爆発バーンブレイバーンED「双炎の肖像」についての考察

オリジナルTVアニメ『勇気爆発バーンブレイバーン』はその独特の展開や、過去のロボットアニメなどをオマージュした表現などから、たくさんの人から注目されており、さらにED曲である双炎の肖像はアニメ本編の展開とのギャップから、視聴者に対して猛烈なインパクトを与えていると思います。

本noteでは、そんな『勇気爆発バーンブレイバーン』に関して、いくつかのアニメ作品と比較することで、その物語の前提としてミルトンの『失楽園』の存在がある事を示し、また、ミルトンの『失楽園』が『勇気爆発バーンブレイバーン』という作品に対してどんな役割を担っているのかを、最終話が放送される直前に考察します。

以降、『勇気爆発バーンブレイバーン』はもちろんですが、『少女革命ウテナ』『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』『キルラキル』『機動戦士ガンダム 水星の魔女』『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』『新世紀エヴァンゲリオン シリーズ』に関してネタバレがあります

ご了承ください。

ぜひ、『勇気爆発バーンブレイバーン』最終話とこのnoteの内容を比較してみてください。


1.失楽園のモチーフ

ミルトンの『失楽園』は、キリスト教文学を代表する叙事詩で、堕落天使Satanによる叛逆と、人類の原罪、楽園からの追放を描いた作品です

以降、ミルトンの『失楽園』を読んでいることを前提に説明をしますが、難解な作品であるため、今回のnoteを読む上で最低限抑えておきたい、重要なモチーフを以下に6つ示したいと思います

  • 神……絶対的な存在・人の親

  • 悪魔……神を妬み、人を誑かす存在、堕落天使Satan

  • 男と女・人……支え合うべき関係・自分の半身

  • 楽園……苦労せずにすべてが手に入る場所・隔絶された場所

  • 知恵の実・傲慢の罪……守らなければいけない約束

  • 惨めな姿……地を這いつくばる・喋れない・蛇

また、今回のnoteで扱う内容を理解する上で、もっとも重要な表現を1つだけ前もって紹介しておこうと思います

世界がーーそうだ、安住の地を求め選ぶべき世界が、今や彼らの眼前に広々と横たわっていた。 そして、摂理が彼らの導き手であった。
二人は手に手をとって、漂白(さすらい)の足どりも緩やかに、エデンを通って二人だけの寂しい路を辿っていった

ミルトン『失楽園』book12

この「安住の地を求め選ぶべき世界」とは、私たちが現在過ごしている、この現実世界を指しています

『失楽園』の中で、アダムとイブは自分たちの罪を反省し、促される形で楽園を出て、私たちが暮らしている世界(新天地)へ旅立って行く、ということが重要です

2.勇気の爆発

勇気爆発バーンブレイバーン』というアニメを考察する上で、ミルトンの『失楽園』との対比はとても重要な要素であると思うのですが、直接比較するだけでなく、過去にミルトンの『失楽園』を利用して作られたアニメ作品との比較を踏まえることで、より理解が深まると思うので、まずは『少女革命ウテナ』について、どのように『失楽園』が利用されているのかを紹介したいと思います。

(また、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』、『新世紀エヴァンゲリオン』についてもざっと触れようと思います。その他にもいくつもの作品がこの流れの中にあるのですが、挙げだすとキリがないので、今回はこの3作品に絞って、『勇気爆発バーンブレイバーン』とミルトンの『失楽園』の関係性を見てみたいと思います。)

世界を革命する力を

少女革命ウテナ』は幾原邦彦監督のアニメ作品です。(一応Wikipediaからあらすじを引用します。)

幼い頃に自分を助けてくれた王子様に憧れ、自分も王子様になりたいと願うようになった少女・天上ウテナは、入学した鳳学園で「薔薇の花嫁」と呼ばれる少女・姫宮アンシーと出会う。エンゲージした者に「永遠」に至る「世界を革命する力」を与えるという「薔薇の花嫁」をかけて戦い続ける生徒会役員(デュエリスト)たちは、ウテナがかつて王子様から貰った指輪と同じ「薔薇の刻印」と呼ばれる指輪を持っていた。ウテナもまたこの決闘ゲームに巻き込まれ、その背後にある「世界の果て」へと迫っていく…。

Wikipedia『少女革命ウテナ』あらすじ

昨今では『キルラキル』や『機動戦士ガンダム 水星の魔女』と物語の大枠が似ているという点から、話題になったかのではないでしょうか?

さて、『少女革命ウテナ』の紹介はこれぐらいにとどめておきまして、今回重要なことは、この『少女革命ウテナ』がミルトンの『失楽園』と物語の大枠について共通部分があるということです。

まず初めに、『少女革命ウテナ』という物語は、棺という閉じた世界にいた天上ウテナが、姫宮アンシーを学園という閉じた世界から連れ出す物語です。

これは『失楽園』のアダムとイヴがエデンの東の方にある楽園から追放されることと対応しています。

「永遠」に至る「世界を革命する力」は『失楽園』における知恵の実を表しており、また世界の果ての正体であるディオス(王子様)の成れの果て、鳳暁生は堕落天使Luciferの象徴である暁の明星からその名前が付けられています。

本格的に解説していると長くなってしまうので、今回は一旦ここで切り上げて、とりあえず以降は『少女革命ウテナ』がミルトンの『失楽園』と物語の大枠について共通部分があると仮定したいと思います。

そう仮定した場合に、重要となるのがディズニーのアニメ映画作品の存在です。というのも、『リトル・マーメイド』をはじめとしたディズニーのアニメ映画作品ではミルトンの『失楽園』を利用しておとぎ話などが作り替えられているからです。

これが重要になるのは、『少女革命ウテナ』が作中作としておとぎ話が登場し、また、「王子様」や「薔薇の魔女」と言った単語が、おとぎ話に由来するからです。

リトル・マーメイド』とミルトンの『失楽園』の関係については、僕がかつて『リトル・マーメイド』は、なぜ「ハッピー・エンド」なのかというnote記事の中で紹介しているのですが、その中で、僕は単に『失楽園』を利用しただけでなく、ある願いが込められているのではないか?という考察を紹介しました。

僕のnoteなので結論だけ引用すると、

海の持つ楽園性を獲得させようと意図して作られた『リトル・マーメイド』が「あなたの世界の一部になる」場面を描こうとした、ということは、表現者は『リトル・マーメイド』という楽園が、私たちの世界の一部になってほしいと願っていることを意味するはずです

『リトル・マーメイド』は、なぜ「ハッピー・エンド」なのか

このnoteで紹介した『リトル・マーメイド』のラストの場面は先ほども紹介たミルトンの『失楽園』の12巻ラストの表現と重なる表現です。

世界がーーそうだ、安住の地を求め選ぶべき世界が、今や彼らの眼前に広々と横たわっていた。 そして、摂理が彼らの導き手であった。
二人は手に手をとって、漂白(さすらい)の足どりも緩やかに、エデンを通って二人だけの寂しい路を辿っていった

ミルトン『失楽園』book12

そして、先ほど紹介した『少女革命ウテナ』という物語が、棺という閉じた世界にいた天上ウテナが、姫宮アンシーを学園という閉じた世界から連れ出す物語だ、という話が重要になります。

両者の表現は閉じた世界からの旅立ちを明確に意図しているのです。

僕がなぜこんな話をしたのかというと、それは『少女革命ウテナ』はミルトンの『失楽園』だけではなくて、ディズニーの映画作品の『失楽園』の利用を前提としている可能性がある、と考えているからです。

もしそうであるならば、『少女革命ウテナ』のラストの意味が明確になるからです。

話が入り組んでしまいましたが、ここで『勇気爆発バーンブレイバーン』に関連して、特に注目したいのが劇場版作品『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』です。

少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』において、天上ウテナは姫宮アンシーを学園(ミルトンの失楽園における「楽園」)から外の世界へ連れ出すために、車の姿(ウテナカー)に変化します。

これはルイス・スミスがクーヌスと融合し、ブレイバーンとなって(ウテナカーへの変化)、イサミのピンチに駆けつけたことと対応していると考えています。

そして、先ほども述べたように、『少女革命ウテナ』は閉じた世界からの旅立ち……私たちが暮らしている世界(新天地)へ旅立って行く物語です。

これまでの仮定が、もしも正しければ、という話ではあるのですが、『少女革命ウテナ』で天上ウテナが姫宮アンシーを、『キルラキル』で鮮血が流子ちゃんを外へ連れ出したように、イサミとブレイバーンはお互いがお互いを閉じた世界から連れ出す役割を持っている……のかもしれません。

(幾原邦彦監督作品の『輪るピングドラム』、『ユリ熊嵐』『さらざんまい』との比較も行うとより深く考察できるとおもいます。)

アタシ再生産

少女☆歌劇 レヴュースタァライト』はブシロードとネルケプランニングによるメディアミックス作品および、同名のアニメ作品です。

少女☆歌劇 レヴュースタァライト』とミルトンの『失楽園』との類似点や考察については、僕以外の人が既に解説を行っているので、「舞台創造科3年B組 卒業論文」のウェブ転載版に掲載されているエデンでとぐろを巻く蛇――失楽園に沿ったマキちゃんの解釈や、スタァライトの『罪』 ~舞台の、舞台少女の、キリンの、そして我々の~などのnote記事を参照してもらえばと思います。

ここで重要なことは、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』がミルトンの『失楽園』を前提としていると同時に、『少女革命ウテナ』を前提とした作品である点です。

『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』作中で重要となる表現に「アタシ再生産」があります。

wikipediaを引用すると

キラめきを再び得て、改めて舞台少女として“生き返る”こと。

Wikipedia『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』用語集・アタシ再生産

とあります。

この「アタシ再生産」は、先ほど紹介した『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』において、天上ウテナは姫宮アンシーを学園(ミルトンの失楽園における「楽園」)から外の世界へ連れ出すために、車の姿に変化するシーンを前提としたアニメ的な表現が行われています。

(また、「アタシ再生産」は『メギド72』におけるリジェネレイトと同様に、ミルトンの失楽園11巻の表現に由来すると考えられます。『失楽園』の再生とメギドのリジェネレイトに関しては「リジェネレイト」の本質とは何か?を参照してください。)

勇気爆発バーンブレイバーン』と比較する場合、重要なことは、『少女革命ウテナ』に関する項とほぼ一致するのですが、ED曲双炎の肖像について考える場合に、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』との比較が重要となると考えています。

さよならすべてのエヴァンゲリオン

『新世紀エヴァンゲリオン』は庵野秀明監督のアニメ作品で、巨大な汎用人型決戦兵器とそのパイロットとなった少年少女と使徒との戦いを描いた作品です。

意外にもミルトンの『失楽園』との比較考察はネット上のオープンな場所に日本語で記述されている例は少ないのですが、今回の考察はあくまでも『勇気爆発バーンブレイバーン』についてなので省略させていただきます。

『新世紀エヴァンゲリオン』と『勇気爆発バーンブレイバーン』について比較考察をする場合、重要な場面は間違いなく、『シン・エヴァンゲリオン』のラストの場面のはずです

(説明は省略しますが、エヴァンゲリオン初号機が碇ユイと融合していることと、ルイス・スミスがブレイバーンであることは間違いなくリンクしています。)

『シン・エヴァンゲリオン』のラストの場面は『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』と同様に、ミルトンの『失楽園』のラストの場面と重なります

世界がーーそうだ、安住の地を求め選ぶべき世界が、今や彼らの眼前に広々と横たわっていた。 そして、摂理が彼らの導き手であった。
二人は手に手をとって、漂白(さすらい)の足どりも緩やかに、エデンを通って二人だけの寂しい路を辿っていった

ミルトン『失楽園』book12

勇気爆発バーンブレイバーン』は、『新世紀エヴァンゲリオン』のオマージュと思われる表現がいくつも見られるという指摘が行われています。

(庵野秀明監督作品でいうと『シン・仮面ライダー』や『シン・ウルトラマン』のラストにも当てはまるはずです。)

この様に、『勇気爆発バーンブレイバーン』はミルトンの『失楽園』を前提としたさまざまな作品を前提として、唯一無二の表現を行っており、それらの表現にそれぞれ理由があることが分かると思います。

3.「双炎の肖像」が伝えること

ここまでの話を前提に「双炎の肖像」について考えたいと思います。

「双炎の肖像」でもっとも注目されているのは、イサミとルイス・スミスが裸で舞台に立っている、という点でしょう。

シリアスな展開の後、男性二人が裸で手をつないで歌っているのだから、面食らうのもしかたありません。

しかし、ここまでの説明を読んでいれば分かると思うのですが、あの表現は「変」ではありません。

まず、舞台とは、演じる場所です。演じる場所なのに裸だから、不自然に感じるのです。舞台において重要なことは役を演じる事であり、役には対応する服装があります。

そして、それ(役目)を脱ぎ捨てて二人の男は立って、歌っているのです。

あるがままの姿を舞台に晒すことで、(勇者・英雄・救世主などのテンプレート的な役割から脱することになるので)却って彼らの本質的な勇気が問わる

ということを表すために、あのようなエンディング映像になったのではないでしょうか?

(観客と舞台・演者と役の関係については『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を前提とすると分かりやすくなるはずです)

4.感想

「長いぞぉぉぉぉぉおぉl!!!長すぎるぞぉぉぉぉぉ!イサミぃぃぃいぃっぃぃぃぃ!」

今回のnoteを書くにあたって僕がずっと思っていたことは、正直これです。
ちょっと気合を入れすぎた気がします。

引用が多く、他作品との比較を行う必要があるため、読みづらくなってしまったと思います。非常に申し訳ないです。

要するにルイス・スミスがブレイバーンになったのはウテナカーと同じであり、最終話にブレイバーンはアタシ再生産によって甦り、全てのエヴァンゲリオンにさよならするよってことです。(後から何とでもいえる予想を立てるな)

ただ、最終話の放送が滅茶苦茶楽しみだったので、勢いで書き上げました。このnote自体にはあまり意味がないのですが、このnoteを読むことにはきっと意味があるんじゃないかなぁと思っています。そうなったら嬉しいです。

今回のnoteで初めて僕の活動を知った方もいるかもしれないので、ラストになりますが、遅くなってしまいましたが、自己紹介をしたいと思います

僕はふだん「72これラジオ」として、スマートフォン向けRPG『メギド72』の考察をYouTubeやnoteに投稿しています

『メギド72』は、異世界からの侵略によって故郷を失った少年ソロモン王メギドと呼ばれる異種族の交流を描いた絶望を希望に変えるRPGです

僕はこの『メギド72』を考察していく中で『メギド72』は、物語の骨組みとしてミルトンの『失楽園』を利用しており、それによって何かを読者に伝えようとしている……かもしれないという事に気がつきました

この考察がきっかけで、僕の大好きな映画『ミュウツーの逆襲』をはじめとした作品でも『失楽園』が利用されているかもしれない……と考えるようになりました

今後も、メギドに限らず、様々な作品について動画・note,を公開していきたいと考えているので、興味をもっていただけた場合、Xアカウントやnoteのアカウントをフォローして僕の活動を追いかけてもらえたら嬉しいです!!!

ということで、今回のnoteは終わりにしたいと思います

それではまた、別のところでお会いしましょう
コンゴトモヨロシク……

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