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エデンでとぐろを巻く蛇――失楽園に沿ったマキちゃんの解釈

高島津 諦
https://odaibako.net/u/takatei
https://note.com/takatei

0.概要

 本稿は、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を旧約聖書の失楽園に見立てて解釈することで、華恋の叔母であるマキへの理解を深めることを目指す。

 議論は以下の順番で進む。

 前半の1~3章ではまず、古川知宏監督の発言を元に、『劇場版スタァライト』でのトマトを齧る行為は、舞台で生きる覚悟を決めたことの意思表示だと解釈する。さらに、トマトが『再生讃美曲』でエデンの果実と表現されていることから、『劇場版スタァライト』は旧約聖書の失楽園を下敷きにした成長物語であり、禁断を破る覚悟を決めて楽園から野生の世界へ出て行くストーリーだと主張する。その上で、TVシリーズや『ロンド・ロンド・ロンド』の終盤が新約聖書と重なっていた点を振り返り、モチーフにする聖書の順番が新約と旧約で逆転している奇妙さに注目する。そしてその逆転の理由を、スタァライトコンテンツを貫くテーマである、死と再生のループによる螺旋的成長の表現として説明する。つまり、人間の成長は旧約聖書→新約聖書→旧約聖書……のような繰り返しであり、TVシリーズと『劇場版スタァライト』は、新約→旧約という見かけ上は逆順になる時期をアニメ化したと解する。最後に、死と再生というテーマを卒業と新生活という身近なイベントに重ねることで、演劇界に限定されない普遍性を得たことを確認する。

 後半の4~7章では、本作は映画全体だけでなく個々のシーンでも失楽園を再現しているフラクタル構造の作品だと仮定する。その仮定に基づき、各シーンを失楽園に見立てるための「失楽園テンプレート」を試作し、マキ、華恋、華恋の母の役割を考える。そして、大人も失楽園テンプレート上で役割を持つことを示し、そこには大人も成長のループを続けられるというメッセージがあり、登場人物たちと視聴者に職業や年齢を問わない希望を与えているのだと結論づける。

 順番が前後したが、本稿における略称の扱いは以下である。『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を『劇場版スタァライト』とする。『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』を『ロンド・ロンド・ロンド』とする。TVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』をTVシリーズとする。『劇場版スタァライト』と『ロンド・ロンド・ロンド』とTVシリーズをまとめてスタァライトアニメとする。舞台版やメディアミックスなどの関連活動群を含めた全体をスタァライトコンテンツとする。聖翔音楽学園は聖翔とする。登場人物名は原則下の名前を使うが、眞井霧子と雨宮詩音は眞井と雨宮と表記する。


1.トマトを齧ることは覚悟を決めることである

 『劇場版スタァライト』の重要な要素が覚悟であることが、古川知宏監督のインタビューで語られている。

――本作のテーマについてですが、TVアニメからさらに一歩進んで、舞台少女としての覚悟が問われる内容になっています。

古川 TVアニメの制作を通じて、あらためて「役者さんって本当に面白いな」と感じたんです。TVアニメのときは、舞台ごとに自分を再生産している様子にスポットを当てて「アタシ再生産」という言葉を作ったんですけど、劇場版になったときに何を描こうと思ったら、やっぱり一歩進んで「覚悟」の話なのかなと。それを端的に表現しているのが「貫いてみせなさいよ、アンタのキラめきで」というセリフです。

“『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』監督・古川知宏インタビュー①”, Febri , https://febri.jp/topics/starlight_director_interview_1/
公開日2021年6月15日 , (2022年8月26日最終閲覧) ,

古川 (略)最初のレヴューシーンは、みんなで新国立第一歌劇団へ向かう途中に地下鉄が舞台に変形して、意訳すれば、ななちゃんから「お前たちは覚悟ができているのか?」と問われる。

“『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』監督・古川知宏インタビュー①”, Febri , https://febri.jp/topics/starlight_director_interview_1/ ,
公開日2021年6月15日 , (2022年8月26日最終閲覧)

 特に、「皆殺しのレヴュー」でのななの意図が、役者として生きる覚悟を問うことだと明かされている点は本作全体を考えるための大きなキーになる。

 まず、皆殺しのレヴューから続くシーンの流れを確認しよう。

 地下鉄車体上で皆殺しのレヴューが行われた後、幼稚園時代の華恋とひかりがスタァライトを観劇する回想、現在の華恋とななの地下鉄車内での会話、聖翔祭への決起集会を経て、再び車体上で華恋とひかりを除いた7人が自分たちの死体と対峙し、野菜キリンと会話をしてトマトを齧る。間に幾つかシーンが挟まっているが、血糊が散る地下鉄車体上という状況から、皆殺しのレヴューと野菜キリンのシーンはひとまとまりと考えてよいだろう。

 皆殺しのレヴューで、ななは「お前たちは覚悟ができているのか?」と問いかけたことが監督発言からわかる。一度は答えに窮した少女たちは決起集会で心を決め、回答としてトマトを齧る。よって、トマトを齧る行為の意味は、覚悟を決めた意思表示だと解釈することが自然である。(純那だけは、ななの問いをあまり理解しておらず覚悟も決まっていない。トマトを齧ったのも、周りに合わせた格好つけに近いだろう)

 ただし、“トマト=覚悟”ではない・・ことには注意を要する。トマトが意味するモノ・コトについて、もう少し細かく考えよう。

 『劇場版スタァライト』でキリンは「私はあなたたちの糧、あなたたちの燃料!」と語り、己の身を削って少女たちにトマトを提供した。この場面のトマトを即物的に解釈すれば、キリンという客・興行主からの賃金報酬であり、役者の食い扶持である。「お金をもらうからにはプロとしての覚悟が必要だ」という一般的な言い回しが教えるように、客から得る報酬が覚悟なのではなく、覚悟を決めた人間が報酬に手をつけられる。同様に、トマトが覚悟なのではなく、少女たちは決起集会で覚悟を決めたから、覚悟表明としてトマトを齧ったのだ。

 トマトを齧る行為の意味ははっきりしたが、トマト自体の意味は多義的だ。前段落ではトマトを賃金報酬の象徴としたが、それは一例に過ぎない。他にも、応援などの精神的報酬、地位、次への意欲、達成感、知名度、焦り、期待、嫉妬、恐怖など、様々なものが考えられる。次のトマトを得るために命を繋ぐ心臓にもなれば、苦悩を招く毒にもなるだろう。この多義性がトマトという小道具の魅力ではあるが、議論ではいささか扱いづらい。

 しかし幸いにもスタァライトアニメは、トマトの多義性を保ちつつも扱いやすい別名を既に用意してくれている。それは、『ロンド・ロンド・ロンド』のテーマ曲である『再生讃美曲』で歌われる、「エデンの果実」である。

2.トマトは禁断の実である

ああ 私たちは何者でもない
夜明け前のほんのひととき
幸せよ、君はいずこに
それが何か分からなくても 例えばそれがエデンの果実でも
だから眩しい

スタァライト九九組『再生讃美曲』

 この「エデンの果実」は、聖書に登場するエデンの園でアダムとイヴが食べた禁断の知恵の実のことであろう。『ロンド・ロンド・ロンド』公開当時はバナナだとする解釈が多かったが、『劇場版スタァライト』を踏まえればトマトと考えることもできる(*1)。

 トマトをエデンの果実=禁断の実になぞらえると、2つうれしいことがある。

 1つは、禁断という言葉はわかりやすく、議論に便利だという点だ。1章で述べたように、本作の登場人物は、覚悟を持ったことを表明するためにトマトを齧る。そして人に覚悟が必要になるのは、倫理や安全面などでよくないとされる行動の時、つまり禁断を破る時だ。ゆえに、トマトを齧ることは禁断を破るぞという決意表明であり、トマトは禁断の実だ、とラベルを貼ってよいだろう。このラベルにより、トマトの多義性を保ったまま簡潔に話を進められる。

 実際に本作で少女たちが覚悟を必要とした行為を幾つか言語化すると、99期生たちにとって未来の不安を受け入れること、双葉にとって香子との関係を変化させること、真矢にとって仲間への強い執着を認めること、などであり、禁断破りとくくって問題なさそうである。

 補足として、古川監督の禁忌への関心を示す発言も紹介する。

ーー(記号原文ママ) 特殊な性愛に関する本が多いように思えます。
(古川) 創作における「禁忌」についてずっと考えているからかもしれ
ません。人類は社会を成立させるためにタブーを用意していますけど、
それを破ることに物語性を見出してしまうので。タブーは常に「人間」
と接続しているので、その人の輪郭が浮かび上がる。(括弧内引用者)

“【インタヴュー】『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』監督・古川知宏の読書歴|第4回
/大正作家、セクシー本堂、特殊性愛” , tree ,
https://tree-novel.com/works/episode/2761a0f7b391f22e628aea152decfa2d.html ,
最終更新日2022年1月13日 , (2022年8月26日最終閲覧)

 2つめのうれしさは何かを説明するために、エデンの果実についての物語を確認する。宗教論などでは様々な意見があろうが、大衆文化として広まっている物語は概ね以下のようなものだ。

 神に創られてエデンの園で暮らしていたアダムとイヴは、悪魔の化身である蛇に誘惑され、禁断の知恵の実を食べる。その罪でアダムとイヴは楽園から追放され、人類は命に限りがある堕落した存在として生きる罰を受けることになる。だがキリストが自ら十字架にかかることで、人類全体の贖罪が行われた。

 『劇場版スタァライト』の内容は、この物語の前半、旧約聖書のいわゆる失楽園と似ている。すなわち、聖翔音楽学園(楽園)で過ごしていた舞台少女(イヴ)たちは、ななとキリン(蛇)に促されトマト(禁断の実)を齧る。そして学園の外に出て、役を奪いあう罪深い舞台人(人類)として生きていく、というストーリーである。野生とはエデンの外で生きることであり、『再生讃美曲』は、それが禁断を破る生き方であっても幸せで眩しいと讃美している。皆殺しのレヴューで、学園外の地下鉄、しかもトンネルから外に出たタイミングでななが歌いはじめる『wi(l)d-screen baroque』で、終わる役(イノチ)や野生が強調されていたことも示唆的だ。このように、本作を失楽園の構図で整理できるようになることが、トマトをエデンの果実とする2つめのうれしさである。

 だが、『劇場版スタァライト』を別の物語に仮託することは、作中で既に行われている。それは第101回聖翔祭用の『戯曲 スタァライト』に追加された「塔から降りるエンディング」であり、過去の成功である塔に安住せず不安を受け入れて外部へ歩き出そうという内容は映画全体と同じである。そこにさらに失楽園への見立てを重ねるのは、“再翻訳”のようなまどろっこしさがある。それでも失楽園の見立てを導入したいのは、鑑賞の参考になる情報が大きく増えるからだ。その情報の1つが楽園を出た後の物語、新約聖書に含まれる内容である。

 TVシリーズ終盤が新約聖書に似ていることは放送時点で視聴者に指摘されていた。舞台という過酷な世界で星を奪いあう罪深い少女たちを、棘のついた冠を被ったひかりが自己犠牲で救う展開はキリストの贖罪を連想させる。さらに、飯屋に行くのではなく自分たちで食材を持ち寄る最終話は、メシアに贖罪を任せず皆で罪と罰を背負うという彼女たちなりの失楽園の続きだと考えられる。

 しかし、ここには奇妙な点がある。新約聖書的なTVシリーズの後に旧約聖書的な『劇場版スタァライト』を作るのでは、モチーフの順番が逆ではないか(*2)。聖書を抜きにしても、せっかく贖罪をした後に犯罪をテーマにしているのである。この逆転の意図は何だろうか?

 逆転現象を理解するヒントも、スタァライトコンテンツは用意してくれている。鍵は、舞台版でもアニメでも強調されてきた、「死と再生のループ」である。


*1 過去作品のテーマ曲である『再生讃美曲』を参照する妥当性について補足する。『再生讃美曲』は、2020年8月7日に劇場公開された『ロンド・ロンド・ロンド』のテーマ曲である。古川監督のツイートに初めて意味深にトマトが現れたのは、2022年8月現在確認できる限りでは、2019年6月9日である。この日の古川監督は、無水チキントマトカレーを調理する画像の中心にトマトを写したり(23/6/1追記:該当ツイートは削除済み)、開催中だった『ガルパーティ!&スタリラ祭2019 in 池袋』の現地ツイートに唐突にトマトの絵文字🍅をつけたりしている(23/6/1追記:該当ツイートは削除済み)。これを境に、古川監督のツイートにトマトが増えていく。よって、『ロンド・ロンド・ロンド』制作中にトマトのアイデアはあり、『再生讃美曲』に織り込むことは可能だったと思われる。作品内容的にも、『ロンド・ロンド・ロンド』はTVシリーズと『劇場版スタァライト』を繋げるものである。以上より、『劇場版スタァライト』の解釈のために『再生讃美曲』を参照することに無理はないだろう。面白みのある想像としては、『再生讃美曲』は『ロンド・ロンド・ロンド』のEDテーマであると同時に『劇場版スタァライト』のOPテーマであり、エンドロールで流れる『私たちはもう舞台の上』はEDテーマだと捉えてもよい。一方で、絶対に『再生讃美曲』を参照しなければならない理由を述べることは困難である。本稿を読んで、『再生讃美曲』の参照が理解を助けるようであれば、結果的に妥当性があったと思っていただきたい。

*2 ただし、ミケランジェロの『サン・ピエトロのピエタ』に似せた姿勢や、『ジーザス・クライスト=スーパースター』を思わせる『スーパー スタァ スペクタクル』など、『劇場版スタァライト』にも新約聖書の要素はある。

3.ループによる成長を表現するために旧約と新約を逆順になぞっている

古川 (略)「アタシ再生産」というワードにもある通り、本作の大きなテーマのひとつに「死と再生」がありますから、そこはTVアニメの最初から最後まで一貫していると思います。役者は舞台に立つたびに「死と再生」を繰り返す存在として描いています。

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』監督・古川知宏インタビュー③, Febri , https://febri.jp/topics/starlight_director_interwiew_3/ ,
公開日2021年6月17日 , (2022年8月26日最終閲覧)

 スタァライトコンテンツは様々な死と再生のループに満ちている。そして、ななの再演などの一部を除き、ループは好ましいものとされる。なぜなら同じことの完全な再現ではなく、工夫や対立を経て改善された成果に到達し、到達点を次の原点とする繰り返しで進化し続けるためのループだからだ(*3)。そこでは1回限りを無限に繰り返す矛盾が肯定される。完璧な閉じた円環ではなく、未完の螺旋的成長がスタァライトコンテンツのループである(*4)。

 聖書をモチーフにする順番が逆転している奇妙さも、ループの表現として説明できる。

 中学校時代の少女たちにとっては、全国の才能が集まる聖翔こそが過酷な野生世界だったはずだ。だが、彼女たちは聖翔の環境に適応し成長したため、聖翔は野生から楽園となり、高みに向かうための星摘みの塔は安住の棺となった。ゆえに再び禁断を破り、塔を降り、楽園の外へ出る覚悟を決めねばならない。おそらく本作の未来でも、彼女たちは自分の進んだ環境に苦しみつつも適応してそこを楽園にし、掟を破ってさらなる外部に旅立つことを繰り返すのだろう。人間の成長は、死と再生、旧約聖書的試練と新約聖書的適応のループなのである。

 よって、TVシリーズ→『劇場版スタァライト』では、厳密には逆転現象は起きていないのだ。人生における、失楽園→適応による楽園化→失楽園→適応による楽園化→……のループを、“適応による楽園化→失楽園”のタイミングで作品化したために、見かけ上でだけ逆転しているのである(*5)。

 以上から、逆順に聖書をなぞる仕掛けは一見トリッキーだが、スタァライトコンテンツが描き続けてきた、覚悟を持って禁断を破り、破った先に適応して成長するというテーマに沿っていることがわかった。このテーマが大事にされてきたことは、覚悟という言葉が『Star Divine』『Circle of the Revue』『誇りと驕り』など中村彼方作詞曲に初期から出てくること、舞台版の台詞にも#1の純那の「しきたりとは破るためにあるもの」や#2の走駝紗羽教師の「掟を破るのが好きですね、皆さん」があることからわかる。

 さらに『劇場版スタァライト』は、禁断破りというテーマを引き継ぐだけでなく、普遍的に拡張することにも成功している。

 本章冒頭で引用した監督発言に「役者は舞台に立つたびに『死と再生』を繰り返す存在として描いています」とあるように、『ロンド・ロンド・ロンド』までは演劇界の物語であることが強調されてきた。たとえば「絆のレヴュー」で、華恋は「舞台少女は日々進化中。同じ私たちも同じ舞台もない。どんな舞台も一度きり、その一瞬で燃え尽きるから、愛おしくて、かけがえなくて、価値があるの。一瞬で燃え上がるから、舞台少女はみんな、舞台に立つたびに新しく生まれ変わるの」と、演劇の一回性を訴える。このように、普通の幸せを捨てた舞台少女だからこそ彼女たちは死と再生産を繰り返すし、観客は刹那性から生まれる一瞬のキラめきを味わうというニュアンスが強かった。

 そのため、演劇人ではない視聴者にも再生産を促すメッセージは――作品外で関係者が口にしてはいたが作品内では――薄かった。『ロンド・ロンド・ロンド』以前は、死と再生による螺旋的成長というテーマの普遍性が弱かったとも言える。だが『劇場版スタァライト』では、死と再生を卒業と新生活という身近なイベントに重ねることで、舞台少女のみならず誰しもに螺旋的成長が重要なのだとテーマの射程を拡張したのである。

 しかし、普遍性は陳腐さと紙一重だ。特殊な世界の過激な生き様として描く方が鮮烈な印象を与えやすい。面白く仕上げてこそ成功の娯楽作品において、テーマの普遍化は退屈になりかねず、簡単な試みではない。この難題を『劇場版スタァライト』は、圧倒的な{歌劇}体験のエンターテイメント性や、ストーリーはシンプルでもキャラクターの感情を強く届ける方針により克服したのだ。

 ここまでの前半1~3章の内容をまとめる。

 『劇場版スタァライト』は、旧約聖書の失楽園のエピソードを下敷きにしている。つまり、聖翔という楽園で過ごす舞台少女たちが、覚悟を決めてトマトという禁断の象徴を齧り、大人の舞台人が生存競争をする野生世界へ出て行く物語である。『ロンド・ロンド・ロンド』までが新約聖書、『劇場版スタァライト』は旧約聖書に対応しているという逆転現象があるが、それはスタァライトコンテンツの一貫したテーマである、死と再生のループによる螺旋的成長に沿った描写である。さらに、多くの人に身近な卒業物語とすることで、舞台関係者のみならず万人に螺旋的成長が重要だということが新たに強調されたのである。


*3 これはヘーゲルの弁証法に近い。命題(テーゼ)と、矛盾する反対命題(アンチテーゼ)の対立を経て両者を止揚(アウフヘーベン)し、一段階上の統合命題(ジンテーゼ)を生み出す。そのジンテーゼが次の世代のテーゼないしアンチテーゼとなり、さらに対立と止揚を経てより高次を目指し続けるという考え方である。ただし、厳密にはこの正・反・合の三拍子はフィヒテの用いた概念であり、日本にヘーゲル哲学が紹介される際に誤ってヘーゲル自身が用いた概念かのように流通したものである。なんにせよ、赤と青の二項対立の多用など、スタァライトコンテンツにはテーゼとアンチテーゼの対立からその先を見出すヘーゲル弁証法の影響が見られる。

*4 「その学校って、なにやんの?」「そりゃ、舞台の勉強でしょ(略)」「華恋、ずーっとプロになるためにがんばってきたしね」「舞台のプロって、なにやんの?」「そりゃ舞台でしょ」。これはとぼけた会話と思われがちだが、アマでも表現活動にいそしむ生活ができているなら、わざわざプロになる意味は何かという問題提起になっている。人がなぜ成長したがるのか、そもそも何を成長とするかを考えさせる重要な問いだが、本稿の主旨から外れるので深入りは控える。

*5 ループとトマトは、トマトマトマト……という言葉遊びとしても相性がよい。もちろんトマトは上から読んでも下から読んでもトマトなので、見かけ上の逆転は見えない。

4.失楽園テンプレートの提案

 前半では『劇場版スタァライト』の全体が失楽園をなぞっていることを論じた。後半では最初に、本作が全体だけでなく個々のシーンでも失楽園を再現している、フラクタル(入れ子)構造の作品であるという仮定を置く。TVシリーズの全レヴューは『戯曲 スタァライト』の再解釈だという制作者発言があるが(参考A)、それに似て、『劇場版スタァライト』では失楽園(≒塔を降りること)がキャラクターと表現を変えて繰り返されているのだとする。そうであるならば、失楽園のあらすじを補助線とすることで各シーンの理解が深まるはずだ。

 この仮定の上で、華恋の叔母であるマキが登場するシーンを失楽園に当てはめ、彼女が果たす役割について考えたい。マキに注目する理由は、事前情報なく登場した新キャラクターでありながらメインでもモブでもない独特な存在である点と、2022年8月現在彼女に焦点を当てた考察が少ない点から、論じる価値があると判断したためである。筆者が個人的に好感を持った人物だからということも書き添えておく。

 では、各シーンを当てはめるための失楽園のあらすじをまとめよう。それを本稿では失楽園テンプレートと呼ぶ。厳密に守ることが目的ではないと断った上で、失楽園テンプレートの内容は以下とする。

失楽園テンプレート:
現在の居場所に適応し安定を得ているイヴ役が、賢い蛇役による誘惑や試しを経て、禁断の実にあたる欲望や弱さやリスクを我が物とする覚悟を決め、楽園の外の過酷な野生世界へ出て行く。

 このテンプレートにアダム役は取り入れない。失楽園でのアダムは、蛇に誘われて禁断の実を食べたイヴに促されて自分も食べるという間接的な立場であり、二項対立の繰り返しを多用するスタァライトコンテンツの解釈では必要性が薄いからである。たとえば、なな→まひる→ひかり→華恋の影響関係でひかりや華恋をアダム役とするよりも、2人ずつに区切って蛇役とイヴ役の連鎖だと捉える方が適切であろう。

 紙幅の都合上、本作は失楽園を繰り返すフラクタル構造であるという仮定の厳密な検証は行わない。だが、議論の中で様々なシーンが失楽園の構図で読み解けることを示し、ある程度の確からしさを持たせる。

 例題として、皆殺しのレヴュー、決起集会前の執筆部屋、中庭の決起集会、「競演のレヴュー」を失楽園テンプレートに簡単に当てはめて、それぞれの「イヴ役/蛇役/禁断の実/禁断の中身」を整理すると、表のようになる。

表 失楽園テンプレートの使用例 (筆者の依頼をもとに円あすかが作成)

 いずれのシーンも、概ね無理なく失楽園テンプレートに当てはまる(*6)。論点先取的であるが、フラクタル構造の仮定と失楽園テンプレートの使用に一定の有用性はありそうである(*7)。

 ただし、少女たちはいずれかが一方的に相手の本音を暴くのではなく、互いに覚悟を問いあっている点は注意すべきである。ここも詳細な議論は省くが、「狩りのレヴュー」の純那とななは途中で蛇役とイヴ役が入れ替わる。まひるは皆殺しのレヴューではイヴ役だが、競演のレヴューでは蛇役になる。決起集会中庭の眞井と雨宮は他者だけでなく己の覚悟も問うことで、蛇役とイヴ役を同時にこなしている。このように、失楽園テンプレートを使う際には、同じ人物がイヴ役と蛇役を兼ねたり、お互いがお互いにとってのイヴであり蛇である関係も多いことを意識しておく必要がある。「魂のレヴュー」では真矢とクロディーヌが一方的関係ではないことが特に強調されている(*8)。


参考A クチナシ , “『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』アニメメイキングセミナー 第一部参加報告” , 明日はないよ記 ,
http://kuchinashi0303.blog84.fc2.com/blog-entry-71.html ,
投稿日2019年3月21日 , (2022年8月26日最終閲覧)

*6 ここで執筆部屋と決起集会を分けたのは、雨宮が締切破りを認めたくないという感情と、座組の一員としてよりよい舞台に相応しい内容を書けるか怖いという感情を別のものと考えたからである。私的体験として、本稿の執筆が滞っていることを主宰チームに報告しづらかった感情と、本稿が読者にどう読まれるか不安であることはやや違うという実感もある。たとえれば、連載作家が締切に間に合わず原稿を落とすことと、駄作かもしれない作品を発表することを別の禁断破りとした図なわけだが、仕事の出来に不安があるから完成できないのであり結局同じではないかという意見もあろう。その見方ならば、執筆部屋は他の99期生より先に雨宮が第100回聖翔祭を越えられない恐怖を受け入れるシーンであり、禁断と向き合う葛藤を生々しく見せるための描写だと考えてもよい。

*7 本書6章掲載の小田島すわ(2022)による、純那を中心とした『劇場版スタァライト』とジュゼッペ・トルナトーレ監督『ニュー・シネマ・パラダイス』の類似性の考察も参照されたい。『ニュー・シネマ・パラダイス』も「教会兼用の映画館であるパラダイス座(楽園)から外界へ出る」という失楽園を思わせる映画である。『劇場版スタァライト』という大きな物語と純那とななの小さな物語が、どちらも『ニュー・シネマ・パラダイス』との類似があり、かつ『ニュー・シネマ・パラダイス』が失楽園に見立てられる筋書きであることは、失楽園テンプレートの有用性の傍証となる。

*8 魂のレヴューでは、相互にイヴで蛇な関係がとりわけ目立つ。クロディーヌは控え室時点で既に己の弱さという禁断の知恵を認めているため、レヴュー内では主に誘惑する悪魔、そして蛇として振る舞っている。それは劇中劇中劇である『神曲真演 ウロボロス 美しきは人か悪魔か』でのディアボルス・ウロボロスという役名にも表れている。だがレヴュー後半の描写から、本質的には真矢とクロディーヌは互いを暴きあう、相互にイヴで蛇な関係であることがわかる。控室時点でクロディーヌが認めている弱さ、それは真矢によって一年次には暴かれていたものであり、どちらが先手でどちらが後手かは判然としない。ここでウロボロスの名が興味深さを増す。古来よりウロボロスの姿は、己の尾を飲む1匹の蛇の姿で描かれることもあれば、2匹の蛇が互いの尾を飲もうとする姿で描かれることもある。死と再生や無限の象徴であるウロボロスは、脱皮を繰り返すように螺旋的成長をループする作品テーマに合致すると共に、求めあう2匹の蛇かつイヴである少女たちの関係も暗示していると言えよう。

5.マキの失楽園テンプレートへのあてはめ:マキという蛇

(古川) 僕は創作において「大人が嫌な存在として描かれる」ことに拒否感があるんです。当然作品に必要なら徹頭徹尾「嫌な人間」を描いて演出しますよ。でも、「嫌な人間」を出しただけで人間社会を描いたと満足しているスタイルとは距離を取りたい。
『レヴュースタァライト』でも大人は最低限の関わりで、悪として描かないようにしました。「理想の大人がいたっていいじゃないか」というある種の祈りです。(括弧内引用者)

【インタヴュー】『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』監督・古川知宏の読書歴|第6回
/〈大人〉という存在。〈飛ぶ〉ということ
最終更新日2022年1月13日 , (2022年8月26日最終閲覧)

 マキは『劇場版スタァライト』で初登場したキャラクターである。華恋の母(以降、華恋母)との気安い接し方からして、母方の叔母であろう。彼女の登場時間は3分から4分程度だが、印象に残る存在である。スタァライトアニメにおける数少ない成人であり、古川監督の発言のように、華恋と気さくに接し適切な助言を与える、格好いい大人として描かれている。だが同時に、彼女の登場シーンには不穏な緊張感も漂っているのである。

 本章では、マキが本作においてどのような役割なのかを、失楽園テンプレートを使って考えていく。彼女の出番は華恋の回想シーンが2つとロケットに焼かれるシーンが1つだが、焼かれるシーンは台詞もないため、回想シーンを元に考察する(*9)。

 マキの初登場シーンは、2006年に幼稚園時代の華恋が『戯曲 スタァライト』を観に行く日である。だが議論の都合上、その前日の、幼い華恋がひかりから招待状をもらう場面から見ていく。ここは比較的わかりやすいので、あらすじの振り返りと失楽園テンプレートへの当てはめを同時に行う。

 華恋はひかりとの交友を通じて多少の活発さを身につけ、幼稚園でお弁当のつまみ食いやかけっこをするようになった。しかしまだ根は引っ込み思案で、キラミラのコーデも友人の意見に従っている。ひかりの質問にさえ「わかんない」を繰り返す華恋は、いかにも知恵を持たないイヴの役である。一方、ひかりの「もっとキラキラして、ドキドキすること、私知ってるんだけどなあ。知りたい? 絶対好きになるよ!(略)知りたい? 教えてあげてもいいよ?」と誘惑する姿は賢い蛇の役である。そしてひかりから華恋へ渡される『戯曲 スタァライト』の招待状が禁断の実にあたる。好きなものがなかった華恋は、この観劇で好きや憧れという欲望を知ることになる。華恋が頷くまでひかりが招待状を渡さない点も、失楽園の物語において、蛇はイヴを誘惑はすれども強制はせず、果実を食べる決断はイヴ自身が下したからこそイヴにも罪の責任があるとされることと重なっている。

 その翌日の愛城家のシーンが、マキの最初の出番である。あらすじを確認しよう。

 出かける直前の愛城家にて、マキは、華恋母から華恋に観劇させることと、引っ込み思案克服のため入団も見据えて劇団見学までさせるつもりであることを聞く。玄関チャイムが鳴り、マキは華恋に「華恋、お迎えだよ」と外出を促す。そして「でもさぁ、ほんとはお姉ちゃんが、色んな格好の華恋を見たいだけなんじゃないの?」と問う。華恋母は「うん、見たい! 見たいし、してあげたいよ。華恋の可能性が広がるなら」と答える。一方で華恋は、玄関から差し込む赤い光と開演ブザーを浴び、『戯曲スタァライト』を観て、ひかりと共に舞台少女になる。

 このシーンで目立つのは、華恋が赤い光を浴びるカットがホラー風の演出になっていることだ(*10)。華恋母の「華恋の可能性が広がるなら」という言葉に反して、舞台少女以外の可能性が閉ざされたことを感じさせる。その皮肉な悲劇性を踏まえると、段取りを詳しく知らないはずのマキが外出を促す奇妙な描写も、お迎えという死を連想させる言葉選びと相まって、マキに不穏さを付与している。そしてこの2日分の描写から、ひかりが蛇であり、マキは少なくとも蛇に協力する役割ではあると言えるだろう。

 次のマキの登場シーンは7年後の2013年、小学6年生の華恋が劇団アネモネで主役を演じた日である。

 マキは華恋母と共に華恋主演の舞台を観た後、愛城家に帰り3人で夕食を食べる。華恋がひかりに毎月手紙を送りつつも返信は見ないルールを7年間守り続けていると知って、マキは驚く。華恋にスマートフォンを差し出しひかりのことを調べるよう誘うが、華恋は拒絶する。マキはその頑なな態度に、「怖いの? ひかりちゃんが約束忘れてたら、って」と問いかける。口では否定するが動揺を見せる華恋に、マキは聖翔進学をすすめ、華恋は聖翔を目指すことを決める。

 マキのなしたこと自体はここでもほぼ理想的な大人である。華恋の主演を喜び、迷いを見抜き、具体的な目標を提案した。そのおかげで華恋は聖翔に入ることになり、ひかりとの運命の舞台の実現に繋がった。だが、彼女の仕草は、酒を飲み、華恋が知るまいとするひかりの写真の感想を声に出し、検索して禁断を破るよう誘い、「怖いの?」と揺さぶり、心を読むような目つきで見つめてくるなど、圧迫感を与えるものが続く。その結果、マキは初登場時以上に不穏な雰囲気を纏っている。

 この華恋小学校時代のシーンを失楽園テンプレートに当てはめれば、マキが蛇役となることは明らかである。無知でいるルールを守ろうとするイヴ役の華恋を誘惑し、試し、主役を演じられる劇団アネモネという楽園で満足させずに才能が競いあう聖翔へ向かわせる。禁断の実にあたる小道具はスマートフォンだろう。また、ここでも無理矢理ひかりの検索結果を見せたりはせず、決断はイヴ役である華恋に委ねられている。有無を言わさず聖翔のサイトを見せはしたが、学校選びの最終決断は願書提出や入学手続きだからだろう。ひかりを検索する誘惑は拒絶されたが、これも蛇らしさには反しない。エデンの蛇はルシファー=サタンの化身であり、新約聖書でキリストを誘惑して拒絶された荒野の悪魔とも同一だという伝承があるからだ(*11)。

 スマートフォンのデザインも興味深い。特徴的なホームボタンやSafari風のブラウザはiPhoneを思わせる(*12)。本作では禁断の実はトマトとして描かれているが、一般的にはリンゴとされることも多い。マキがApple製品であるiPhoneで華恋に知識を授けようとしたことは、マキが禁断の知恵の実を差し出す蛇役であることと符合する。そして3年後に中学生の華恋は、友人内で最後になるほど遠ざけていたiPhoneをとうとう手に入れ、禁断を破ってひかりの知識を得てしまうのである(*13)。

 同級生の少年が「別に、普通にさ、不安とか、なんかあるんじゃないの? 愛城だってさ」と言ったように、中学生の華恋には本当に聖翔を受験するか僅かな迷いが残っていておかしくない。だがその迷いは、ひかりが王立演劇学院に入学すると知ったことで消えたのだろう。マキの誘惑に3年越しに乗ることで得てしまった禁断の知識こそが、華恋が普通の喜びや女の子の楽しみがある楽園に残る最後のチャンスを潰した、或いは壁を越えるだけの熱量に必要な最後の薪となったのである。

 以上から、華恋が幼稚園児の時も小学生の時も、マキは蛇に属する役割を果たしたと考えられる。マキの不穏さは、螺旋のとぐろを“巻き”イヴを誘う蛇役であることに由来していたのだ。

 だが、iPhoneを差し出すシーンの明快さに比べ、華恋幼稚園時代のマキの“蛇に協力する役割”という位置づけは少々曖昧である。それに、シンメトリーを好むスタァライトコンテンツにしては、少女たちは蛇役もイヴ役も演じるのに大人は蛇役だけというのはアンバランスだ。初登場時のマキにもっと明確な役割を見出すことはできないだろうか。そして、イヴ役の大人は本当にいないのだろうか?

 はたして、いるのである。次章では『劇場版スタァライト』でイヴ役を演じた大人として、華恋幼稚園時代の華恋の母を名指そう。そして、この時代のマキの真の役割は、華恋母を誘惑する蛇であることも主張しよう。


*9 役作りと称される華恋の回想シーンには、掠れる東京タワーやずっと同じ母親たちの服など、所々に非現実的描写がある。観劇に向かう約束の時間に叔母がお茶を飲みに来ている点も、ありえなくはないが少々奇妙だ。よって、華恋の回想シーンは過去に忠実な描写ではなく、レヴューなどと同様に、台詞も小道具も含意があって配置されているものとして考察する。

*10 スティーヴン・スピルバーグ監督『未知との遭遇』で子供が橙色の光とともに宇宙人にさらわれるシーンにも似ている。

*11 エデンの蛇=サタン=ルシファー=キリストを誘惑した荒野の悪魔であることは、魂のレヴューの「聖者には誘惑を」という言葉やディアボルス・ウロボロスという役名とも関連が見られる。

*12 背面左にレンズが縦に3つ並ぶデザインはiPhone Xに似ているが、2017年発表である上、デュアルレンズであり、ホームボタンがない。そもそもトリプルレンズのスマートフォンは2018年のHUAWEI P20 Proが最初であるため、劇中の2013年には存在しない。だが忠実な再現は権利的問題から回避された可能性もあり、本稿では細部ではなくAppleらしさを重視する。
▶“ 世界初LeicaのトリプルカメラとAIを搭載した フラッグシップモデル『HUAWEI P20 Pro』 、満を持してドコモから登場”, HUAWEI JAPAN,  
https://consumer.huawei.com/jp/press/news/2018/news-180516/ , 公開日2018年5月16日 , (2022年8月26日最終閲覧)

*13 どこまで意図的な配置かはわからないが、小学校時代の華恋とマキのシーンは作中でもとりわけ失楽園の要素を見出しやすい。主演舞台の敵役は大蛇である点、禁断の内容が「無知を保つ」である点、禁断の実がApple製品である点、マキの加齢がはっきり描かれエデンの蛇の異名である「年を経た蛇」を思わせる点などなどである。

6.マキの失楽園テンプレートへの当てはめ:華恋母というイヴ

 華恋幼稚園時代の華恋母がイヴ役、マキが蛇役だと考える根拠は、華恋が玄関に向かった後の2人の会話にある。

 まず注目すべきは、マキの「でもさぁ、ほんとはお姉ちゃんが、色んな格好の華恋を見たいだけなんじゃないの?」だ。

 この台詞は、着せ替えゲームであるキラミラを弄びつつ発されたものだ。マキ個人は軽いからかいのつもりだとしても、仕草と合わせれば、「華恋の成長のためというのは建前で、本音は娘を着せ替え人形にしたい親のエゴでは?」という強烈な問いとして物語内に配置されたと解釈できる。

 本作では、同種の台詞を様々なキャラクターが口にする。たとえば香子の「理想論に一般論、正論ばっかの垂れ流し。(略)うっといねん、大人の理屈なんて。本音、晒せや。うっとうしなったんやろ? 表出ろや」であり、まひるの「どうして逃げたの? 一緒にいたら、華恋が甘えちゃうから? 嘘つきで、下手くそ。(略)もっと本物の台詞を、もっと、もっと、もっと、見せてよ。偽物じゃない、本物の神楽ひかりを」である。

 この問いを発するマキの役割は、華恋母に対し禁断の本音を認めるよう誘惑する蛇に他ならない。マキにとって、幼いひかりという蛇への協力者は兼ね役だったのだ。本当はマキ自身も蛇役であり、マキに本音と覚悟を問われる華恋母こそが、イヴ役を演じる大人なのである。

 そして華恋母が返した「うん、見たい!」は、双葉の「ずるい。やっぱり香子ばっかりあたしを独り占めして、ずるい。今度はあたしがワガママ言う番」であり、ひかりの「ごめんなさい。怖かったの。だから逃げたの」であり、純那の「殺してみせろよ、大場なな!」であり、真矢の「なんと醜い、感情にまみれたこんな姿!」である。少女たちは葛藤の末に弱さや欲望を晒すが、華恋母は僅かな沈黙で――ここで表情を見せない画作りが心憎い――娘を着せ替え人形にしたい己の欲望を認める。それから“赤い模様のカップで渇きを潤し”て覚悟があるという意思表示をし(*14)、「見たいし、してあげたいよ。華恋の可能性が広がるなら」と、欲望と綺麗事を統合したジンテーゼとなる結論を出す。

 この短い会話の中で、マキと華恋母は蛇とイヴの失楽園を演じており、2人の間でレヴューに匹敵するやり取りが行われたと言ってもよいだろう(*15)。もしかしたら、異空間で剣を交える少女たちのレヴューも、現実時間ではこのように僅かな瞬間で終わることもあるのかもしれない。

 それでは、マキが蛇、華恋母がイヴを演じる大人の失楽園を描いたことは、映画全体にどんな効果をもたらしたのだろうか。本稿では2つ指摘する。家族の深掘りと、螺旋的成長ループの永続性の強調である。

 1つめの家族の深掘りとは、「舞台少女の家族という立場」の深掘りである。一般に、子供の芸能活動の援助は家族にとって負担が大きく、逆にステージママ・パパの押しつけが問題になることも多い。直接的な表現だと「娘をスタァにするべくお父さんはがんばってるの」という台詞、あとは我が身を削り食べ物を渡す野菜キリンが家族も含んでいると想像できる程度だが、マキと華恋母の会話によって、家族もイヴや蛇たりえる存在であり、死と再生、本音と綺麗事の間で迷っていることがわかるのである。また、キャラクター単位では、準レヴューが行われる程のマキと華恋母の関係の強さを想像できることも魅力であろう。

 2つめの螺旋的成長ループの永続性とは、平たく言えば大人も成長できるということだ。映画全体に関わるので字数を使って説明しよう。

 本稿が用いてきた禁断という切り口で映画全体を見返すと、様々な禁断にまつわる描写が散りばめられていることがわかる。皆殺しのレヴューのななと純那の「なんだか、強いお酒を飲んだみたい」「何言ってるの、私たち未成年じゃない」は、まさに禁断破りについての会話である。「怨みのレヴュー」のトラック運転と飲む打つ買うや、映画の随所に登場するエロティックな雰囲気なども禁断に関わる描写だ(若者の性行為の是非は議論があるが)。それらに比して、マキと華恋母は夕食時にビールを飲んでいるが、彼女たちの飲酒は合法である。だが、彼女たち大人も何をしてもいいわけではない。子供のルールの外ではあっても、大人のルールを守らざるをえない(*16)。

 ここに浮かび上がるのが、禁断の外側も少し大きな禁断の内側だという多重構造だ。大人でも運転免許は取得しなければならないし、パチンコは許されても賭けポーカーは日本国外に出る必要がある。どこにでもルールがあることは当然で、普段は意識もされない。だが、『劇場版スタァライト』では、ルールを破り外に出た先にも守るべき――または守りたい――大きなルールがあるという多重構造が何度も描かれる。

 たとえばマキが華恋に提案した聖翔進学は、児童劇団レベルでの栄光や無難な学歴を失う禁断の選択だが、聖翔での研鑽はひかりと共演するという大ルールを守りやすくすることに繋がる。その6年後、本作終盤で華恋はひかりとの共演という大ルールすら放棄する覚悟を決めるが、それは舞台人として生きるという超大ルールを守ることへ繋がる。他にも例をあげよう。

 皆殺しのレヴューでななが歌う「自然の摂理」という言葉は、ルール外のルールをそのまま意味している。決起集会では、眞井が雨宮に締切を破って原稿を落とすという脚本家としての禁断破りをするように促して中庭に連れ出すが、それは一方で、集会までに書けた分だけ配るという2人の約束の遵守であり、また舞台を作る座組の一員としての進捗報告でもある。狩りのレヴューでは、禁断を破る覚悟がない純那(本作前半の純那は、香子の見学欠席や、ななの比喩的飲酒、雨宮の脚本未完成などを指摘し、禁断を破るまいとする姿勢が強調されている)がななを何重もの金網で囲い、さらに2人は校舎に囲われている。それらをななが破り、またそれを受けて純那がポジションゼロを踏み越える対決は、最後には泉に浮かぶ写真に象徴されるように2人の絆の完全破壊を防ぐ結果に繋がった。魂のレヴューでクロディーヌと真矢は契約の穴を突きあう応酬をするが、契約自体は破棄されずむしろ2人の間で永遠となった(*17)。

 このようなルールの多重構造の描写が示唆しているのは、破るべき禁断の壁が限りなく存在すること、すなわち無限の成長可能性である。本稿3章で、旧約聖書と新約聖書の再現が逆順に見えるのは螺旋的成長のループがスタァライトコンテンツのテーマだからだ、と述べたが、ルールの多重構造描写はそれを更に力強くした意味を持つ。その最たるものとして、少女たちの映画でありながら大人のマキと華恋母も失楽園を演じることにより、無限の螺旋的成長は少年少女だけが持つ「思春期の可能性(華恋の武器名Possibility of Pubertyの和訳)」ではなく、何歳になっても禁断を破り次のステージを目指し続けられる、という開放的なメッセージが発されているのである。

 また、ここでもテーマの拡張が行われている。3章で『劇場版スタァライト』は卒業物であることで舞台関係者に限らない普遍性を得たと述べたが、さらに年齢も思春期に限らないことが表現されたのだ。この念入りなテーマ拡張があればこそ、「この物語の『主演』は誰か」という問いの答えは視聴者も含めた全ての人間だと言えるのであり、『私たちはもう舞台の上』がテーマ曲に相応しいのである。

 後半4~6章をまとめる。

 失楽園テンプレートを補助線としてマキの登場シーンを見ることで、マキと華恋母のような舞台人ではない大人でも禁断を破り楽園外部へ向かえる、というメッセージが読み取れた。これは99組の行き先の果てしない苦難と成長を感じさせる福音であり、大人になる/大人になった視聴者でも死と再生による成長の余地が無限にあるというはげましでもある。また、他シーンにも失楽園テンプレートを使うことで発見される要素はあると思われるため、今後の解釈の広がりに期待したい。


*14 ピンク色に近いが、マキの水色のカップと対比すれば赤系色であり、トマトの暗喩と言える。

*15 本書10章掲載の白隼(2022)では、『劇場版スタァライト』ではレヴュー中に同じ言葉が6回使われた時に決着がつき、さらに未来を示す際にもう1回使われると考察されている。マキと華恋母のシーンでは、「華恋」がひかりのエコーとして1回とマキと華恋母の会話内で5回、観劇後の華恋母から1回発言されており、6+1回となって白隼の主張に則している。この見地でも、マキと華恋母の会話を準レヴューと見なすことができる。

*16 本稿では扱わないが、多くのルールの線引きに絶対的根拠はなく、それでいてしばしば自動的に線を越えたことになる理不尽さも、禁断の論点として興味深い。折しも本稿執筆中の2022年4月1日に日本の成年年齢を18歳に引き下げる法律が施行されたが、飲酒喫煙解禁年齢は20歳のままである。学校の卒業・退学年数にも議論がある。作中の表現をもじれば、列車は必ず“根拠が完璧でないまま決められた間隔で、強制的に”次の駅へ、というわけだ。

*17 クロディーヌが最もキラめいた瞬間は額縁というルールに収まった姿であることも注目に値する。本作では禁断破りの暗喩としての死や落下のシーンが多く、脱出や枠の破壊もほぼ同じ意味と見てよい。だが魂のレヴューでは、鳥の像は破壊されても額縁は壊されず、舞台が幾度崩壊しても最後は荒野ではなく地下らしき舞台に横たわる2人が描かれる。これらは、クロディーヌと真矢が99組でも傑出した存在ゆえに、枠を破るだけでなくその先の新たな枠組の中でトップを争う準備ができているという描写にも取れる。少なくとも、本作はとにかく禁断を破り舞台を壊せばよいというアナーキーな作品ではないことが魂のレヴューからわかる。

7.おわりに

 私たちは映画や演劇を観終えた後、劇場という楽園から外に出なければならない。それはこわくさびしく、現実を生きろという説教は強者の理屈にしか感じられないことも多い。だが『劇場版スタァライト』は、楽園の外へいざなうものを妖しくも魅力的な存在として描いている。本稿では描写の意味を理解しよわかろうと努めた。しかし、理屈がなくとも心が震えて「わかります」と呟くことはできるし、劇場から出た瞬間の外の世界が開放的な風景に見えることもある。その素朴な感覚的変化こそが、芸術が持ち得る、そして『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』が持つ大きな力なのだと筆者は信じている。


著者コメント(2023/6/21)

 Web掲載に当たっての、改めての著者コメントです。

 この考察記事を一文でまとめれば、劇スを、人間はタブーを破ることで成長し続ける存在だと語った作品と解釈し、それを説明するために、禁断の知恵の実を齧りエデンから追放されたイヴのエピソードを参考にした内容となっています。

 古い枠を破って次のステップへ行こう、というのは普遍的な物語テーマですが、現実で実行するならとても綺麗にはいかないものです。昔からのタブーを破るなと怒られる人もいれば、令和最新版モラルに反するなと怒られる人もいる。「他人を傷つけない範囲で」なんてのもは現実的ではありません――どこかの誰かはその枠組みのおかげで生きています。他の類似語としては、ルール、マナー、コンプラ、リテラシー、しきたり、慣習、常識、良識、道徳、規範、法などなどがありますが、人によっては「この呼び名だと破壊しちゃダメな気になる」となったりもして、衝突は不可避です。このように、現実のタブー破りというのは、他人を不快にさせたり傷つけたり、自分も傷ついたり燃えたりするドロドロした血生臭いものだと思います。劇スでは、破裂するトマトの果肉とかでマイルドに描かれていますけれど。

 さらに、現代のWeb社会には独特の難しさもあります。タブーを破ったことへの反発がどれほどの規模になるかわかりませんし、価値観や倫理も百家争鳴で移り変わりが激しいです。エッセイストが、物理書籍書き下ろしとWeb掲載ではWebの方がNGが出やすい、と言っているのを見たこともあります。

 それでも――むしろだからこそ、Webに何かを発表する行為に私は価値を感じます。Webで何かを述べること自体が誰かのタブーに触れかねない愚行になっているとすれば、それが愚行だからこそ勇気が必要で、その勇気には価値が見出せます。特に、断片的な呟きではなくしっかりまとまった何かを残すことは、労力もかかり、長いから読まれることも少なく、その割につっこまれやすい活動ですが、それゆえに貴重で重要だと思います。一瞬のきらめく舞台が創れるのは、知識や歴史が保存されてきたおかげですから。

 というわけで、がんばって書いた考察をWebに掲載してもらえるのが怖いけど嬉しい、という著者コメントでした。Web掲載に合わせて本文も少し加筆しましたが、その一部は、ねぼろくさんの感想note(https://note.com/nebou_june/n/n4aa8791a090d)も参考にさせていただきました。

 スタァライト公式関係者様、非公式関係者様、本合同誌主宰チームと参加者、当記事を読んでくださった方、ありがとうございました。当記事への感想、反論、引用など、大歓迎です。

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